内村鑑三 マタイ伝 53ー2講地上の教会に関するイエスの比喩的予言-2

53-2 マタイ伝
 
地上の教会に関するイエスの比喩的予言-2
馬太伝第十三章の研究(四月廿八日東京数寄屋橋教会に於て)
明治45510 『聖書之研究』142   署名内村鑑三
 
基督教会は外に成長して此世の権者の宿る所となるべしとは芥種の比喩の教ふる所である、而して同じ教会が内に腐敗し、其腐敗全身に及ぶべしとは第四の比喩、即ち麪酵(ぱんだね)の比喩の示す所である。エス又比喩を彼等に語りて曰〔い〕ひけるは天国は麪酵の如し、婦之を取り三セアの粉の中に蔵(かく)せば悉く脹(ふく)れるなり(第卅三節)
麪酵は聖書に於ては常に悪しき意味に於て用ゐらる、イエスは弟子等を戒しめて曰ひ給ふた、汝等パリサイとサドカイの人の麪酵を慎めよと(馬太〔マタイ〕伝十六の六)、而〔しか〕して彼等に麪酵の何たる乎〔か〕を問はれて、彼は其のパリサイとサドカイの人の教であることを以て答へ給ふた、路加〔ルカ〕伝に依れば汝等パリサイの人の麪酵を慎めよ、是れ偽善なりとある(十二章一節)、又パウロはコリント人に書送つて曰ふた、汝等の誇るは宜しからず、少許(すこし)の麪酵全団(かたまり)を脹発(ふくらま)すを知らざる乎、汝等は麪酵なき者なれば旧(ふる)き麪酵を除きて新らしき団塊(かたまり)となるべしと(哥林多〔コリント〕前書五の六、七)、又同じ事が加拉太〔ガラテヤ〕書五章九節に書いてある、悪しき精神、悪しき主義、偽善、傲慢〔ごうまん〕、誤謬〔ごびゆう〕、是れ皆な麪酵である、故に麪酵の比喩は天国、即ち此場に於ては地上の教会の悪しき方面を示す所の比喩であることは明かである。
麪酵(ぱんだね)の比喩(たとへ)は教会の腐敗を示す者である、麪酵は教会を腐らする者で此世の精神である、芥種の比喩に由て此世の精神の既に教会に入りしことが示された、而して麪酵の比喩は更らに明白に此腐敗の普及を示す者である、教会は俗化するであらふ、此世の精神を以て其精神となし、此世の方法を以て伝道に従事し、此世の理想を以て其理想となし、而して牧者も羊も、導く者も導かるゝ者も終に之を意とせざるに至り、教会は俗了して此世と何の異なる所なきに至るであらふとは麪酵の比喩の示す所である。
婦之を取り三セアの粉の中に投ずれば悉く脹(ふく)れるなりと、「婦」は教会である、麦粉三セアは其二斗二升五合余であつて婦人の手にて捏(こ)ね得る適宜の量である、其中に麪酵一匙〔さじ〕を投ずれば、全団(かたまり)は之に化せられて醗酵すると云ふ、洵〔まこと〕に少許(すこし)の麪酵全団を脹らすである、教会の俗化するは車の坂を下るが如くに易くある、信仰は努力を要し、間断なき警戒を要する、而して一朝警戒の弛(ゆる)む時に俗気入り来る、富に頼む、権に阿(おもね)る、学識を衒(てら)ふ、策略を弄〔もてあそ〕ぶ、信、愛、望以外のすべての権能を用ゐんとする、是れが俗化である、醗酵である、腐敗である、堕落である、聖書の明白なる教訓(おしえ)は此世に効(なら)ふ勿〔なか〕れ、汝等神の全く且〔か〕つ善にして悦ぶべき旨〔みこころ〕を知らんがために心を化へて新たにせよとあり(羅馬〔ロマ〕書十二の二)、又此世或ひは此世に在る物を愛する勿れ、人もし此世を愛せば父を愛するの愛その衷(うち)に在るなしとある(約翰〔ヨハネ〕第一書二の十五)、然るに其精神に於て、其手段に於て、全然此世に効ふに至て教会は全然此世の麪酵(ぱんだね)に化せられたのである。
教会は腐敗するであらふ、真理は俗気の隠蔽する所となりて、真正(まこと)の信仰は教会の中に在りてさへ嘲けらるゝに至るであらふ、然らば福音の真理は終に此世より失する乎と云ふに決して爾うではない、而して俗了せる教会の中に真理の新発見あることを示したる者が第五の比喩、即ち蔵(かく)れたる宝(たから)の比喩(たとへ)である、
