内村鑑三 マタイ伝 60講 イエスの変貌

60 マタイ伝
エスの変貌
(東京神田バプチスト中央会堂に於て六月二日) 馬太伝十七章一―八節
大正7710  『聖書之研究』216   署名  内村鑑三述藤井武記
 
聖書は如何〔いか〕なる書なる乎〔か〕を説かんと欲せば必ずや聖書を以てしなければならない、聖書を閉ぢて聖書を語らんとするは無益の労力を費すものである、ルーテル曰〔いわ〕く「聖書の終る所は基督教の終る所である」と、然〔しか〕るに多くの基督者の中には聖書を重んぜずして「聖書には爾(し)かあらんも我は之を信ずる能(あた)はず」と言ふ者がある、然らば実に此人を如何〔いかん〕ともする能はずである、基督者の信仰又は実験は聖書を離れて之を語る事が出来ない、聖書を如
何程迄重んずる乎に依て基督者の態度は自〔おのずか〕ら定まるのである、再臨を信ずるといひ又信ぜずといふ、然しながら事は単に再臨問題ではない、聖書問題である、再臨問題は今や進んで聖書問題に移つたのである、汝の聖書観を示せよ、然らば汝の信仰は明白ならん、聖書を如何に解釈する乎、イエスの変貌又はラザロの復活等の記事を如何に解釈する乎、之を客観的の事実と見る乎はた主観的の解釈を施さんと欲する乎。
エスの変貌及び之に関する凡〔すべ〕ての出来事は今日我等の実験に於て見る事を得ざる現象である、或る高き山の上にてイエスの状(かたち)変り顔は日の如く輝き衣は光の如く白くなれりといひ、モーセとエリヤ現はれてイエスと語れりといひ、雲より声ありて「之は我が愛(いつく)しむ子わが悦ぶ者なり、汝等之に聴け」と曰(い)へりといひ、是れ皆近代人の信ずる能はざる事実である、故に近代の聖書学者は種々なる解釈を試みて之を説明し去らんと力〔つと〕むるのである、
英国の聖書学者にして世界的名声を有するW・H・ベンネツト氏の馬可〔マルコ〕伝に関する論文中に示せる説明の如きは其代表的なるものである、曰く「「高き山」とはシナイ山ならん、何となれば此れイエスの将に〔まさ〕ヱルサレムに赴きて非常なる苦痛を経んとする時なれば、彼は故(ことさ)らに歴史的聯想の伴へるシナイ山迄弟子等を伴ひて旅行したるならん、而〔しか〕して時は多分夜なりしならん、イエスはゲツセマネの園に於けるが如く一人進み出でゝ祈りしならん、かくて熱(あつ)き祈を献げつゝある時忽〔たちま〕ち月光雲より漏れしか又は電光閃〔ひら〕めきてイエスを照し其顔と衣とを純白に映
出したるならん、モーセとエリヤ現はれたりとはイエスが大声にて祈れる間にモーセ及びエリヤに就て語りし其声を弟子等が聞きたるに由るならん、若〔も〕し弟子等此二人の形を見たりとせば恐〔おそ〕らくイエスは其夜弟子等の知らざる何人かと会見の約束ありて山上にて彼等と語りしに由るならん、何(いずれ)にせよ弟子等は予〔かね〕てイエスを恐るゝ事甚〔はなは〕だしく平常彼が祈祷の場に近づく事を許されざりしも当夜は彼の側(かたはら)にありて其の血を流すが如き熱烈なる祈祷を聴き恐怖の余り戦々競々たりしが為め聖書に伝ふるが如き印象(いんしやう)を受けたるならん」と、是れ有名なるベンネツト氏の変貌に関する解釈である(ゼ・エキスポジトル雑誌第十巻二二〇頁以下を見よ)
若しイエスの変貌にして斯〔かく〕の如きものならん乎そは我等の霊の為めに果して何等の教訓を与ふるのである乎、加之〔しかのみならず〕此解釈の基づく所は一として仮説ならざるはない、高き山はシナイ山ならんといひ弟子等は恐怖の余り神経過敏なりしならんといひ、イエスは祈の中にモーセとエリヤの名を呼び給ひしならんといひ、殊に弟子等の
