内村鑑三 マタイ伝 51ー2講馬太伝第十三章の研究-2

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51-2 マタイ伝-2
馬太伝第十三章の研究
大正6210日・410 『聖書之研究』199201  署名内村鑑三
注意、読者は此篇を読む前に本文を両三回精読するを要す
 
読者に勧む、此篇を読む前に再び聖書の本文を精読し、併〔あわ〕せて上篇を通読して前後の聯絡〔れんらく〕を明〔あきらか〕にせられんことを。
○馬太〔マタイ〕伝第十三章は七(ななつ)の比喩(たとへ)を以てせる福音の未来史である、播〔ま〕かるゝ種は多しと雖〔いえど〕も生える種は尠しとは播種(たねまき)の比喩の語る所である、生えし純正の福音は偽(いつわり)の信者の淆乱(みだ)す所となるとは稗子(からすむぎ)の比喩(たとへ)の示す所である、而〔しか〕して俗人の混入に由りて信者の団体は教会と化し此世の大勢力と成りて終〔つい〕に天空(そら)の鳥即ち悪魔の宿る所となるとは芥(からし)種(だね)の比喩の教ふる所である、以上は前篇に於て余輩の叙述せし所の大略である。
○然らば第四の比喩(たとへ)即(すなわ)ち麪種(ぱんだね)の比喩(たとへ)は何を語るのである乎〔か〕。
天国は麪種(ぱんだね)の如し、婦(おんな)之を取り三斗の粉(こ)の中に蔵(か)くせば悉(ことごと)く脹発(ふくれいだ)すなりと云〔い〕ふ(三十三節) 而して普通の解釈に循〔したが〕へば是は小なる教会が終〔つい〕に大なる世界を教化するに至るを示すの比喩であると云ふ、実(まこと)に十二使徒を以て始まりし微々たる教会が今や世界の大勢力となり、所謂〔いわゆる〕基督教文明の恩化の至らざる所なきに至りしを見て、キリストの此比喩の此事を預言せる者なるを想はざるを得ない、然し乍〔なが〕ら斯〔か〕く解して之を其前後の比喩と関聯して考へることが出来ない、前の三箇の比喩は悉く福音史の暗黒面を語る者である、故に此比喩も亦(また)同方面を語る者でなくてはならない、福音宣伝は失敗多くして成功尠く、真信仰は偽信仰の偽和する所となり、教会は終に悪魔の巣窟と化するに至ると述べ来て、倏(たちま)ち茲〔ここ〕に論旨を一変して此教会が全世界を教化するに至るべしと云ふは自家撞着の言である、而して又其他に猶〔なお〕一つ注意すべき事がある、夫〔そ〕れは聖書に在りては麪種は常に悪しき意味に於て用ゐらるゝと云ふ事である、イエスが弟子等に「戒心(こころ)してパリサイとサドカイの人の麪種を慎めよ」と誡めし時に、彼は彼等の誤れる教(主義)を指して語り給ひし事を弟子等は後に至て悟つたのである(馬太伝十六章を見よ)、イエスは又或時にパリサイの人の麪酵の何である乎を其弟子等に告げて言ひ給ふた「汝等パリサイの人の麪酵を慎めよ是れ偽善なり」と(路加〔ルカ〕伝十二章一節)パウロは又麪酵(ぱんだね)に就て左の如くに語て居る、
汝等の誇るは宜〔よろ〕しからず、汝等少許(すこし)の麪酵全団を脹発(ふくら)すを知らざる乎、汝等は麪酵(ぱんだね)なきが如き者なれば旧(ふる)き麪酵を除きて新しき団塊(かたまり)となるべし、夫れ我等の逾越(すぎこし)即(すなわ)ちキリストは既(すで)に宰(ほふ)られ給へり、然れば我等旧き麪酵、又悪毒暴很〔ぼうこん〕の麪酵を用ゐず、真実至誠の無酵麪(たねなきぱん)を用ゐて節(いわい)を守るべしと(哥林多〔コリント〕前五章六―八節) 此場合に於て麪種は凡〔すべ〕て悪しき意味に於て用ゐられて居る、旧き麪種と云ひ、悪毒暴很の麪種と云ひ、而して之に対する真実至誠の無酵麪と云ふ、信者が其団体(団塊)の中より除くべき者は旧き麪種であると云ひて、イエスが其弟子等にパリサイとサドカイの人等の麪種を慎むべしと教へ給ひし意味が稍明(やゝ)瞭になるのである、而して此意味を以て麪種の比喩を解して其意味を探るに難くないのである、此場合に於て麪種は異端である、腐敗である、此世の精神である、即ちパリサイとサドカイの人等の主義である、即ち旧き麪種である、肉の心である、暗黒の勢力である、而して茲に「天国」と云ふは芥種(からしだね)の比喩に於て見たる俗化せる天国、即ち所謂教会である、イエスは茲に弟子等に教へて言ひ給ふたのである、天国の俗化せる者、地上の教会、偽(にせ)信者の混入に由りて地上の大勢力と成り悪魔の棲息する所と成りし者、
