人生の目的

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交わり終わって帰るとき、皆喜んでたね」


明治36年-1903、1月10日 内村鑑三は、万朝報に「人生の目的とこれに達する道」を書いた。

我らは年の初めに当たって再びこの事を深く心に留めるべきである。 ヨハネ14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 人生の目的は神を知るにある。そのほかに無い。金を貯めるのでは無い。人に褒められるのでも無い。哲学と美術を楽しむのでも無い。神を知るにある。これが人生の唯一の目的である。この目的を達せずして人生は全く無意味である。本当の夢である。 この目的を幾分なりとも達せずして、最も成功せる人生も失敗である。 人生唯一の目的は神を知るにある。しかして神を知る唯一の道はキリストを知るにある。神は哲学の研究によっては分からない。天然の観察によっても分からない。歴史も文学も。、神の真に何であるかを教えない。キリストのみ良く神を伝えたもう。 キリストを知ることは、神を知ることである。「われを見しものは神を見しなり」と。 神は絶対的実在物なりと言ったと、神は分からない。神は万物の造り主なりと言うたりとて、神は分からない。神は父なりと言ったとて、いまだ良く分からない。神はキリストの如き者である。すなわち実際的に言えば、キリストは神なりと言うて、神は最も善く分かる。キリストは真に人が神に至る道である。 ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 人生唯一の目的は神を知るにある。しかして神を知る唯一の道はキリストを知るにある。さらば如何にしてキリストを知り得ようか。その道は二つある。 その第一は聖書を探るにある。「この聖書はわれについて証しする者なり」とキリストは言いたもうた。聖書を探らずしてキリストを知ることは出来無い。単に新約聖書に留まらない。聖書全体を探らなければならない。旧約聖書も探らなければならない。 キリストを知る第二の道は、その御旨に従う事である。すなわちその明白なる 実行することである。この事を為さずして、聖書の研究も吾人をキリストの良き 子となすに足らない。キリストは実効的にのみ知ることが出来る。吾人今日の弊 はキリストについて学ぶこと余りに多くして、彼の御旨に従う事余りに少ないこ である。教会に出るとか僅かの慈善金とかで留まって、この世を拒み、十字架を 担って彼に従うという根本の教えにおいてしたがわない。数年間教会に連なっても 聖書講演会に出席してもキリストは分からない。キリストを分かろうとすれば、、 キリストと共にこの世の憎しみを受けて、彼と共に十字架に付かなければならない。 キリストに従わずにキリスト教を極めようとするは、害有って益は無い。神の真理 はこれを行わなければ、吾人の心の中に有って激烈なる毒となる。 霊魂を救うべき福音の霊薬は、行いを持ってこれを消化せざれば、かえって霊魂を 滅ぼす毒素と化す。これは実に恐るべき事実である。しかして否むべからざる事 実である。最も激烈なる反対を唱うる者は、全くの不信者ではない。一度は彼を熱 く信じ、彼を心の中に迎えまつった者である。しかるに彼の御旨に従う能わずして 彼に背くや、福音はその人にとり耐えがたき苦痛となり、ために彼をしてこれに反 抗せしめ、ついにこれを罵詈せしめ、嘲弄(ちょうろう)せしむ。まことに慎むべ きは、実行の固き決心をもって取りかからざるキリストの福音の探求である。 天国に上り行く道は、また地獄に下り行く道である。慎みてもなお慎むべきは、十 字架を担うの決心を持ってせざる遊び半分のキリスト教の研究である

1.人生唯一の目的である「神を知ること」。

2.神を知るためにキリストを知ること。

3.キリストを知るために聖書を探ること。事に旧約聖書を探ること。

4キリストの御旨に従う事、すなわち十字架を担いて彼に従う事。