内村鑑三 マタイ伝14講-その4

馬太伝第五章-
明治391110日― 40年1月10
『聖書之研究』818283号「研究」  署名内村鑑三
 
4マタイ伝
善行を以て自己を世に示さんとする勿れ、世に基督信者の模範を供せんとて焦慮(あせ)る勿れ、そは斯く為して神の聖旨に適〔かな〕ふ善行を為す能はざれば也、善行に対しては消極的態度に出でよ、神をして汝に在りて善行を為さしめよ、汝は唯汝の衷に臨みし光を蔽はざらんことを勉めよ聖霊を熄〔やすま〕さゞらんことを努めよ、汝の虚栄と傲慢とを絶ちて、全然神の器具たらんことを期せよ、然らば善行は自然に汝より出て、汝は無能者として世に認めらるゝも神は大能者として崇めらるゝに至るべし、キリストの弟子たる者は聖人たり、君子たるの野心をも絶つべきなり、唯順良なる神の善行の器具たるを期すべし而して斯くなすことが実に人たるの最大名誉なるを知るべし。
 
 
キリストは破壊者に非ず
我れ律法と預言者を廃(すつ)る為めに来れりと意(おも)ふ勿れ、来りて之を廃(すつ)るに非ず、成就(じょうじゅ)せん為めなり。(17)
 
我を破壊者と見做〔みな〕す者あり、然れども彼等の言を信ずる勿れ、我は破壊者にあらず、完成者なり、真正の建設者なり
○「律法と預言者」律法又は預言者、モーゼの律法を毀〔こぼ〕つ者に非ず、去りとて又律法に反対せしが如くに見えし預言者を斥くる者にあらず、我は一見矛盾〔むじゆん〕の状を呈せる律法、預言両〔ふた〕つながらを尊敬する者なり
○「来りて云々」毀たんために来らず、成就せんために来れり、我が降世の目的は過去の破壊にあらず、其完成にあり、其精神を発揮し、其目的を達せしめんためなり、律法は律法の(みこころ)を遂(と)げんためなり、預言は預言のためにあらず、神の聖意を伝へんためなり、我は律法又は預言の要求に応じて世に臨みし者なり。
(改訳) 我れ律法又は預言者を毀たんために来れりと思ふ勿れ、毀たんために来らず、成就せんために来れり。
 
我れ誠に汝等に告げん、天地の尽きざる中に律法の一点一画も遂げ尽くさずして廃ることなし。
すた(18)
 
「我れ誠に汝等に告げん」我れ我が権能を以て汝等に告ぐ、我は真(まこと)なり、我が言に偽(いつわり)あるなしと、是れキリストの言なり、疑はずして納(う)くべきものなり
「天地の尽きざる中に」此天と此地との過ぎ去るまでは、即ち今在りて後に過ぎ去るべき天と地との過ぎ去る迄は(黙示録廿章十一節、仝廿〔廿一〕章一節参照)、律法はキリストの言の如くに永久に存すべき者にあらず(馬太〔マタイ〕伝廿四章廿五〔卅五〕節参照) 律法は此天地と其存在を共にする者なり、然れども此天此地が過ぎ去るまでは存在し且つ有効なるものなり
「律法の一点一画」希伯来〔ヘブライ〕文字を以て書かれたる律法の中に存する点画を云ふ、点は音を示し、画は音を音より、音を音より区別す、曰ふ、旧約聖書中に六万六千四百二十の点字ありと、キリストは茲〔ここ〕に曰ひ給ふ、此天と此地とが過ぎ去るまでは律法は其全
点はiアイ音を示し、画はdデイー音をrアール音よりbビー音をkケイより区別する。
体に於て有効なるべしと○ 「遂げ尽さずして」万事が遂行(なしと)げられずして、日本訳に「万事」の一語を脱せり為めに原意を害ふこと甚だし、「遂げつくさずして」とは律法に関しての言にあらず、万事の遂行とは天地の過去と云ふに同じ、即ち天地万物が其用を成了(なし)ふるを云ふ、使徒行伝三章廿一節に於(お)ける万物の復興と云ふに同じ、万事悉〔ことごと〕く成るまでは、此天と此地との目的が悉〔ことごと〕く達せらるるまでは云々。
 (改訳) 我れ誠に汝等に告ぐ、此天と此地との過ぎ去るまでは律法の一点一画も過ぎ去らざるべし、然り、万事が遂行(なしと)げらるゝまでは過ぎ去らざるべし。
 
是故(このゆえ)に人若(も)し誡(いましめ)の至微(いとちいさ)き一つを破り、又その如く人に教へなば天国に於て至(いと)ちいさき者と謂(い)はれん、凡そ之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし。(19)
 
