内村鑑三 マタイ伝 63講 イエスの終末観-1

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 マタイ伝
 
エスの終末観
馬太伝第二十四章の研究
大正8410 『聖書之研究』225   署名内村鑑三述藤井武筆記
 
第一回(二月十六日)
馬太〔マタイ〕伝第二十四章は聖書中最も難解なると共に又最も重要なる一章である、故に此章を解する者は即〔すなわ〕ち聖書を解する者なりと言ふ事が出来る、而〔しか〕して此章を解せんが為には聖書中の他の部分を引照しなければならない、凡〔すべ〕て聖書の言〔ことば〕の解釈は常に他の言〔ことば〕を以て之に照合するの必要がある、然らずんば其解釈浅薄に流れて神の真理を探る事が出来ない、之に反して真に深く聖書を解せん乎〔か〕、其真理は我等の生命の中心に浸入し死と雖〔いえど〕も之を消滅せしむる能〔あた〕はざるに至る、而して斯〔かく〕の如(ごと)き解釈は聖書中随処(いたるところ)の照合研究に由て獲らるゝのである、此点より見て聖書の研究は最も緊要の事に属する。
馬太伝第二十四章の研究は二十三章より之を始めて二十五章に迄亘〔わた〕るを要する、二十三章はイエスの終末観の序言たるべきものである、彼はヱルサレムに上りて幾度(いくた)びかパリサイ、サドカイの人々即ち当時の政治家宗教家学者等に教を説きしも遂(つい)に其受くる所とならず、力〔つと〕めて彼等と和睦して之を己に導かんとの彼の努力も全く無効であつた、是に於てか止〔や〕むを得ない、イエスにも其忍耐の尽くる時が来たのである、彼の方より絶交を申渡すべき時が来たのである、彼は教師神学者等の前に独り立ちて偉大なる宣言を為〔な〕し給うた、之れ即ち馬太伝二十三章の記事である。
 
「噫〔ああ〕汝等禍(わざはひ)なるかな偽善なる学者とパリサイの人よ」と、イエスは此語を七度び繰返(くりかえ)し給うた、試に今の教師等の前に彼自〔みずか〕ら立ちて之を宣べたりとせば如何〔いかん〕、誰かその激越(げきえつ)の辞(ことば)に驚かざるものがあらう乎、「禍なるかな」と翻訳にて之を読みて其強さは意味の上に於てのみ表はるゝも到底其原語たるアラミ語又は希臘〔ギリシア〕語の響きを伝ふるに足りない、余は曾〔かつ〕て或る希臘人が哥林多〔コリント〕前書十三章のパウロの言を外国語の翻訳にて読みては其精神を解する能はずと言ふを聞いたが馬太伝二十三章も亦〔また〕然りである、日本語よりも寧(むし)ろ英語は遥〔はる〕かに原語に近い、英語にてwoe!(ウオー)希臘語にてouai(ウーアイ)といふ、共に音(おん)である、堪へられず! との意である、凡〔およ〕そ絶交の辞(ことば)として斯〔か〕かる強烈なるものはあり得ない、茲〔ここ〕に人の口より出でたる最も過激なる語がイエスに由て発せられたのである、彼の最も良き弟子等も亦時として悲憤慷慨〔こうがい〕堪へられずとの声を挙げた事があつた、而して実に神の熱愛は或る場合には斯かる過激の語を以て現はれざるを得ないのである。
エスの心の底より発したる此の痛烈なる憤慨の語の後に来りしものが三十七節以下である、「噫ヱルサレムよヱルサレムよ、予言者を殺し汝に遣はさるゝ者を石にて撃つ者よ、母鶏(めんどり)の雛(ひな)を翼(つばさ)の下に集むる如く我れ汝の赤子を集めんとせし事幾度(いくた)びぞや、されど汝等は好まざりき、見よ汝等の家は荒地(あれち)となりて遺(のこ)されん」と、此処〔ここ〕に彼の「ウーアイ」を発したる深き理由がある、父が子を愛するの余りに堪へられずして叱咤(しった)したる後の涙の迸溢(ほとばしり)である、此愛ありて初めて真の攻撃を為す事が出来る、イエスの憤慨は全く愛の憤慨であつた。斯の如くにしてイエスユダヤに於ける当時の指導者との間の縁は断絶した、而して此絶交はイエスの方より宣告したるものであつた、然るに注意すべきは彼の最後の語である、「我汝等に告げん、主の名によりて来る者は福(さおはい)なりと汝等の言はん時至る迄は今より我を見ざるべし」と、汝等と我との関係は絶えたり、然れども之を以
て終るに非ず、後に汝等再び我を迎ふる時あるべしとの謂(いい)である、恰〔あたか〕も誠実なる夫が不貞の妻に渡す離縁状の如し、絶縁である、然しながら条件付きの絶縁である、後に又相結ばるべき希望を附しての絶縁である。
而して此処に明白なる基督再臨の宣言がある、彼は敵に対する離別の辞(ことば)として己が死したる後再び主の名に由てヱルサレムに帰来すべきを約束し給うた、彼は又同じ意味の言を以て其弟子と別るゝの辞と為し給うた、「我汝等に告げん、今より後汝等と共に新しき物を我父の国に飲まん日までは再びこの葡萄にて造れる物を飲まじ」と(馬太伝廿六の廿九)、其敵に対するも其友に対するも離別の辞としては均(ひと)しく再臨の宣告である、依て知る、再臨の真否は暫〔しばら〕く措〔お〕き馬太伝中少くとも此二ケ所に於てイエス自ら明白に之を預言し給ひし事を。
 
