内村鑑三 マタイ伝 21講

21マタイ伝
地の塩
大正51010日『聖書之研究』195 署名内村鑑三
馬太伝五章十三節。
汝等は地の塩なり、塩もし其味を失はゞ何を以てかもとの味にかえさん、後は用なし外に棄られて人に践まるるのみ。
 
○「汝等」少数の信者である、特に神に召されて万民救済の任に当らしめられたる者である。
○「地」大なる俗世界である、政治界経済界実業界などゝ称せられて「此世の主(あるじ)」即〔すなわ〕ち悪魔の支配の下に虚栄と利慾とを追求して其繁栄を誇る者である、地は利慾の大塊である、自己中心を主義として成立する大社会である、
名は文明と云ひ、愛国と云ひ、外交と云ひて外は美しく見ゆれども、中は百鬼夜行、諸(もろ〳〵)の汚穢(けがれ)を以て充つる墓場の如き者である。
○「塩」加味剤である、又特に防腐剤である、之を放任し置かんには腐敗其底を知らざる大俗界を比較的健全に保つ者である、塩は鹹(からく)くある、故に地は之を好まない、地は異分子として之を扱ふ、然れども其れあるに関はらず地は塩なくして永続することは出来ない、塩は地に憎まれながら地の腐敗を防止するのである。
○「地の塩なり」勿論地の産する塩ではない、地につける塩は地の腐敗を防止することは出来ない、地に臨む塩である、外より地に加へられし塩である、地に在りて地の属(もの)にあらざる塩である、朽つる地とは全然素質を異にする塩である、故に防腐の効力があるのである、地なる大俗界は如何〔いか〕に焦慮(あせ)るも自〔みず〕から己の腐敗を防止することが出来ないのである、政治家政界を潔むる能〔あた〕はず、愛国者国を救ふ能はずである、地は地以外より加へられし塩に由て其腐敗を防止せらるゝのである、天来の火に接して其汚穢(けがれ)を焚尽(やきつく)され、天の光を受けて其暗黒を照らさ
れるのである。
○殊に注意すべきは地の大塊に対する塩の少量である、塩は地の腐敗を防止するために地と量を同くするの必要はないのである、塩は少量にして足りるのである、又塩は地を化して塩となすの必要はないのである、地は依然として地として存するも効力(ちから)ある塩は其腐敗を防止して余りあるのである、少量の塩は地の大塊を塩に化せずして能く其腐敗を防止するのである、塩の能力(ちから)たる大ならずやである。
○俗界は大である、信者は少数である、信者にして信者たるの素質を失はざらん乎〔か〕、能く大俗界の多数を制し、其汚穢(けがれ)を排し、溷濁(にごり)を清むることが出来るのである、敢て俗界に多数を獲るの必要はないのである、又之を化して光の塊(かたまり)となすの必要はないのである、恰〔あた〕かもラヂユムの微量が其放射する光線に由り之に接触する大物体をラヂユム化するが如くに、真信者の放射する信仰の光線は大俗界を化して縦令〔たとえ〕暫時たりとも光明の世界たらしむるのである、少量の塩大地の腐敗を防止す、少数の光の子(こども)等大俗界の堕落を防止す、量と数とに於て多きを要せず、質に於て純且(か)つ清なるを要す、少数のキリストの弟子にして熙々(きき)として其光を燿(かがや)かせんか、暗らき大俗界はキリスト化せられて、ラヂユムの光線に癌腫が其勢力を挫(くじ)かるゝが如くに、其罪悪の猛威は折らるゝのである、信者は多数を以て俗界を制するのではない、其信仰の光輝を以て罪の暗黒を駆逐するのである。