又天国は畑に蔵(かく)れたる宝の如し、人、看出(みいだ)さば之を秘(かく)し喜び帰り其所有(もちもの)を尽〔ことごと〕く売りてその畑を買ふなり(マタイ伝十三-四十四節)、神の畑たる教会は今は俗人の践荒(ふみあら)す所となり、真理は其上に繁茂する能はずして土中に埋没せらるゝに至らむ、真の福音は今や教会に在りても蔵(かく)れたる宝と成らむ、然(しか)れども匿(かくれ)たるにして顕(あら)はれざるはなしである、燈火は永久に斗(ます)の下に置かるべきではない、或人は終に之を看出すであらふ、而して看出さば喜びの余り之を秘(かく)し、其所有のすべてを投じても之を己が有(もの)となさんとするであらふと、教会に於ける真理の新発見、エルフルトの寺院に於てルーテルが蔵れたる聖書を発見せし時、其時に教会内に於て蔵れたる真理の新発見があつたのである、而して彼れルーテルが千五百年来 在来(ありきた)りし聖書を抱きて、「是れ我が書なり」と言ひて新たに宝を獲しが如くに喜びし時に、其時にキリストの此比喩(たとへ)は文字通りに成就(じょうじゅ)されたのである、而してルーテルの聖書発見に類する事は其後と雖も幾回(いくたび)もあつた聖公会の腐敗が其極に達せし時に、ウェスレー兄弟の聖書の研究に由て福音は新たに英国に起つた、教会が此世の哲学と社会改良と儀式と交際とに心酔してキリストの福音を其下に埋没する時に、神は或人を起し、彼をして新たに之を発見せしめ給ふのである、禍〔わざわ〕ひなる哉〔かな〕荒果てたる教会、貴ぶべき哉〔かな〕蔵れたる福音、而して福〔さいわ〕ひなる哉其の新発見の栄誉に与〔あずか〕りし人、蔵れたる宝の比喩(たとへ)は暗黒の裡〔うち〕に光明を認め、絶望の裡〔うち〕に希望を伝へし激励慰藉の言葉である、予言者イザヤの曰へるが如く(以賽亜〔イザヤ〕書廿一章十一、十二節)、人あり我を呼びて曰ふ、斥候(ものみ)よ、夜は今何時〔なにのとき〕ぞと、答へて曰ふ朝来ると、イエスは此比喩を以てイザヤの此心を宣べ給ふたのである、教会の俗化其極に達する時に福音の新発見がある、朝は夜に次いで来ると、パウロも亦此感を述べて曰ふた 夜すでに央(ふ)けて日近〔ちかづ〕けり、故に我等暗昧(くらき)の行(わざ)を去りて光明(ひかり)の甲(よろい)を衣(き)るべしと(羅馬〔ロマ〕書十三章十二節)、教会の腐敗は歎ずべしとするも、神は腐敗を以て其聖業(みしごと)を終り給はない、信仰の復興は必ず来る、而して真理は埋(うずも)れて腐敗の下に在る、其発見の特権に与かる者は誰ぞ?蔵れたる真理の発掘がある、而して其真理は優(すぐ)れて貴き者である、すべての他の宝に勝さりて貴き者である、而して福音の真理の貴さを示したる者、是れが第六の比喩、即ち真珠の比喩である、又天国は好き真珠を求めんとする商人(あきうど)の如し、一つの価値(あたひ)高き真珠を看出さばその所有を尽く売りて之を買ふなり(第四十五、四十六節)、真珠に大なるがある、小なるがある、純なるがある、不純なるがある、一個の好き真珠は千百の尋常(よのつね)の真珠よりも貴くある、其如く真理に又大なるがある、小なるがある、絶好なるがある尋常なるがある、哲学がある、詩歌がある、科学がある、美術がある、真理は一にして足りない、然れどもキリストの福音の真理に較〔くら〕べて見て他の真理はすべて悉く平凡の真理である、地上の真理である、此世の真理である、肉と共に消失する真理である、福音の真理のみ惟(ひと)り天国の真理である、永久の真理である、霊と共に不滅なる真理である、此世のすべての智識、すべての技術を合はして、其価値は福音のそれに当るに足りない、宇宙唯一の真理とは是れである神が人の罪を赦し、彼を再たび子として扱ひ給ふとの真理である、之を看出して何人も之に全注意を払ひ、全身全力を献げて其理解会得を計らざる者は無い、世に研究の種類多しと雖も福音即ち聖書の研究の如く深くして広き者はない、人は神学の研究と称して笑ふならんも、而かも神学は今に至るも尚〔な〕ほ「智識の女王」である、世界最大の智識は神学の上に注がれた、人類最大の問題は宗教問題である、而して宗教問題は畢(つま)る所基督教問題である、世に神学が疎(うとん)ぜらるゝ時がないではない、今の時の如きは其一つである、今や科学と社会学と、政治学と理財学とは神学を圧倒しつゝある、然れども此状態は永く続くべきではない、人はパンのみにて生くる者に非ず、唯神の口より出るすべての言に因るとの真理は今も尚ほ変らない、キリストの福音は遠からずして復〔ふた〕たび文明世界の研究の最大題目となるに定(きま)つて居る、アウガスチン、アンセルム、トーマス・デ・アクイナス等の如き謂〔いわ〕ゆる智的巨人が再たび其巨大なる頭脳を絞りて基督教の諸問題を研究するに至る其時の到来は決して遠くは無い、視よ、今や既に独逸〔ドイツ〕に於てはルードルフ・オイケンの如き、仏国に於てはヘンリ・ベルグソンの如き碩学〔せきがく〕の出るありてキリストの福音は再たび其根柢より攻究せられつゝあるに非ずや、世界唯一の価値(あたひ)高き真珠は今も尚ほキリストの福音である、而して真理と自由と永生とを愛する者は今も尚ほ其所有(もちもの)を尽く売りて之を買はんとしつゝある、教会の腐敗の如き敢て之を眼中に置くに足らない。