〔福音とは何ぞ他〕 内村鑑三

明治39年4月10日 

『新希望』74号「所感」署名なし 

 

福音とは何ぞ 

福音は高き道徳に非ず、完き哲学に非ず、福音は罪の赦免なり、エホバ言ひ給はく我を仰ぎ瞻〔み〕よ、然らば救はるべしと、天よりの此声なくして、其理は如何に深くとも、其説は如何に高くとも、我に我を喜ばすの福音あるなし、福音は簡単にして有力なる神の声なり、我れ小児の心を以て此声を信じて救はる、我等は福音を聖書学、又は宗教哲学、又は組織神学と同視すべからざるなり。 

 

罪人の首かしら 

キリストを敵に附(わた)せし者、罪人の首にあらず、彼を十字架に釘(つ)けし者、罪人の首にあらず、人を殺せし者、姦淫罪を犯せし者、亦罪人の首にあらず、罪人の首は我れ自身なり、神の恩恵に浴しながら永く之を濫用し、善と知りつゝも善を為さず、悪と知りつゝも悪を避けず、屡々〔しばしば〕神の聖霊を熄(け)し、其聖意を傷めまつれり、若〔も〕し亡ぶべき者あらば我は彼なり、我は恩恵を蒙〔こうむ〕りし丈〔だ〕けそれ丈〔だ〕け神に負〔お〕う所の者となれり。 

若し万人にして救はれざらん乎、我は第一に亡さるべし、然れども若し我にして救はれん乎、世に救はれざる者一人もなかるべし、我の救済(すくひ)は神の恩恵の試験石なり、我は自から救はれて万民の救済を確めんと欲す。 

1372 ヨエル2:32 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。【主】が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、【主】が呼ばれる者がいる。 

 

我のすべて 

産を失ふも可なり、願くは神の聖顔(みかほ)を見失(みうしな)はざらんことを、病(やまひ)に悩むも可なり、願くは神の聖旨(みこころ)を疑はざらんことを、人に棄らるゝも可なり、願くは神に棄られざらんことを、死するも可なり、願くは神より〔離〕れざらんことを、神は我がすべてなり、神を失ふて我は我がすべてを失ふなり、我等に父を示し給へ、然らば足れり(ヨハネ伝十四章八節)、我が全生涯の目的は神を視、彼を我が有(もの)となすにあり、其他にあらず。 

 

神の言辞(ことば) 

神は人の言辞を以て語り給はず、事実を以て語り給ふ、或ひは災難を以て、或ひは疾病を以て、或ひは悪人に遭遇せしめて、其聖意(みこころ)を我等に伝へ給ふ、事実は隠語なり、其解釈は決して易からず、苦悶転倒数月に渡りて猶ほ其解答を得ざることあり、然れども聖霊の暗示に由りて終〔つい〕に其解明に達するや、万物悉く明かにして青空一点の疑雲を浮べず、其時、川と丘とは「然り」と答ヘ、人も我も「然り」と応ず、沈黙に勝〔ま〕さる雄弁あるなし、事実を以て語り給ふ神の言辞は其意味深遠にして量るべからず。 

 

我が友 

我と友たらんと欲せばキリストを信ぜよ、キリストを信ぜずして我と友たる能〔あた〕はず、今の我は我れ生けるに非ず、キリスト我に在りて生き給ふなり(加拉太〔ガラテヤ〕書二章廿節)、我は基督者なり、小なるキリストなり、我が生命にして我が首(かしら)なるキリストに繋(つなが)るにあらずんば、何人も我と繋〔つな〕がる能はず、我をキリスト以外に於て知らんと欲する者は我を誤解する者なり。 

 

基督信徒の交友 

我等は利益を語らず、天国を語る、我等は相互の上に立たんと欲せず、其下に立たんと欲す、我等は徳を以て競はず、罪を以て相譲る、我等は敵に勝ちたりとて喜ばず、己に勝ちたりとて誇る、我等は酒を飲まず、聖霊に酔ふ、我等は美食に飽かず、聖書を咀嚼〔そしやく〕す、我等は壮語せず、互に相祈る、美〔うる〕はしきかな此交友、恰〔あた〕かも天のそれの如し。 

 

新伝道 

農夫、農業を廃せずして伝道に従事し、商家、商業に従事しながら聖書を研究し、医師肉体を癒しながら霊魂を救ひ、官吏其職に留て大胆にキリストを表白す、殊更らに神学者たるの要なし、殊更に按手礼〔あんしゆれい〕を受けて伝道の職に就くを要せず、此身此儘〔このまま〕にして善き有力なる伝道師たるを得べし、二十世紀的新伝道は監督、牧師、伝道師等、特種の階級を要せざる者ならざるべからず。 

 

新教会 

監督なし、牧師なし、伝道師なし、憲法なし、洗礼なし、聖餐式なし、按手礼なし、楽器と教壇とを備へたる教会なし、神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり、其教会堂は上に蒼穹を張り、下に青草を布〔し〕きたる天然なり、其礼拝式は日々の労働なり、其音楽は聖霊に感じたる時の感謝の祈祷なり、其憲法は聖書なり、其監督はキリストなり、而〔しか〕して其会員は霊と真(まこと)とを以て神を拝する世界万国の兄弟姉妹なり、我等は永久(とこしへ)に斯(この)教会に忠実なる会員たらんと欲す。 

 

教会と天国 

教会は現世の天国にあらず、天国は来世の教会にあらず天国は教会の中にあり、又其外にあり、教会失すると同時に天国は失(う)せず、然かり、多くの場合に於ては教会失せて後に始めて天国現はる、我等は必ず天国の市民たるを要す、必しも教会の会員たるを要せず、神の天国は広し、我等天国に入らんと欲して必しも教会に入るの要なきなり。 