○「塩若し其味を失はゞ」塩もし去勢せらるゝならばの意である、塩若し効力を失はゞ、或ひは塩若し馬鹿になるならばと訳しても可〔よ〕いのである(希臘〔ギリシア〕語のmoranthe に此意味がある)、即ち塩が地に化せられて地を化するの力を失ひし状態を云ふのである、即ち信者が俗化して俗界を聖化するの力を失ひし状態を示すのである、信仰の
形(かたち)を存して其力を失ひし状態である、「彼等は敬虔の貌(かたち)あれども実は敬虔の徳(能力ちから)を棄つ」とある其状態である(提摩太(テモテ)後書三章五節)、信者と称して実は俗人、俗人の如くに思ひ、俗人の如くに計り、俗人の如くに行ふ者其れである、此世の勢力に信頼し、富と政権と多数との勢力を藉(か)りて事を為さんと欲す、信仰を世界的勢力と見做(みな)し、之を拡むるに於て世界的方法を採る、或ひは帝王の祝電を乞ふて集会の成功を計り、或ひは貴顕を招待して教勢の拡張を計る、伝道に自働車飛行機を使用し、楽隊に箛(ラッパ)を吹かしめて冊子を散布するの類、是れ皆な塩の
其味を失へる者であつて、去勢せられたる信者の行為である、剛健なる信仰は自己以外の勢力に頼らないのである、信仰は自己を弘布せんとするに方〔あたつ〕て信仰独特の手段と方法とを択〔えら〕むのである、敢て地の手段方法を学ぶの必要はないのである、而〔しか〕して信仰が効力を失ひし時に、馬鹿になりし時に此世の手段方法に則りて敢て耻としないのである。
○「何を以てか故の味に復(かえ)さん」何を以てか塩をして再び塩たらしめんの意である、かかる塩がもはや腐敗を防止することの出来ないのは勿論のこと、其れ自身にすら塩味を起すことは出来ない(馬可〔マルコ〕伝九章五十節、路加〔ルカ〕伝十四章卅四、卅五節参考)、「神の善き言と来世の能力とを嘗(あぢは)ひて後に堕落する者は神の子を十字架に釘(つ)けて顕(さらし)辱とするが故に復た之を悔改に立返らすること能はざる也」とある其事である(希伯来(ヘブル)書六章六節)、強い厳しい言である、然し乍ら事実であるから止むを得ない、俗人の俗了は之を救ふことが出来る、然し乍〔なが〕ら信者の俗化に至ては之を癒すの途がない、「何を以てか故の味に復へさん」である、「犬かへり来りて其吐きたる物を食ひ、豚洗ひ潔められて復た泥の中に臥すと云へる諺は真(まこと)にして彼等に応へり」とある(彼得(ぺてろ)後書二章廿二節)、真(まこと)にして恐ろしくある。
○「後は用なし」去勢せる塩と俗化せる信者(又は教会)、世に無用なる者とて是〔かく〕の如きはない、俗人は俗人として用がある、然れども俗化せる信者(又は教会)に至ては是れ遥かに俗人以下であつてパウロの所謂(いわゆる)「世の汚穢(あくた)〔いわゆる〕また万(よろづ)の物の塵垢(あか)」である(哥林多〔コリント〕前書四章十三節)、俗人の用を為さず信者の用をも為さず、世に無用人物なしと云ふは俗化せる信者を除いてのことである。
○「外に棄られ」第一に神に棄らる、其聖霊の供給を断たる、「汝微温(ぬる)くして冷かにも有らず熱くも有らず、是故に我れ汝を我が口より吐出さんとす」とある(黙示録三章十六節)、言ふを休〔や〕めよ神は無慈悲なり残酷なりと、信仰は婦人の貞操の如き者である、精細にして微妙である、故に細微(わづか)の事に由りて破れ易き者である、俗化と云
へば小事の如くに聞える、然し破倫と云へば重大事件である、而して信者の俗化は婦人の破倫と共に語るべき者である、信者の神に対する関係は新婦の新郎に対する関係である、而して俗化は此聖なる関係の破壊である、故に聖書に在りては信者(教会)の堕落を称して「地の諸王之と淫を行ふ」といふ(黙示録十八章三節)、俗化は奸淫である、神が之を怒り給ふは当然である、信者は俗化に由り神に離縁状を渡さるゝのである。