エスは斯の如く其敵に対し過激の語を発すると共にヱルサレムの滅亡と己が再臨とを預言し給うた、是に於てか弟子等の心中幾多の疑問を発せざるを得なかつた、之れ二十四章に於ける弟子等の質問ある所以〔ゆえん〕である、二十四章は二十三章を前提として見て能く其間の消息を探る事が出来る。
彼等は先〔ま〕づヱルサレム宮殿の構造を見て其の果して荒地(あれち)となりて遺(のこ)さるゝ時あるべきかを疑つた、当時の宮殿はヘロデの建設に係り宏荘無比と称せられた、之に使用せし石の如き其幅員(はば)二丈三四尺のものありしといふ、太閤秀吉の器量の大を示すべき大阪城の石と雖もヱルサレム宮殿の其(それ)には及ばなかつたのである、此宏荘なる建物の果して荒廃に帰する時あるべしとは彼等の想像し得ざる所であつた、然しながらイエスは之を前に置いて彼等に答へて曰〔い〕うた「汝等凡て之等を見ざるか、我れ誠に汝等に告げん、此処に一の石も石の上に崩されずしては遺らじ」と、其の大なる確信を見よ、人力を以て如何〔いかん〕ともする能〔あた〕はずと見えし盛大なる宮殿を指して其完全なる荒廃を預言したのである、之れ真の信仰的勇者の言である、其衷心〔ちゆうしん〕に於て深く神と交通する者に非ずんば斯かる大胆なる言を発する事は出来ない。
弟子等は更に問うて曰うた「何〔いず〕れの時此事あるや、又汝の来る兆(しるし)と世の終(おわり)の兆(しるし)は如何なるぞや」と、二箇の質問である、第一宮殿の崩壊、換言すればヱルサレムの滅亡の時は何れぞ、第二汝の来る兆(しるし)と世の終(おわり)の兆(しるし)とは何ぞ、時の問題と兆(しるし)の問題である、而〔しか〕して此質問に対する答としてイエスの終末観は述べられたのである。
 再臨の信仰に反対する者或〔あるい〕は曰〔いわ〕く馬太〔マタイ〕伝二十四章の教へはヱルサレムの滅亡近づき猶太(ユダヤ)人の大困難切迫して国民的生命の行詰(ゆきずま)りし時に与へられたる者である、平和の世に在て再臨の信仰は何の要あるなしと、余の知人三並胆君の余の著書に対して加へられたる批評も亦〔また〕此立場に在るものである(『六合雑誌』二月号を見よ)、君は曰く「世界の大乱に激成せられて勃興した内村氏の再臨信仰も世界が平和となるにつれて再び以前の平静に復する事と思ふ、之は急に起つた狂瀾怒濤〔きようらんどとう〕であるが、鏡のやうに平静となるべき世界は氏の心池にも旧の如く春風が静に吹きそめん事を希望する」と、即ち再臨の信仰が本来時勢の行詰りより起りしものなるが故に余の場合に於ても亦時勢の行詰りの終熄〔しゆうそく〕と共に此信仰は消滅すべしといふのである、こは興味ある観察である、然し乍〔なが〕ら時勢の行詰りは果して終熄したのである乎〔か〕、世界は果して鏡(かがみ)の如くに平静となりつゝある乎、否〔い〕な世界は今尚〔なお〕依然として行詰りつゝあるのではない乎、今より二ケ月前には人類六千年の理想の実現を以て期待せられし国際聯盟も講和会議の経過に徴すれば漸次〔ぜんじ〕其骨髄を失ひて殆〔ほとん〕ど紙上の形骸となりし観がある、強敵独逸〔ドイツ〕は滅びたりと雖〔いえど〕も更に恐るべきヴオルセビズム(過激主義の訳語は当らず多数主義なり)は勃興して陰然各国の根底を覆滅〔ふくめつ〕せんとしつゝある