 

キリストの如くなれ 

キリストの如くなれよ、即ち身に教職を執らずして心に篤〔あつ〕く神を信ぜよ、監督、執事、牧師、伝道師たる勿〔なか〕れ、身に於ては農夫たれ、職工たれ、勤勉なる労働者たれ、然れども心に於ては聖徒たれ、予言者たれ、熱心なる伝道師たれ、労働者たらざる労働者たれ、伝道師たらざる伝道師たれ、平民たれ、平信者たれ、神の子たれ、天国 

の市民たれ、伝道を業とする勿れ、賃銀のために働く勿れ、農聖人たれ、神学と儀式とに由〔よ〕らずして直〔ただち〕に神の真義に導かるゝ者となれ。 

 

(せま)き路(みち) 

(馬太伝七章十三節) 

一方に宗教界あり、他方に俗世界あり、宗教界に妬忌〔とき〕、讒害〔ざんがい〕、毀謗〔きぼう〕、分争、結党、詭譎〔きけつ〕あり、俗世界に不義、悪慝〔あくとく〕、貪婪〔どんらん〕、兇殺、酔酒、放蕩あり、前者にすべての霊なる罪は存し、後者にすべての肉なる罪は行はる、二者の間に窄〔せま〕き路あり、茲〔ここ〕に貧困、飢餓、裸裎〔はだか〕、迫害、十字架あり、然れども生命〔いのち〕に入るの路は唯此一途あるのみ、 

我等は主の迹〔あと〕を逐〔お〕ふて此窄(せま)き途を辿〔たど〕らざるべからず。 

 

信仰又信仰 

信仰あり、又信仰あり、熱心の意味に於ての信仰あり、確信の意味に於ての信仰あり、又信頼の意味に於ての信仰あり、不動、聖天(せうでん)、モハメットを信ずる者に熱心なる者多し、神道儒教を無上の真理と確信して死に就く者もまた尠〔すくな〕からず、熱心、確信、必しも純正、純美の信仰にあらざるなり。 

ヱホバの神に信頼する者のみ救はるゝなり、己〔おのれ〕の行為又は智識に頼らざるのみならず、信仰其物をすら神に求め、己に何の賞すべきものなきを覚〔さとり〕て神に頼(よ)り縋(すが)る者のみ救はるゝなり、信頼の意味に於ての信仰のみ能〔よ〕く我等を救ふに足るの信仰なり。 

 

キリストの三敵 

世は何れの世にもピラトあり、サドカイ派あり、パリサイ派あり、ピラトは政権を、サドカイは学閥を、パリサイは教会を代表す、而して三者相集つてキリストを十字架に附す、ピラトはキリストの不忠を責め、サドカイはキリストの無学を嘲けり、パリサイはキリストの不信を呪ふ、三者同じく愛に於て欠くる所あり、故に神の愛子を迫害す、我等も亦彼等の憎む所となりてキリストの弟子となりしを知るべし。 

神学を厭ふ 

自由神学あり、保守神学あり、『高等批評』あり、福音的神学あり、然れども神学は神学にして多くは是れ教職神学者の業なり、平民と平信者とは神学を要せず、彼等は神を直覚し、彼を愛し、彼に事〔つか〕ふ、平民をして神学の旋渦に入らざらしめよ、神学は少数の神学者に道を勧むるの途なるやも知らず、然れども神の愛し給ふ億兆の平民は神学の紛乱錯雑〔さくざつ〕を厭〔いと〕ふて止まざるなり。 

 

田舎伝道 

「神は村落を造り、悪魔は都会を作れり」と、都会は悪魔の勢力の最も強き所なり、循(したが)つて其従者の最も多き所なり、都会に福音を説くは砂地に種を蒔〔ま〕くに等しき業なり、福音は之を村落に伝へよ、松風梢に楽を奏し、渓流、岩に瀑布を垂るゝ所に伝へよ、人は天然と偕〔とも〕に居り、天然の如くに正直にして純樸なる所に伝へよ、聖書は 

之を神学者に学ばんよりは、寧〔むし〕ろ野の百合花と空の鳥とに習へよ、ヱレミヤは田舎預言者なりき、キリストは田舎伝道師なりき、二者稀〔まれ〕には都会に上りしと雖〔いえど〕も、死に至るまで静かなる田舎を愛したりき、農は国の大本なり、田舎は福音の根拠地なり、今や虚栄を逐〔お〕ひ求むる世人は争て都会に入来りつゝある時に際して、我等神の真理を愛する者は争て此魔族の巣窟を去り、田舎に神の王国の建設を謀るべきなり。 

 

詩人と俗人 

詩人、地主に言ふて曰く「土地は汝の所有(もの)なり、然れども風景は我が所有(もの)なり」と、神の天然を楽むに山林田野を我が有となすの要なきなり。 

詩人、政治家に言(いう)ふて曰く「政権は汝に在り、教権は我に存す」と、人の心を支配するに軍隊、警察、法律、威力に依るの要なきなり。 

詩人、宗教家に言ふて曰く「寺院と教会とは汝に属す、然れども霊魂は我に帰す」と、人に神の愛を示し、救拯(すくひ)の恩恵を伝ヘ、聖霊歓喜を供するに、僧侶、神官、監督、牧師、伝道師たるの要なきなり。 

 

世界最大の者 

智識を以て腕力に克〔か〕つべし、信仰を以て智識に克〔か〕つべし、愛を以て信仰に克〔か〕つべし、愛は進化の終局なり、最大の能力なり、愛に達して我等は世界最大の者となるなり。