内村鑑三 マタイ伝 22講

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22 マタイ伝
エスの教訓と其註解
明治32515日『東京独立雑誌』31号「講壇」 署名内村鑑三
 
汝等は地の塩なり、塩もし其味を失はゞ味つくるに何を以てせん、後は用なし、戸外に棄てられて人にふまるゝのみ。汝等は世の光なり、山の上に建てられたる城市は隠るゝことを得ず。燈を燃〔とも〕して斗(ます)の下に置く者なし、燭台の上に置きて家にある凡てのものを照さん、此の如く人々の前に汝等の光を輝かせ、然れば人々汝等の善行〔よきおこない〕を見て天に在〔いま〕す汝等の父を栄〔あが〕むべし。
 
汝等弟子を指す也。地の塩なり、塩は食物に味つくるものなり、亦〔ま〕た昔時の惟一〔ゆいいつ〕の防腐剤なり、イエスの弟子は天の市民にして地に味を附け其腐敗を防止するものなり、然れども彼れにして彼の特性を失はん乎、彼の如き不用物は世にあるなし。人に践まるゝのみ、ヱルサレムの市街家毎に脱味の塩を散布し通行人に践ましむ。「味を失ふ」と訳されし語は「感覚を失ひし」の意なり、後に「愚者(おろかもの)」と訳されしは此語なり、故に塩にして其気を失ひしもの、塩の無気力になりしもの、塩の塩たる特質を失ひしものなり、若し腐れ男子は世に用なしとならば況して腐れ信者に於てをや。塩なり、亦た光なり、猶太亜〔ユダヤ〕城市は多くは山上に建てられし如く耶蘇の弟子も亦世の注視する所たるものなり、隠れんとするも隠るゝこと能はず、燈は暗瞑を輝さんが為めなり、斗(ます)の下に置かんとならば燃やさゞるに若〔し〕かず、「光をして輝かしめよ」、汝等輝くべしと謂〔い〕はず、光は吾人自身にあるなし、恰〔あた〕も月其物に光なきが如し、吾人の光は神より来る、恰かも月は太陽の光を受けて之を反照するが如し、吾人の修徳其極に達して吾人は最明の反射鏡たり得るのみ、然れば人々吾人の善行を見て吾人を讃〔ほ〕めずして天に在す吾人の父を栄むべし。
我律法〔おきて〕と預言者とを廃〔す〕つる為めに来れりと意〔おも〕ふ勿〔なか〕、我れ廃〔す〕つる為に来らず、成就せん為なり、我れ誠に汝等に告げん、天地の消へ失するまでは律法の一点一画も悉〔ことごと〕く遂げつくさずして消え失することなし、是故に人もし最も小さき誡(いましめ)の一を壊〔やぶ〕り、又その如く人に教へなば、天国に於て最も小さき者と謂〔い〕われん、然れども之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし、我れ汝等に告げん、汝等の義、学者とパリサイの人の義に勝〔まさ〕るにあらざれば必ず天国に入ること能はじ。
 
律法と預言者、摩西(モーゼ)の律法、殊に彼の十誡預言者の言、廃るは破壊なり、イエスは破壊者として来らず、建設者として来れり、旧時の道徳律は耶蘇の精神を受けて始めて実行するを得べきものなり、愛は律法を全ふするものなり。われ誠に汝等に告げん、語調甚だ強し、耶蘇の自証に天地の重きあり。一点一画は勿論旧時の儀式制度等を悉く謂ふにあらず、道徳律なり、儀式制度の精神目的なり、即ち至誠の人に依て世に示されし凡ての神意なり、是れ天地が消え失するとも消滅せざるものなり。
孔孟の言然り、釈迦の言然り、我邦幾多の高僧潔士の言然り、イエスは新設者として世に来らず、普通道徳の成就者として来れり、彼を目して異教者となす人其人が異教者なるなり、是れ二千年間の人類の経験が立証する所なり。
律法は大小の別なく遂行すべきものなり、大悪を避けて小悪を宥恕〔ゆうじよ〕するは律の神聖を汚すことにして是れ全律を犯すに等し。天国に於て最も小き者と謂はれん、次節の「天国に入ること能はじ」と同意義なり。最も小き者 (希臘語のエラヒストン)は時には廃物の意味あり。大なる者云々、小善を行ふものは天国に於て巨人と称はるべし。
学者とパリサイ人、職業的道徳家と宗教家、彼等の善行は広告的なり、故に彼等は人の目に立つ善を為さん事を勉めて小善隠徳を顧みず、如此者〔かくのごときもの〕勿論(必ず)天国に入る能はず、近江聖人曰く人皆悪名を悪〔にく〕みて令名を好めり、小善を積み積らざれば令名顕れず、小人は人の目に立つべき善ならば為〔な〕さんと思ひて小善は目にもかけず、君子は日々に為すべき小善の一をも捨てず、大善も応ずれば是れを行ふ、
求めてなすに非ず、夫れ大善は稀にして小善は日々に多し、大善は名に近し、小善は徳に近し、大善は人争ひて為さんとす、名を好むが故なり、名によりて為すときは大も小となる、君子は小善を積んで徳をなす者なり、真の大善は徳より大なるはなし、徳は善の淵源なり。