内村鑑三 マタイ伝 23講

23 マタイ伝
信者と現世
馬太伝五章十三―十六節の研究
〔マタイ〕大正3410日『聖書之研究』165 署名内村鑑三
 
二月十五日、柏木聖書講堂に於て為せし講演の主要部分
 
信者は地のものではない、天のものである、世のものではない、キリストのものである、然しながら、彼は今なほ現世に在る者である、故に現世と深き関係に於て在る者である、信者が現世(このよ)に対して採るべき態度如何(いかん)、信者は現世のために何を為すべき乎、又何を為し得る乎(か)、是れキリストがここに教へ給ふ所である。
エスは言ひ給ふた汝等は地の塩なりと、又汝等は世の光なりと。
汝等は地の塩なり
地は下の世界である、上の天に対していふ、地もまた神の造り給ひし者である、故に善きものである、然し乍ら、肉の人を宿す所なるが故に甚〔はなは〕だ腐敗し易くある、実に腐敗し易きは地の特性である。
時に地、神の前に乱れて暴虐(ぼうぎゃく)地に満ちたり
とは既〔すで〕にノアの時に於ける其状態であつた(創世記六章十一節、邦訳に「世」とあるは誤訳である)、又ヱホバ天より(地の上なる)人の子をみたまひしに、彼等は悉〔ことごと〕く腐れたりとある(詩篇十四篇二、三節)、地は暫時的(ざんじてき)のものである、天の如くに永久的のものでない、故に腐れ易くある、故に腐敗を止むるために常に防腐剤を要するのである。
塩は昔時の唯一の防腐剤である、塩に由て食物の味は保存せられ、其腐敗は防遏(ばうあつ)せられたのである、而〔しか〕して信者は腐敗し易き此地の防腐剤であるとのことである。
事は至て平明である、然し凡(すべ)て深遠にして普遍的なる事は平明である、イエスの弟子に由て地の味は保存せられ、其腐敗は止めらるゝのである、信者が信者の職務に忠実ならずして、地の腐敗は其底止する所を知らないのである。
地は腐れ易くある、然し乍ら、腐れ易きは其中に生命があるからである、生命の無い所には腐敗は無い、腐敗は生命の徴候である
地に生命の在ることは事実である、福音の到らざる所にも道徳がある、人倫がある、福音無くして道徳あるなしと云ふは大なる過誤(あやまり)である、福音以前に、希臘羅馬(ぎりしやろーま)に、支那日本に、善き高き道徳があつた、又福音以外に、仏教に儒教神道に清き深き倫理がある、真理と生命とは基督教のみに限らない、全地は神の栄光を現はして居る、真、善、美の或る反照(はんしょう)は之を地上何れの所に於ても認むることが能る、而して是れ悉(こと〴〵)く神の賜物であつて、保存し、尊重し、感謝して受くべきものである。
然し乍ら地の生命は甚だ腐れ易くある、其新鮮なる時期は短く、其溌溂(はつらつ)たる期間(あいだ)は少時(しばし)である、地上の生命は忽焉(たちまち)にして腐敗し、暫時(しばらく)にして硬化す、恰(あた)かも人生の短かきが如くである、其繁栄(さかえ)は槿花(きんくわ)一朝の夢である。茲に於てか塩の必要があるのである、既存の善事を保存し、其美を発揚し、之をして更に地の涵養(かんよう)を助けしむる或者の必要があるのである而して神の生命の言辞(ことば)を心霊(こころ)に受けし信者が地の此必要に応ずるのであるとの事である、信者に由りて福音以外の諸徳、信者以外の諸善が保存せられ、発揮せられ、流布せらるとの事である。
而して此事は世に隠れなき事実である、キリストの福音に由て旧道徳と旧信仰とは真正(ほんたう)の意味に於ての復活を見るのである、イエスは此事を教へて直ぐ後で曰ひ給ふた、
