内村鑑三 マタイ伝 36講 生活問題の解決

36 マタイ伝
 
生活問題の解決
(八月二十三日鳴浜村に於て)
明治41910日『聖書之研究』102号「小釈」    署名なし
 
汝等何を食ひ、何を飲み、何を衣〔き〕んとて思慮(おもひわづら)ふ勿〔なか〕れ、是れ皆な異邦人の求むる者なり、汝等の天の父は凡〔すべ〕て此等のものゝ必需(なくてならぬ)ことを知り給へり、汝等先〔ま〕づ神の国と其義(たゞしき)とを求めよ、然らば此等のものは皆な汝等に加へらるべし。馬太〔マタイ〕伝六章三十一―三十三節。
 
汝等世を渡るに貪(むさぼ)ることをせず、有る所を以て足れりとせよ、そは我れ汝を去らず、更らに汝を棄てじと言給ひたれば也、然れば我等毅然として曰〔い〕ふべし、主、我を助くる者なれば恐れなし、人、我に何をか為さんと。希伯来〔ヘブル〕書十三章五、六節。
衣食のために憂慮する勿れとの教訓である、斯かる憂慮(おしえ)を懐〔か〕くことは神の子として耻づべきこと、是れ異邦人のなすこと、クリスチヤンたる者の為〔な〕すべからざる事であるとの事である。
然し実際は如何(どう)である乎、信者不信者を問はず、生活問題は人生の最大問題ではない乎、我等の見ること、聞くこと、考ふることはすべて此問題に関聯して居るではない乎、然るにキリストは教へて曰ひ給ふのである、斯かる問題を放棄せよ、是れ汝等に取り不用問題である、汝等は他に大問題のあるあり、之を解決せよ、去らば
生活問題の如きは問はずして明かになるべしとの事である。
爾〔そ〕うして世に誰か生活問題の煩悶より脱せんことを願はざるものあるや、是れ吾人を縛る縄である、吾人を圧する石である、是れあるが故に吾人は奴隷である、吾人は饑餓の鞭に撻〔う〕たれながら止むを得ず動く牛馬の如き者である。
然れども神は吾人が斯かる浅ましき地位に在ることを好(この)み給はない、万物の霊長たる人間は牛馬の如くに饑餓の恐怖に駆られて事を為すべき筈の者ではない、人生の目的は食つて、飲んで、衣ることではない、人生の目的は他にある、それは神の国と其義である、是れをさへ求むれば衣食の如きは求めずして来るとのことである。
聖書の此言葉を取て多くの人は極く簡短に且〔か〕つ浅薄に解釈する、即〔すなわ〕ち「汝正義を執て動く勿れ、然らば饑餓の憂慮あるなけん」と、是れ悪(わ)るい解釈ではない、其中に取るべきの真理が無いではない。
乍然〔しかしながら〕、単に正義を追求すればとて衣食問題は解けない、少くとも其心配は去らない、世の正義を唱ふる人士にして往々にして貧を嘆(かこ)つの悲声を発する者多きは是れがためである、神が吾人より求め給ふ所は貧を忍ぶことではない、之を意に介せざる事である、貧に居りながら貴公子の態度に在る事である、必ず与へらるべしとの確信を以て生活のことに就ては些少(すこし)の心配なく神の命じ給ひし事業に就くことである、「神の子の自由」とは此事である、此自由を得し者が即ちクリスチヤンであるのである。
然らば如何(どう)したならば此自由と此安心とが得られやう乎と云ふに、それは神の国と其義とを得るに由てゞある、神の国一名之を「父の国」(馬太伝二十六章二十九節)といふ、爾うして父の国と云へば即ち父の家である、国と云へば是れに法律もある、政治もある、然し家には法律はない、ホームの法律は愛である、愛は法律ならざる法律である、此処は恩恵の充ち満つる所である、此処(ここ)には「アバ父よ」と云ふ声と「アヽ我子よ」といふ声との外に権利義務の声は聞えないのである、父の家には帝王の威厳がないと同時に又臣民の奴隷根性がない、愛する父に愛せらるゝ子、二者に由て「聖家(きよきいえ)」は組織せらるゝのである。
神の国とは父の家であつて、愛は其唯一の法律であるから、其義なる者は此世でいふ、硬(かた)い、冷たい、規則の義ではない、是れは人が己を義とする義ではなくして、神がキリストに由て人に被(き)せ給ふ義である、即ち神より与へらるゝ義である、故に受くる人の側に在ては虚心(むなしきこゝろ)である、極く深い意味に於ての謙遜である、即ち父に縋〔すが〕る小児の心である、是れが父の家に於ける義である、最も単純なる、而〔し〕かも最も高い最も貴い義である。
此国()と其義(小児心)を求めよ、去らば衣食の心配は全く取去らるべしとのことである、爾うして是れ理由なき教訓ではない、天地は父なる神の造つた者、其中に父の心は充ち溢れて居る、之に対するに小児の心を以てすれば神は父の心を以て吾人に対し、天地は其宝庫を開いて吾人に供給する、爾(そ)うして是れ六ケ敷(むつかああし)い一つの人生哲学ではない、何人も実験することの出来る人生の事実である、吾人が己の義に頼り、権利を笠に被(き)て天地に迫り、吾人の受くべきものを受けんとする故に、天地も亦〔また〕吾人に臨むに権能を以てし、吾人相当のものより他の物は与へないのである、「父の家」に居らない人の万物に対する態度は債主が負債者に対するの態度にあらざれば、被雇人が雇主に対する態度である、即ち法律一方の態度であつて、極く冷たい、狭苦(せまくる)しい態度である。
然れども斯かる冷たい狭苦しい態度を去て、小児の心を以て神と万物とに対せんか、二者は大手を拡(ひろ)げて我等を迎へ、子を愛するの愛を以て我等を待(あし)らひ、我等をして何の乏しき所あらざらしむるのである、斯かる態度に出て我等は直〔ただち〕に心に大たる平和を感じ、饑餓の憂慮の如きは其時直に消去て跡なきに至るのである、キリストに子たるの此心があつた、故に彼は身は貧に居りしと雖〔いえど〕も曾〔かつ〕て一回も衣食と金銭との事に関して心配を為し給はなかつたのである。恰〔あた〕かも天地と其中に在る万物は我有〔わがもの〕であるかの如くに感じ、大手を揮て人生の大道を歩まれたのである、我等も亦彼より「子たるの霊」を受け、神に対し子たるの態度に出で、饑餓の憂慮の如きは全然之を放棄し、毅然として此世に対し、其中に在て神の聖意を行ふべきである。
 
イメージ 1
バースデイのためのおまけのケーキ。