内村鑑三 マタイ伝 40講 祈祷の効力

40 マタイ伝
 
祈祷の効力
馬太伝七章七―十二節の研究三月廿二日柏木聖書講堂に於て為せる講演の要点
大正3510 『聖書之研究』166  署名内村鑑三
 
エスの宣(のべ)たまひし天国の律法(おきて)はモーセに由りて伝はりし旧約の律法よりも遥(はるか)に厳格である、循(した)つて前者を守るの困難は後者を守るの困難の及ぶ所でない、天国の祉福(さいわい)は慕ふべきものであるが、之に入るの困難の殆〔ほと〕んど無限なるを知れば、天国は我れ如き凡夫(ひと)に取りては有りて無きに等しき者である、我は天国の市民たらんと欲するも之れに入るの能力なきを奈何(いかん)せんとはイエスの山上の説教を聞いて何人にも起る感想である、「然らば誰か救はるゝを得ん」とは此の場合に於てのみならず、他の場合に於ても屡々〔しばしば〕弟子等の心に起りし疑問であつた(馬太〔マタイ〕伝十九章廿五節)、イエスの宣べ給ひし天国の律法は肉を具(そな)へたる我等に取りては余りに純潔である、其実行は我等の荏弱(よわき)を以てしては到底及ぶべくもない、「誰か之れに堪(たへ)んや」である、イエスの要求と我等の能力(ちから)との間に天地霄壌(てんちせうじやう)も啻(ただ)ならざる相違(そうい)がある。
而〔しか〕して此疑懼懸念(ぎくけねん)を除(のぞ)かんがためにイエスは最後に左の一言を述べ給ふたのである、之は是れ「山上の垂訓」の総括(そうくくり)とも称すべき者である、
求めよ、然らば与(あた)へられん、尋ねよ、然らば会はん、(門を)叩けよ、然らば開かれん、蓋(そは)すべて、求むる者は得、尋ぬる者は会ひ、(門を)叩く者は開かるべければ也
と、イエスは茲〔ここ〕に言ひ給ふたのである、
 
汝等我が福音を聞いて敢て失望するに及ばず我が要求に応ずるは実に困難なり、我は言へり「汝等の義にして学者とパリサイの人の義に勝(まさ)るにあらずんば汝等は必ず天国に入る能〔あた〕はず」と、然れども人には能はざる所なりと雖〔いえど〕も神には能はざる所なし、汝等は自己(みずから)の能力(ちから)に依頼(たよ)りて我が訓誡(いましめ)を守る能はず、然れども天に在(いま)す汝等の父は汝等を助けて汝等をして能く此至難(しなん)の業(ぎょう)を就(と)げしめ給ふ、求めよ、然らば与へられん、尋(たず)ねよ、然らば会はん、叩けよ然らば聞かれん、汝等の能力(ちから)の不足をば父に祈りて補へよ、彼は喜びて汝等の祈祷に答へ給はんと、天国の律法は正さに厳格である、是れ生れながらの人の能〔よ〕く守ることの出来る者ではない然ればとて人の
守る能はざる者ではない、神の能力(ちから)に託(よ)りて守ることの出来る者である、イエスの訓誡(おしえ)を聴いて其厳格なるに怖て之を守るの責任を避けんとするは未〔いま〕だ福音の真髄に達しないからである、山上の垂訓は祝福を以て始つた
而して祈祷を以て終つて居るのである、祝福を以て始まり、祈祷を以て終る、是れ福音の福音たる所以(ゆえん)である、始めが恩恵であつて終りが恩恵である、神の愛を以て始まつて神の愛を以て終るべき者である、イエスは人が神の佑助(たすけ)に依らずして実行し得べき者として天国の律法を宣(の)べ給はなかつた、神に求めて、彼に尋ねて、彼の聖意(みこゝろ)の門を叩(たた)いて、右の頬(ほほ)を批(う)たるゝ時に又左の頬をも転(めぐ)らして之に向けるの忍耐、我等を詛(のろ)ふる者を祝し、我等を
迫害(せ)むる者のために祈るの愛心をも、我有〔わがもの〕となす事が出来るのである、イエスの弟子たる者は其祈祷の範囲を善心の祈求にまで拡張すべきである、我等は善事を行(な)して善心を賜はるのではない、先〔ま〕づ祈りて善心其物を賜はり、之に由りて心よりする善事を為すのである、山上の垂訓を以てイエスの純道徳と見做〔みな〕す者は、彼が祈祷の勧告(すすめ)を以て之を結び給ひしことに気の附かざる者である。
求めよ……尋ねよ……叩けよと云ふ、「求めよ」は言辞(ことば)を以て求めよとの事である、「尋ねよ」は足を運(はこ)びて尋ねよとの事である、「叩けよ」とは手を挙げて叩けよとの事である、口を以て祈求(ねが)へよ、若〔も〕し聴かれずば足を運(はこ)びて祈求へよ、若し猶〔な〕ほ聴かれずば手を伸べて祈求(ねが)へよとの事である、祈祷は切々(せつ〳〵)ならざるべらずとの事である、然らば必ず与へらるべしとの事である、祈祷(ねがい)は聴かるゝまで忍耐を要するのである、「ひたすら請ふが故に其需(もとめ)に従ひ起て予ふべし」とある(路加〔ルカ〕伝十一章八節)、求めて聴かれざれば尋ねよ尋ねて猶ほ聴かれざれば叩けよ、然らば父は汝等がひたすら請ふが故に汝等の需(もとめ)に従ひ、汝等が守るに難しとする我が高き聖(きよ)き天国の律法を行ふに足るの能力(ちから)と精神とを汝等に与へ給はんとイエスは茲(ここ)に教へ給ふたのである。
而して祈祷の聴かるゝ理由を述べてイエスは曰ひ給ふたのである、
汝等の中、誰か其子がパンを求めんに石を予(あた)へんや、又魚を求めんに蛇を予へんや、然らば汝等悪者(あしきもの)なるに善物(よきもの)を其子に与ふるを知る況(まし)て天に在(いま)す汝等の父は求むる者に善物を賜はざらんやと、祈祷が神に聴かるゝ理由は是れである、若し是れが理由にならないならば、人の祈祷が神に聴かるゝ理由と
ては他には無いのである、祈祷の効験は之を科学的に証明することは出来ない、祈祷は何故(なぜ)聴かるゝか之を論理的に証拠立(しょうこだ)つることは出来ない、然れども父の親心に訴へて見て神が祈祷を聴き給ふ其理由は判明(わか)るのである、
 