我れ律法(おきて)と預言者とを廃(すつ)る為に来れりと思ふ勿(なか)れ、我れ之を廃(すつ)る為に来りしに非ず、成就(じょうじゅ)せん為なりと(五章十七節)、而して此事たる旧約の律法と預言者とに限らないのである、凡(すべて)の宗教又は道徳に於て然るのである、希臘羅馬(ぎりしやろーま)の旧き道徳も、印度の仏教、婆羅門(ばらもん)教も、支那儒教も、波斯(ぺるしゃ)の火教も、イエスの福音の塩に接して其真価を認められ其真髄を発揮せられたのである、東洋諸国に於て福音は儒教と仏教とを廃せずして返〔かえつ〕之を起したのである、今や最も該博(がいはく)なる仏教研究は仏教国に於て行はれずして基督教国に於て行はるゝのである、今や最大の仏教学者は印度又は日本に於てあらずして英国又は仏国又は独逸〔ドイツ〕に於て在るのである、モニエー・ウイ
リヤムス氏の如き、マツクス・ムラー氏の如き、其他世界的仏教学者の多数(おほく)は誠実なる基督信者あつたのである、而して又我国の神道に就てさへも、アストン氏の如き、ノツクス氏の如き、又自身は基督信者に非ずと称するも
而かも同じ基督教国の産なるチヤムバレーン氏の如きが、世界的眼光を以て其研究に従事し、比較宗教学的に其蘊奥(うんおう、おくふかいところ)を探りて広く之を世界に紹介せしに照らして見ても、キリストの福音の亦決して神道の破壊者でないことを知るに足るのである。
而して余輩は亦同一の事を宗教以外の事に於て見るのである、日本国に於て二宮尊徳上杉鷹山日蓮上人等
の世界的価値と偉大とを認めて之を世界に紹介した者は何人である乎〔か〕、彼等は皆な明白に自身はイエスの弟子なりと表白する人等ではない乎、仏教徒には外教徒なりとて憎まれ、自称愛国者等には国賊なり逆臣なりと唱へられし基督信者が起て日蓮上人はモハメツトに勝り、ルーテルに匹敵すべき大宗教家である、二宮尊徳は万国の敬崇を惹くに足るの農聖人であると言ひて、日本人の精神的偉大を世界に対(むか)つて鳴らした者ではない乎、イエスの弟子は孔子の弟子又は釈迦の弟子を憎みて彼等を葬り去らんと欲する者ではない、其正反対が事実である、塩が食物の味を保蔵するが如くにイエスの弟子は他宗他教の真理を保蔵し且つ発揮するのである、仏教も儒教も、其他のすべての宗教も、イエスの福音に由て永く地上に保存せられて、其放つべき光を放つのである。
基督教は忠孝道徳の破壊者なりとの邦人の套語(たうご、きまりもんく)に就ては茲(ここ)に之を答弁するの必要はない、忠孝道徳を破壊する者は基督教ではない、忠孝道徳は基督教を俟(ま)たずして破壊されつゝあるのである、収賄(しゅうわい)の故を以て君国の名を世界に向つて辱(はず)かしめし者は基督信者では無かつた、放埒(ほうらつ)の故を以て本山の存在を危くせし者は基督教の僧侶では無かつた、忠孝道徳をかまびすしく口にする者必しも忠臣孝子では無い、能く国民の義務を尽す者、其人が真正の忠臣である、能く家名を辱かしめざる者、其人が真正の孝子である、其意味に於てイエスの弟子は釈迦の弟子又は孔子の弟子に勝ることあるも、劣ることなき忠臣孝子であると思ふ、主の主なる真の神に事(つか)ふる者が斯世の君に対して不忠でありやう筈はない、愛なる神を父として有つ者が肉体の父母に対して不孝なる筈は無い、忠孝道徳破壊の故を以てイエスと彼の福音とを誹謗(ひぼう)して止まざる我国の道徳家は、イエスの福音の全然排斥せらるゝ所に於て忠孝道徳の歳々(とし〴〵)に廃(すた)れ行く其理由を説明すべきである。
汝等は地の塩なりとイエスは其弟子等に対つて言ひ給ふた、即ちイエスの弟子等は斯世に在りて万般(すべて)の善事(ぜんじ)の保全の任務に当るべき者であるとの事である、単に腐敗を防止むるに止(とど)まらない、能く味を保存する、塩の用は茲にある、信者の用も亦(また)茲に在るのである、保全と防腐、新生命を供するに先だちて旧生命を保存する、神は最大の経済家である、神は御自身の能力を濫用し給はない、彼は其独子を以て新生命を人に賜ふに先だちて、彼が前に斯世の聖人又は義者を以て賜ひし旧生命を保存し給ふ、少しも失はざるやうに其余の(パンの)屑を拾集めよそのあまりくづひろひあつ