知らざる或人と会見したりしならんといふが如き之を常識ある平信徒に訴へて其の全く価値なき頭脳(へっど)の産物たるは明白である、斯〔かか〕る迂遠にして且〔かつ〕根拠なき説明は到底人心の生きたる要求に応ずる事が出来ない、我等の貴き霊は之を幾多の仮説を以て築き上げたる信仰の上に託する事が出来ないのである、斯の如き曲折したる解釈を施さんよりは寧ろ是等の記事を全然葬り去るに如かずである。何故に「ならん、ならん」と言ひて空しき仮説を重ぬるのである乎、何故に記事其儘〔そのまま〕を信じないのである乎、聖書は本来其儘に信ずるやうに書かれしものである、之を頭脳を以て了解せんと欲するが故に多くの仮説を要するのである、頭脳(ヘッド)を以てせず心臓(ハート)を以てせよ、知識を以てせず信仰を以てせよ、然らば何の仮説をも要せずして聖書の記事其の儘を信ずる事が出来るのである、而して其記事より大なる教訓を獲るのみならず是に由て聖書の他の部分も亦明白にせられ依て以て信仰を強められ希望を確(たし)かめられて我等の実際生活を一変するに至るのである、聖書を神の言として其儘に信じて初めて之を霊の糧とする事が出来る、是即〔すなわ〕ち我等の立場である。
然らば変貌の記事が教ふる所の真理は何である乎、先づ第一に変貌はイエスの復活即ち其の身体の栄光的変化の前表である、而して又我等凡ての信者に及ぶべき最後の救拯(すくい)の実例である、我等も亦何時(いつ)かは変貌のイエスの如くに栄光化せしめらるゝのである、故に変貌を信じて復活を信ずる事は一層容易となるのである。
今仮りに卑近なる一例を取らん乎、蚕児(かいこ)既に地の上を匍(は)ふの時過ぎて新らしき生活状態に入らんとする時即ち其上簇〔じようぞく〕の時期に於て試みに其体を観察すれば汚物悉〔ことごと〕く除去せられて全身透明なる黄金色を呈し栄光化せるを
見るのである、イエスの身体も亦斯の如く次第に栄光化して遂〔つい〕に昇天すべきであつた、何となれば彼の生涯には絶えて罪なかりしが故である、人は始めより死せざるべからざる者ではない、死は罪の結果である、人若し全く罪を犯さゞりしならんには彼は死の苦(にが)き経験を通過せずして自然に復活の状態に移るべかりし筈(はず)であつた、然し乍〔なが〕ら凡ての人罪を犯したるが故に死は人類の運命となつたのである、唯〔ただ〕イエスのみは罪を犯さなかつた、故に彼のみは我等と共に死するの要なく其身体は自然に栄光化すべきであつた、而して変貌は実に此栄光化の発端である、彼の自然的昇天の近づきし徴候(しるし)である、「かくて彼等の前にて其状変り其顔は日の如く輝き其衣は光の如く白くなりぬ」とある、然り、之れ罪なき身体に臨むべき当然の状態であつた、我等は茲〔ここ〕に何の仮説をも設くる事なくして其儘〔そのまま〕之を信ずる事が出来るのである。
然らばイエスは何故に此時昇天し給はざりし乎路加〔ルカ〕伝九章三十一節の伝ふる所によればモーセとエリヤ現はれてイエスと語りしは「彼のエルサレムにて世を逝〔さ〕らんとする事」に就てゞあつたといふ、「世を逝〔さ〕らん」とは原語にてexodus エキゾダス即ち「通り抜ける事」である、希臘〔ギリシア〕語の前置詞ek apo と異なり後者は或者を避くるの意あるにエツクアポー反し前者は其中を貫通して過ぎ行くの意を有する、イエスモーセ及びエリヤと共に己がexodus に就て語り給へりといふ、即ち彼は本来死を避けて自然に昇天すべかりし筈なるに却〔かえつ〕てヱルサレムに於ける最も苦しき死を貫
通して行かんとする事に就き語り給うたのである、イエスに取て死は避け難き事ではなかつた、彼は変貌の山より其儘昇天し得たのである、然れども彼は我等と最も深き同情的関係に入らんが為め殊更(ことさら)に死を通過するの途(みち)を選び給うたのである、是れ我等に取て無上の慰藉(なぐさめ)である、イエスキリスト我等の為に死せりといひて単に三十年五十年の生命を棄て給うたのではない、死を通過せずして済むべき御自身を強ゐて死の中に投じ給うたのである、
エスの犠牲の深き意味は全く此処〔ここ〕にあるのである。