○「人に践(ふ)まるゝ而已」第一に神に棄られ、第二に人に棄らる、棄らるゝに止まらず践附(ふみつけ)らる、我が媚(こび)んと欲せし人(俗人、俗世界)にまで棄られ又践附けらる、恰かも淫婦が不義を犯して其夫に棄らるゝに止まらず更に其情夫にまで棄らるゝと同然である、最も憐むべき状態である、然し避くべからざる状態である、淫婦の運命は茲に至るのである、「地の諸王と淫を行」ひし信者と教会との運命も亦茲に至らざるを得ないのである、世は教会を利用せんと欲するも利用されし教会を賎(いやし)みて止まないのである、「人に践(いやし)まるゝ而已(のみ)」である、教会は世に媚び諛(へつら)ひて世に践まるゝのである、世を救はんと欲して救ひ得ず、終に世の践殺(ふみころ)す所となる、信者の俗化は終に茲に至らざるを得ない、恐れてもなほ懼(おそ)るべきは信者の俗化である。
○近頃のことであると云ふ、或る権力家が其庇保を被〔こうむ〕る或る基督教会の役人に向ひ左の意味の言〔ことば〕を語りたると聞く
君等は君等の経典を称して聖書といふ、然れども是れ甚〔はなは〕だ不当なり、儒教経書あり仏教に教文あり、是れ亦聖書たるを失はず、然るに基督教の経典のみを称して特に聖書と云ふ、是れ最も不当なり、君等は宜しく聖書の聖の字を除いて単に基督教の経典と称すべしと、事実果して余輩の耳に達せしが如くなるや否やを知らずと雖〔いえど〕も、教会が此世の権力に頼りて此侮辱は免かれざる所である、フランクリンかつて曰へるあり「此世の勢力に頼るにあらざれば生存する能はざる宗教は生存の必要なき者なれば之を廃棄して可なり」と、実に俗人の援助に与〔あずか〕るにあらざれば弘布する能はざる宗教は之を廃棄して可なりである、布教伝道は政治家又は実業家、其他偽(いつはり)の宗教家宣教師等の援助を仰いでまでも之を行ふの必要はない、信者の信仰有りての伝道である、味を失へる塩の腐敗防止は有て無きもの、試みざるにしかずである。
○主は曰ひ給ふた「汝等は地の塩なり」と、彼は「汝等は地の塩たるべし」とは曰ひ給はなかつた、即ち塩、塩たれば地を潔めざるを得ないのである、信者、信者たれば世は彼に由て聖化されざるを得ないのである、彼は自から進んで世と交はり其道に従ひ其顰(ひん)に傚(なら)ひて聖化を努むるの必要はないのである、彼は山の上に建てられたる燈台
の如くに山の上に在りて世の暗黒(くらき)を照らすことが出来るのである、信者の俗化教会の堕落は多くの場合に於ては自から世と交はりて其腐敗を防止せんとするより来るのである、然れども彼は此危険を冒すの必要はないのである、彼は神の負はせ給ふ十字架を負ひ、神の送り給ふ患難(なやみ)に耐へて彼はいながらにして世を聖化することが出来
るのである、恰かも義人ヨブが其荒れはてし家に座し、灰を被り、瓦片〔かぶ〕を取りて其身を掻きながら神の遣(おく)り給ひし試練に耐へて能く神の義と恵とを万世に伝へしが如くに、今の信者も亦独りありて世を照らし其汚穢(けがれ)を除くことが出来る、罪に接せざれば罪を除く能はずと言ふ者は未だ信の奥義を知らざる者である、信は信である、独り在て有効である、信は地の塩である、塩たらんと欲して努むるの必要はないのである、「汝死に至るまで忠信なれ、然らば我れ生命の冕(かんむり)を汝に賜(あた)へん」とある(黙示録二章十節)、信者は世の塩である又光である、独り在りてそのたもつ所の者を固く保ちて諸邦(くに〴〵)の民を治むることが出来る(同廿五、廿六節)