、唯〔ただ〕に露独両国の此主義の為に斃〔たお〕れたるのみならず英仏伊の諸国も其前に当りて戦慄〔せんりつ〕し米国の如きは之を恐れて向後四年間移民の入国を拒絶するに至つた、カイゼル主義は軍隊と大砲とを以て之を抑圧するを得たるも思想は之を抑圧する事が出来ない、世界は今や普国主義に勝〔まさ〕る恐るべき新強敵を迎へたのである、又所謂〔いわゆる〕民族自決主義に由て波蘭ポーランド〕とアルサスローレンとは独逸の羈絆(きはん)を脱した、然らば同じ主義に由て愛蘭〔アイルランド〕又は印度〔インド〕又は埃及〔エジプト〕も亦独立せんと欲せざる乎、敵国を刺したると同じ武器を以て欧米聯合国は今や自ら悩まされつゝある、而して之れ独り外国の事のみではない、我等各自にも亦多くの問題がある、食糧の不足、物価の騰貴〔とうき〕、其他一々挙げて数ふる事が出来ない、斯〔かく〕の如くにして我等は今尚行詰りの状態に在るのではない乎、果して然らば時勢の行詰りより起りし信仰は今尚我等に取て重要である、若〔も〕しユダヤ人がヱルサレム滅亡の近き時に当り基督再臨の信仰に由て慰藉奨励せられしならば全世界の窮迫を実見せる我等は更に大〔おおい〕に此信仰の援助を求めざるを得ない。
馬太伝二十四章はユダヤ人の危急存亡の秋(とき)に与へられたる教訓であると共に又キリストの再臨に由り特にユダヤ人に臨むべき救に関する預言である、聖書は全人類を分ちて基督者、ユダヤ人及び異邦人の三とする、而してキリスト再び来る時三者各々特別の恩恵に与(あずか)るのである、其時基督者の受くべき恩恵は如何、既に死したる者は甦(よみがえ)り生ける者は其儘〔そのまま〕栄化せられて共に空中に携(たずさ)へ挙(あ)げられ彼処(かしこ)にて主に遇ひ又愛する者と再会し限なく主と共に居る事が出来る、之れ実に信者歓喜の極致である、而して此の携挙(けいきょ)の恩恵は唯だキリストの贖(あがない)を信じ彼に由て義とせられたる者のみ之に与る、次にユダヤ人の受くべき恩恵は如何、現今の如く世界に散布するユダヤ人は再びヱルサレムに呼び集められて大なる審判(さばき)に遭遇する、而して審判其極に達したる時キリストは彼等の王として降りて彼等を救ひ給ふ、最後に異邦人の受くべき恩恵は如何、キリストはヱルサレムに降り救はれたるユダヤ人を以て万国を治め給ふ、其時恒久的平和と正義の政治と其他旧約聖書に預言せられたる凡〔すべ〕ての理想が此地上に実現するのである、斯くてキリストの再臨により恩恵は全人類に臨む、然れども基督者には基督者として、ユダヤ人にはユダヤ人として、異邦人には異邦人として特別の恩恵が臨むのである、而して馬太伝二十四章は主としてユダヤ人に関する預言である、此事を知つて本章の意味は甚〔はなは〕だ解し易きものとなる。
斯く曰はゞ或は本章の研究を以て我等の救と関係なき閑問題の如くに思ふ者があるかも知れない、然しながらユダヤ人を救ふの恩恵は又我等を救ふ恩恵と同一のものである、我等は単独にして救はるゝのではない、神は基督者を救ふと共に世界万人を救ひ給ふ、故に他人の救は同時に我等の救の保証である、神は如何にしてユダ〔ヤ〕人を救ひ給ふ乎、之れ我等各自に至大の関係ある問題である、馬太伝二十四章の研究は勿論基督者に取て亦最も重要なる研究である。