失望を以て始まりし主イエスの此予言は希望を以て終つた、世は容易に耳を福音に傾けざるべし、唯〔ただ〕其少数者のみ信者たるべしとは第一の予言であつた、此少数者に由て成りし教会は終りまで偽善者の巣窟として存するならんとは第二の予言であつた、此教会は急速に成長して此世の権者富者等、雲上の鷲(わし)、鷹(たか)、梟(ふくろう)等の棲む所となるべしとは第三の予言であつた、内の腐敗は外の成長に伴ひ、教会全体が俗了し世間化すべしとは第四の予言であつた、然し腐敗は永久に真理を隠蔽する能はず、俗気に埋(うずも)れる福音の真理は終に再たび発掘せられて世に光明を放つに至るべしとは第五の予言であつた、而して回復されたる福音の真理は宇宙唯一の真理として尊重せられ又攻究せらるべしとは第六の予言であつた、然らば事の終局は何んである乎、是れ第七の比喩、即ち引網(ひきあみ)の比喩(たとへ)の示す所である、又天国は海に打て各様(さま〴〵)の魚を漁(と)る網の如し、既に盈(みつ)れば岸に引上げ坐(すわ)りて其善き者は之を器(うつわ)に入れ、悪しき者は之を棄るなり、世の終末(おわり)に於ても此〔かく〕の如くならん、天使等来りて義者の中より悪者を取別(とりわ)け之を炉の火に投入(なげい)るべし、其処(そこ)にて哀哭(かあしみ)切歯(はがみ)する事あらん(四十七―五十節)。『天国即ち地上に於ける教会は是れ理想の天のホームではない、各様(さま〴〵)の魚を漁(と)る網の如き者である、其中に善き者も入れば悪しき者も入る、而して悪しき者は終に焼かれて善き者は保存さる、理想の天国は善悪の分別(ぶんべつ)を経て後に臨(のこ)る、今は忍耐の時である、試練の期(とき)である、霊魂研磨の期(とき)である、今の期(とき)に完全を望んで我等は失望せざるを得ない、「終末(おわり)まで忍ぶ者は福ひなり」、収穫は播種の期に望むべからず、成長の期に雑草の妨害は免かるべからず、終末、復活、裁判、新らしきヱルサレム……信者の希望は茲に在る、彼の忍耐は之に基づく、慰めよ汝等小なる群(むれ)よ』とは主が特に其弟子等に向て語り給ひし此比喩の意義である、使徒ヤコブの言を以て言へば兄弟よ忍びて主の臨(きた)るを待つべし、視よ農夫地の貴き産を得るを望みて前と後との雨を得るまで久しく忍びて之を待てり、汝等も亦忍べ、汝等の心を堅くせよ、そは主の臨(きた)り給ふこと近づけば也となるのである(雅各〔ヤコブ〕書五章七、八節)、引網の比喩は信者慰藉のための比喩である、不信者に其永久的刑罰を知らするための比喩ではない、我等は第三十六節に「遂〔つい〕にイエス衆人を帰へして家に入り云々」とあるに由り第五以下の比喩の弟子に向て語られし者なることを忘れてはならない、主イエスは不信者を嚇(おど)して悦び給ふやうなる教師ではない、彼は茲に弟子等に来らんとする教会の困難と危険と堕落と腐敗とを予め告げ給ひて、彼等が之を以て失望落胆せざらんがために更らに此奨励の比喩を語り給ふたのである。
驚くべきかな此予言、七つの比喩は黙示録に於ける七つの巻物又は七つの箛又(らっぱ)は七つの金椀(かなまり)の異象(しるし)の如き者である、地上に於ける教会の進路を七段に分ちて観察したる者である、而して我等は過去の歴史に由て其第七段を
除くの外は悉く文字通りに実現されたのを見た、又我国に於けるが如く教会建設の日尚ほ浅き所に於ては、其、
徐々として実現されつゝあるのを見るのである、イエスは所謂〔いわゆる〕楽観家(オプチミスト)ではない、彼は始めより彼が地上に植え給ひし福音が遭遇すべき困難を知り給ふた、彼は其最後の勝利を信じて疑ひ給はなかつた、然し勝利は輒(たやす)く得らるゝ者でないことを知り給ふた、始めに不信者に擯斥〔ひんせき〕せられ、次ぎに信者に誤表せられ、更らに不信者に利用せられ、信者に埋没せられ、然る後に再たび甦(よみが)へりて天上天下の最大勢力たるべきことを前知せられた、之に類したる予言は聖書の他の所にも有る、黙示録の如きは其始めより終りまで同一の予言を詳細に述べたる者であると
言ひても差支は無い、深く聖書を探りて我等は福音の真理のために如何なる困難に遭遇するも敢て失望しないのである。