「是故に」律法は其全体に於て斯くも神聖なる者なれば
○「誡(いましめ)の至微(いとちいさ)き一つ」誡の一つ、其微少きものゝ一つ。誡とは此場合に於ては明かにモーゼの十誡なり、律法は其全体に於て神聖なり、故に律法の中心にして曾根本たる十誡は殊に神聖なり、故に其一を破る者は、其中の至微さきものゝ一を破る者は云々、至微さきとは人に由て至微と称せらるゝの意なり、キリスト在世当時の人は十誡中に大小の区別を立てしが如し、其第一が最大の誡にして第六以下は之を小なる誡と称せしが如し、然れどもキリストは茲に曰ひ給ふ、律法全体は神聖なり、十誡は殊に神聖なり、之に世の宗教家が称する如く大小の区別あるべからず、人若し其中の最小と称せらるゝものを破らば其人は天国に於て最小の者と謂はるべしと
○「破り又その如く人に教へ」人は独り罪を犯さず、他人を誘ふて己と偕〔とも〕に同一の罪を犯さしむ
○「天国に於て」新らしき天と新しき地に於て。先きの天と先きの地とが過ぎ去りて後に神の所より出で来る天地を云ふ(黙示録廿一章一、二節)、完成されたる未来の世界、信者が其復活体を以てキリストと偕に臨む所
○「至微(いとちいさ)き者と謂はれん」謂はるべし、至微(いとちい)さしと称して神聖なる十誡の一つを破る者は未来のキリストの国に於て真実(まこと)に至微さき者と謂はるべし、想像は現実と化すべし、小事を怠るは決して小事にあらざるなり
○「之を行ひ」十誡のすべてを行ひ、殊に其至微さしと称せらるゝものを行ふ者
○「大なる者と謂はるべし」小なる誡を行ひしが故に大なる者と謂はるべし、小事に忠なりしが故に大なる物を委ねらるべし(馬太〔マタイ〕伝廿五章廿三節)
 (改訳) 是故に人若〔も〕し誡の一を破り、殊に其至微さきものゝ一を破り、又その如く人に教へなば天国に於て至微さき者と謂はるべし、然れども之を行ひ且つ人に教ふる者は天国に於て大なる者と謂はるべし。我れ汝等に告げん、学者とパリサイの人の義〔ただ〕しきよりも汝等の義〔ただ〕しきこと勝(すぐ)れずば必ず天国に入ること能〔あた〕はじ。  (20)
 
「我れ汝等に告げん」我れ我が特殊の教訓として汝等に告ぐべし、即ち云々
○「学者とパリサイの人」当時普通の教師なり、之を偽善者と解するは非なり、キリストは時には彼等を罵り給へり、然れども律法と預言とを重じ給ひし彼は又其教師を重じ給ひしなり(約翰〔ヨハネ〕伝三章に於けるニコデモの場合を参照せよ)
○「学者とパリサイの人の義」彼等に由て行はれし義、或ひは彼等に由て教へられし義、蓋〔けだ〕し後者なるべし、是れ必しも悪しきにあらず、然れども肉の義なるが故に霊の義となすに足らず(約翰〔ヨハネ〕伝三章六、七節参照)
  「勝れずば」それ以上の者たらずば、其性質に於て肉以上の義たらざれば、古人に伝へられ、今、学者とパリサイの人に由て伝へらるゝ義は善は善なりと雖〔いえど〕も、以て之を行ふ者をして天国に入らしむるに足らず、十誡は之を心霊的に解せざるべからず、而して斯く解して之を行ふて始めて天国に入るを得べし。
(改訳) 我れ汝等に告ぐ、汝等の義(ぎ)にして学者とパリサイの人の義に勝れざるよりは汝等天国に入る能はず。
キリストは破壊者に非ず、完成者なり、完成者なるが故に破壊者の如くに見ゆるなり、破壊するための破壊者あり、完成するための破壊者あり、前者は真正の破壊者にして、後者は真正の建設者なり、而してキリストは斯かる建設者たりしなり(十七節)
○能〔よ〕く物の精神を発揮する者は其物を不要ならしむ、是れ其物を廃してにあらず、其目的を達せしめてなり、殻(から)は芽(め)を護るに要あり、然れども幼芽已〔めおのづ〕に根を地中に張つて殻は自から不要に帰す、殻は殻として貴まざるべからず、然れども殻は永久に存すべき者に非ず、芽を殻の破壊者と見るは否なり、芽は殻の破壊者に非ず、其完成者なり(十七節)
大なる誡は守り易し、小なる者と雖も能く之を守るを得べし、難きは小なる誡を守るにあり、天国に於て大なる者は世の小事に忠なりし者なり(廿五章廿三節)、小事は措〔おい〕て之を省〔かえり〕みずと称する者はキリストの歓楽(よろこび)に入る能はざるなり(十九節)
「天国に於て至微さき者と謂はるべし」天国に入り得ざるにはあらざるべし、入るも其市民中至微さき者と謂はるべしと、キリストは厳粛一方の救主にあらず、彼は誤りて誡を破りし者にも天国に入るの希望を供し給ふ、但し其中に在りて大なる者たるを許し給はず、恩恵は正義の上に出づることあり、然れども正義を滅する能はず(十九節)
○天国に入らんと欲せば律法のすべてを行はざるべからず、之を其最深最高の意義に於て行はざるべからず、然れども是れ何人も力〔つと〕めて為す能はざる所なり、若し律法遂行の途にして他に備えられざるよりは何人も天国に入る能はざるなり。
○然れども一人のイエスキリストの律法の要求を悉く充たし給ひしあり、而して我等は彼に在りて完全なる律法の遂行者たり得るなり、そはすべて信ずる者の義とせられん為にキリストは律法の終となり給へば也(羅馬〔ロマ〕書十章四節)、天が下にキリストを除いて他に救ひなきは是れが故也。
 
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