然し乍ら其れのみではない、変貌の出来事よりして我等は更に福(さいわひ)なる光を獲る事が出来る、変貌山上の光景はキリスト再臨の時に於ける信者の状態のtableau(タブロー活人画)である、パウロ曰く、「見よ、我れ汝等に奥義を告げん、我等は悉く眠るにはあらず、終(をわり)のラツパの鳴らん時みな忽ち瞬(またた)く間に化せん、ラツパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦〔よみがえ〕り我等は化するなり云々」と(コリント前書十五章五十一五十二節)、又曰く「我等主の言をもて汝等に言はん、我等の中主の来り給ふ時に至る迄生きて存(のこ)れる者は既に眠れる者に決して先だゝじ、それ主は号令と御使の長(をさ)の声と神のラツパと共に自〔みずか〕ら天より降り給はん、其時キリストにある死人先づ甦り後に生きて存(のこ)れる我等は彼等と共に雲の中に取り去られ空中にて主を迎へ斯くていつ迄も主と偕〔とも〕に居るべし云々」と(テサロニケ前書四章十五節以下)、主再び来りて信者を迎へ給ふ時既に眠れる者は復活せしめられ現に生くる者は其儘化せられて彼
と共に相見る事が出来るのである、而して変貌のイエスを中心にモーセとエリヤ現はれて栄光の団欒〔だんらん〕を為したるは即ち其時の模範であつた、モーセは一度〔た〕び死せし者である、故に彼は既に眠りし信者にして再臨の日に復活せしめらるべきものを代表するのである、エリヤは死せずして直に昇天したる者であつた、故に彼は再臨の日に生存せる信者にして其儘化せらべき者を代表するのである、二人が光れる雲の中にイエスと相会したるが如くに信者も亦眠れると醒〔さ〕めたるを問はず均〔ひと〕しく栄光化せられてキリストと相会する其の福(さいは)ひなる時が必ず来るのである、されば主の再臨を待ち望む者に取てイエスの変貌は最も感謝すべき慰安である。
斯の如く変貌の記事を幾多の仮説を以て曲解せんには何等の意味を為さゞるに反し之を其儘に信ぜん乎〔か〕、我等の霊を養ふべき極めて貴き教訓の与へらるゝあり、加之〔しかのみならず〕聖書の他の部分と照合して整然と福音の枠(わく)の中に包容せらるゝのである、変貌を信じて復活及び再臨は甚だ信じ易くなるのである。然し乍ら斯の如き信仰は知識より来るに非ず、頭脳は信仰を造る事が出来ない、復活又は再臨等を信じ得るの信仰には或る出発点があるのである、此出発点よりせん乎、必ず之を信じ得べく若〔も〕し然らざらんには仮令〔たとえ〕研究に研究を重ぬると雖〔いえど〕も遂に之を信ずる事が出来ないのである、然らば其所謂〔いわゆる〕出発点とは何処〔どこ〕である乎。
人は何人も遅かれ早かれ一度は神に遭遇せざるを得ない、神我が面前に現はれて「汝は何ぞや」との問を発し給ふのである、其時答へて「我は特別に悪しき者にあらず」と曰はゞ神は信仰に基づく恩恵を悉く撤回し給ふ、然れども神に我が罪を指摘せられて煩悶懊悩〔はんもんおうのう〕如何にすべき乎を知らず、寝食を廃して悲み涕(なみだ)を流して祈り「神よ、我は罪人の首(かしら)なり、如何にして此罪を赦さるべき乎、願はくは我を憐み給へ」と曰ひて神の前にひれ伏さん乎、神は乃〔すなわ〕ちイエスキリストの十字架を示して「見よ、汝の永遠の生命は此処〔ここ〕にあり、之を離れて汝の救はるべき途あるなし」と教へ給ふのである、而して斯く十字架を仰ぎて救拯の実験を経たる者のみが復活を信じ再臨を信ずる事を得るのである、福音的信仰の出発点は罪の赦の実験に於て在る、此実験を握らずして如何なる神学者と雖も聖書を其儘に信ずる事が出来ない、余は嘗〔かつ〕て紐育(ニユーヨーク)の或る有名なるユニテリヤンの教師を訪ねた事があつた、
幾多の談話を交はしたる後最後に余は此問題を提出した、果(か)然其人答へて曰く「我に其実験あるなし」と、然り、ユニテリヤンと余輩との差別は三位一体又はイエスの神性等の神学問題に在るに非ず、十字架による罪の赦〔ゆるし〕の実験に在るのである、神学論を以てせば彼等にも亦言ふべき事が尠〔すくな〕くない、然しながら暫〔しばら〕く論ずるを已〔や〕めよ而〔か〕して心の聖(きよ)き奥殿(おくでん)に入れよ、其所(そこ)に於て十字架を仰ぎし乎否乎(いなか)、之を仰ぎし者は信じ然らざる者は信じない迄である。
故に再臨問題は一転して聖書問題に移り再転して罪の問題に帰着するのである、再臨を拒(こば)む者は聖書を拒(こば)み聖書を拒む者は罪の罪たるを否定し、十字架の贖罪〔しよくざい〕的威力を否定する、贖罪〔しよくざい〕聖書再臨は相関聯する問題である。
 
 
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