とイエスは曾〔かつ〕て弟子等に言ひ給ふた(約翰〔ヨハネ〕伝六章十二節)、残肴(ざんかう)の拾集保存(しうしふほぞん)は信者の役目の半分である。
汝等は世の光なり
上の天に対して下の地がある、光明の来世に対して暗黒の現世がある、而して信者は下の地に対しては塩であり、暗黒の現世に対しては光であるとの事である、塩としては既に地に在る善きものを保存し、光としては未〔いま〕だ世に有らざる天の光を加ふ、旧(きゅう)を保存するを以て満足せず、更らに進んで新(しん)を増進す、信者は保守家であると同時に進歩家である、保守に偏らない、然ればとて進歩にも偏(かたよ)らない、ユダヤ人の如くに単へに旧に縋らない、然らばとてギリシヤ人の如くに唯〔ただ〕新をのみ是れ追はない、守るべきを守り、進むべきに進む、地の塩であると同時に世の光である、保守進歩の両主義を一身に体(たい)する者である。
エスの弟子は世の光である、文明の先導者である、智識の開発者である、霊光の供給者である、此事に就て疑(うたがい)を懐(いだ)く者は無い、世の所謂〔いわゆる〕基督教に迷信が無いではない、所謂〔いわゆる〕基督教会なる者が頑迷無智の巣窟と化したる
事は幾回もある然れども過去千九百年間の人類の歴史に於てイエスの弟子が光明(たいまつ)の炬火の把持者(もちて)であつたことは如何なる人と雖も疑はんと欲して能はざる所である、信仰道徳の事に於てのみではない、科学の事に於て、産業の事に於て、思想のことに於て、美術のことに於て、パウロの言辞(ことば)を藉(か)りて言ふならば、凡
凡そ敬ふべきこと、凡そ義しきこと、凡そ愛すべきこと、凡そ善き聞えある事に於て、常に荊棘(けいきょく)の開拓者として、又新光明の注入者として進歩の先陣に立ちし者の、ナザレのイエスの忠実なる弟子でありしことは炳乎(へいこ、あきらかに)として天空に太陽が輝くが如くに明瞭である(腓立比〔ピリピ〕書四章八節)、世界の文明国を称して一名之を基督教国と呼ぶは決して理由の無い事では無い、我は世の光なりとイエスは言ひ給ふた、而して信者はイエスに代りて世を照らす者である、勿論イエスの如くに自から光を放つ能はずと雖も、而かも各自の信仰の量に循(したが)ひ彼の光を反射する者である、イエスの光を身に受けたる彼の弟子が無くして世は夙く既に常暗(とこやみ)の世と化し去つたことは何よりも明かである。
信者は地の塩であり又世の光であると云ふ、然し乍ら信者自身が塩であり又光であるのではない、彼をして塩たらしめ又光たらしむる者は彼の衷(うち)に宿り給ふ彼れ以外の或者である、彼が彼の衷に宿り給ふ間は彼は実(まこと)に塩であり光であるのである、然し乍ら、彼にして一朝彼を離れ給ふ場合には彼は味を失ひたる塩となり、又光の失せ
たる燈となるのである、故に信者は自から輝かんと欲して輝くことは出来ない、彼は彼の衷に輝く大光をして故障なく外に向つて輝かさしむれば足りるのである、イエスを離れたる信者は味を失ひたる塩であつて、後は用なく、人に践まれんために外に棄らるゝ而已(のみ)である、自己が輝くにあらずして、自己が衷に宿り給ふイエスが輝くのであるが故に、人々は信者の善行を見て、信者を誉めずして、イエスの父にして信者の父なる天に在す父を栄(あが)むるのである、イエスの弟子と云ふは孔子の弟子又はソクラテスの弟子と云ふとは全く其趣(おもむき)を異(こと)にする、イエスの弟子はイエスに効ふ者たるに止まらずイエスの宿る所の者である、基督者である、小基督である、故にキリストを離れては無に等しき者である、イエスの弟子が地の塩であり、世の光である其原由は全く彼の衷に宿り給ふ生命の主にして世の光なる主イエスキリストに在るのである、故に我等有力なる塩となり、又強大なる光と成らんと欲(おも)はゞ、信仰を以て益々確実にイエスの内在を祈求(もと)むべきである。
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