父が其子を憐〔あわれ〕むが如く ヱホバは己を畏るゝ者を憫み給ふ
 
とある(詩篇百三篇十三節)、人なる父が其子を憐〔あわれ〕む心は固々(もと〳〵)神より出た者である、原因は結果より小なる能はずである、人なる父に子を憐むの心があるとすれば、其心を人に賜ひし神には其れ以上の憐憫(あわれみ)の心が無くてはならない、
「子を持て知る親の恩」と云ふ、然り、「親となりて知る神の愛」である、我れにさへ子を憐むの愛がある、
 
況(ま)して天に在〔いま〕す我が父に於てをや、祈祷が神に聴かるゝ理由は是れで充分である、是れ以上に所謂〔いわゆる〕祈祷の哲学」を攻究するの必要は無い。
「汝等悪者なるに」とイエスは其弟子等に対(むか)つて言ひ給ふた、「悪者」とは「悪魔の同類」といふと同じである、此は過激(かげき)の言ではあるまい乎〔か〕、ペテロ、アンデレ、ヤコブヨハネ等は果して「悪者」であつたのであらふ乎、
而かしてイエスは彼等を恁く称びて憚〔はば〕かり給はなかつたのである「善者(よきもの)は唯(ただ)一人、神のみ」とは聖書全体が教ゆる所である、聖書は近代人の如くに人の性の善を説いて世の歓迎を博せんとはしない、聖書は明白(あからさま)に人の性来(うまれつきの)悪者なるを唱へて、彼を根本的に悪より拯(すく)はんとする、「汝等悪者なるに猶ほ其子を憐むを知る」とイエスは言ひ給ふた、悪者なるに猶ほ善性の存(のこ)るを知る、況(ま)して絶対的に善者なる天に在す汝の父は云々と、イエスの論証に
強硬(きょうこう)にして抗(こう)すべからざる所がある。
エスは祈祷の効力に就き更らに語(ことば)を続けて曰ひ給ふた、
是故(このゆえ)に汝等凡(すべ)て人に為(せ)られんと欲することは亦人にも其如く為よ、是れ律法(おきて)と預言者たる也と、己れの欲せざる所は之を人に施す勿〔なか〕れとは孔子の金言である、己れ人に為られんと欲することは亦人にも其如く為(な)すべしとはイエスの玉詔(ぎよくせう)である、前者は消極的に害を他人に加ふる勿れと誡め、後者は積極的に善を他人に施すべしと教ゆ、人の道の終局は無害なることである神の道の終局は至善なることである、退いて己を潔(きよ)うする道と、進んで愛を完全(まつと)うする道と、其間に天地の差別がある。
其事は判明(わか)つたとして、何故の「是故に」である乎、進んで人に善を為すことが祈祷の効力に何の関係がある乎、是は人に対する事であつて、彼は神に対する事ではない乎、是れと彼れとは全く別の事ではない乎。
これかれべつ
爾〔そ〕うではないのである、神に善物(よきもの)を求むる事(祈祷)と他人(ひと)に善事(よきこと)を為す事との間に最も密接なる関係があるのである、故にイエスは「是故に」と言ひ給ひて、効力ある祈祷の必要条件として善事実行の玉詔を下し給ふたのである、彼は曰ひ給ふたのである、汝は自己の努力を以て天国の市民たる能はず其資格を得んと欲して汝は神の佑助(たすけ)を仰がざるべからず、汝は祈りて善