誤解の恐怖   内村鑑三

誤解の恐怖   内村鑑三   『聖書之研究』242 1920(大正9)9 10
 
誤解せられざらん事は不可能である、此世は素(もと)より誤解の世である、故に如何なる真理、如何〔いか〕なる人たりと雖〔いえど〕も誤解せらるゝが当然である、
 
主イエスキリストが誤解せられた、パウロが誤解せられた、ルーテルが誤解せられた、而〔しか〕して今なお誤解せられつゝある、彼等は世人に由てのみならず彼等の弟子と称する者等に由て誤解せられた、又今なお誤解せられつゝある、
 
我等よし完全の人たるを得、完全の真理を宣伝(のべつた)ふるを得るとも世の誤解を免かれないのである、されば誤解を恐れずして進むべきである、時を得るも時を得ざるも真理と信ずる事を大胆に唱へて進むべきである
 
社会の誤解、教会の誤解、信者の誤解、不信者の誤解……
 
彼等は人である、故に正当に人を解する事が出来ない、
 
「我を審判(さば)く者は主なり」である(コリント前書四章四節)
 
世に愚人多しと雖も世の誤解を恐るゝ者のごとき愚人はない、しかもかかる愚人は甚だ多いのである、我れ自身がややもすれば斯る愚人と成るのである、警(いまし)むべきである。
 
コリント4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
 
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西洋あじさい という。