心の恩賜に与〔あず〕からざるべからず、是故に、汝は神に為(せ)られんと欲するが如くに、人に為(な)さゞるべからず、「汝が人を量る如く己も量らるべし」と我が言ひしは此事なり、汝は人に汝の有する善物を与へて神の有する善物即ち聖霊の恩賜(おんし)に与(あずか)らざるべからずと、恁(か)くして道徳は宗教に結附けられたのである、祈祷は人が神に対して取るべき態度であつて、善行は人が人に対して為すべき事である、而して人の神に対する態度は彼が人に対する態度に由て定まるのである、人を恵まんとするの態度は神に恵まるゝの態度と成り、人を憐まんとするの態度は神に憫まるゝの態度と成るのである、
是故に使徒ヤコブは曰ふた
憐むことをせざる者は鞫(さば)かるゝ時また憐(あわれ)まるゝこと無からん
(雅各〔ヤコブ〕書二章十三節)、而して「鞫(さば)かるゝ時」に限らない、何時にても神に憐まれんと欲する者は人を憐むべきである、神に我が祈祷を聴かれんと欲すれば、人が我に祈求(ねが)はざる前(さき)に自〔みず〕から進んで我が欲する所を人に施すべ
きである。
汝等凡〔すべ〕て人に為られんと欲することは云々とある其「人」と云ふ中に神も含まれてあるのである、此場合に於て「人」は「他者」の意である、「汝以外の者」の意である、故にイエスの此言〔ことば〕を左の如くに変へるも其根本の意味は変らないのである、
汝等すべて神に為られんと欲することは亦人にも其如く為よと、六章十四、十五節に
汝等もし人の罪を免(ゆるさ)さば天に在(いま)す汝等の父も亦汝等を免(ゆる)し給はん、然れど若し人の罪を免ずば汝等の父も汝等の罪を免し給はざるべし
とあると其意義は同じである、汝等神に為られんと欲する如くに人に為すべしと云ひて基督信者の道徳の原理は明白に言表(いいあら)はさるゝのであると思ふ。
「是れ律法と預言者たる也」是れ旧約の全部たる也、神を愛す、神を愛するの途〔みち〕として人を愛す、神に愛せらるゝの条件として人を愛す、旧約全部の教ふる所は之に過ずとのことである、而して天国の福音も亦畢竟(つま)る所これに外ならないのである、「是れ律法と預言者たる也」と言ひてイエスは祈祷の効力に関(かか)はる彼の訓誡を終(おし)へ給ふたに止まらない、是を以て山上の説教を終へ給ふたのである、彼は初めに言ひ給ふた、我れ律法〔おきて〕と預言者を廃(すつ)るために来れりと思ふ勿れ、廃るために来りしに非ず成就(じやうじゆ)せんためなり、と(五章十七節)、而して今や当8まさ)に説教を終へんとして言ひ給ふたのである、是れ律法と預言者たる也と、我が茲に宣べし此言、是れ実(まこと)に律法と預言者たる也とのことであつた、愛、神は父として人を愛し給ふ、人は子として神を愛すべきである、而して神を愛するの愛を以て他の人を愛すべきであると、是れ律法と預言者とである、而して又イエスの福音である、天の高きも地の深きも是れ以外には達しないのである。
 
 
イメージ 1
 クリスマス会のお茶の時間