我れ之を何に喩〔たと〕へん、婦の取りし三斗の麦粉(むぎこ)の中に麪酵(ぱんだね)の蔵されしが如し、其醗酵を受けて全団醗酵膨脹する也と、即ち芥種の比喩は教会外側の拡張を語りしに対して麪種の比喩は其内部の俗化を示すのである、教会は外に勢力を得て内に俗了すとは是等二箇の比喩の明かに告ぐる所である、殊に「婦」之を取りと云ふ、「婦」と云ふ文字も「麪種」と云ふ文字と同じく聖書に在りては多くは悪しき意味に於て用ゐらる、キリストが使徒ヨハネを以てテアテラの教会を責め給ひし言に「我が僕(しもべ)を教へ、之を惑はし、姦淫〔かんいん〕を行はせ、偶像に献げし物を食はしむる婦イエザベルを容置けり」と云ふがある(黙示録二章二十節) 又同じ黙示録の第十七章に「多くの水の上に坐する大淫婦の審判(さばき)」に就て示されてある、而して此淫婦は「バビロン、地の淫婦と憎むべき者の母」であると言ひて堕落せる教会を表示する者であるとは註解者の一致する所である、故に「婦麪種を取り三斗の粉の中に蔵(かく)せば云々」と読みて我等は何か特別に悪しき事の為されしことを茲(ここ)に認むるのである、而して其悪事の何たる乎は之を探ぐるに難くないのである、堕落せる教会がパリサイの人の麪種(ぱんだね)なる偽善と、サドカイの人の麪種(ぱんだね)なる異端と、ヘロデの麪種(ぱんだね)なる政治的宗教(馬可〔マルコ〕伝八章十五節以下を見よ)とを其信者の団塊の中に投じたれば全団悉(ことごと)く之に酵化されて脹発(ふくれいだ)せりとのことである、「視よ微小(わずか)の火いかに大なる林を燃(もや)すを」とは使徒ヤコブの言である(雅各〔ヤコブ〕書三章五)「視よ少量の麪種、少数の偽善、簡短にして害なきが如くに見ゆる異端、愛国的にして社交的なるが如くに見ゆる世俗的精神、視よ少量の毒素の如何〔いか〕に全教会全基督教界を毒する乎〔か〕を」とはキリストが此の簡短にして意味深遠なる比喩を以て教へんと欲し給ひし所である、而して教会歴史は此比喩的預言が告げし通りに行はれたのである、教会は芥種の比喩の如くに急激に生長し、悪魔と其眷属との宿る所となりしと同時に又其道徳と信仰と行為とに於て全く俗化され、今や預言者イザヤの言に合ひて足の蹠より頭に至るまで健全なる所なきに至つたのである、敢て此事を過去の教会に於て探ぐるの必要はない、現今の教会に於て明々白々である、偽善は教会の特質である、曾〔かつ〕てカーライルが言ひし如く偽善と知て行ふ偽善に恕〔ゆる〕すべき所がある、然れども最も憎むべきは美徳と信じて行ふ偽善である、而して斯かる「正直なる偽善」が教会に於て行はるゝのである、普通の社会に有ては明白なる不徳と思はるゝ事も教会に在りては悪事として認められないのである、殊に其不徳が牧師神学者等教権を握る者に由て行はるゝ場合には特に然りである、教会は或る聖事を神より委〔ゆだ〕ねられしが故に或る種
の罪は之を犯すの特許を得しが如くに信ずるのである、教会は其所謂伝道を行ふに方〔あたつ〕て手段方法を択まない、如何なる種類の商人よりも寄附金を懇求し、如何なる性質の政治家よりも其権力を藉らんとし、如何なる人物をも信者として収容する、奸策を用ゐ、陥擠〔かんせい〕を敢(あえて)し、諂媚(てんび)を恥としない、然かも彼等は如斯〔かくのごと〕くにして神に仕へつゝあると信ずる、「徧(あまね)く水陸を歴巡(へめぐ)り一人をも己が宗旨に引入れんとし、既に引入るれば之を己れに倍する地獄の子を為せり」との偽善なる学者とパリサイの人の麪種(ぱんだね)は教会の全団を酵化し、信者は之に慣れて自ら旧き麪種の害毒を感じないのである、而してパリサイの人の麪種に加へてサドカイの人の麪種が浸入した、サドカイの人は復活を否定した(馬太伝廿二章廿三節以下) 其如く今の教会は復活を以て信仰の根本的要義と認めない、「若〔も〕し甦ることなく、又キリスト甦(よみがえ)らざりしならば汝等の信仰は徒然(むなし)」とパウロが言ひし此教義は今や教会に於て重視せられず、人若し神を信じ正義を信ずと称すれば復活を信ぜずとも教会は喜んで之を迎へて信者の数に加ふるのである、今やサドカイの人の麪種は教会を酵化して、復活は否定せられ、再臨は嘲笑せられ、信仰は主として肉と現世とに関する事として取扱はるゝも信者は反〔かえつ〕て之を喜びキリストの福音とは斯くあるべき者であると信ずるのである、而してヘロデの麪種(ぱんだね)即ち政治的宗教の瀰漫〔びまん〕に至ては言はずして明かである、政治家の側(がは)に在りては宗教は政治的問題として取扱はれ、宗教家の側に在りては宗教が政治的勢力を占むるに至て其成功が確かめら
るゝのである、所謂〔いわゆる〕「基督教の経世的使命」を唱へ、政治に入るの心を以て宗教に入り、教界の牛耳を採るを以て天下の大権を握るが如くに信ず、或ひは三教会協力して天下を三分すべしと称し、恰〔あた〕かも露独墺が共謀して波蘭ポーランド)を三分せしが如き計策を唱ふ、或は政権と結んで新領土の伝道を図り、或は大教堂を建築して天下の耳目を驚かさんとす、言ふ男子若し政界に雄飛し得ずんば宜〔よろ〕しく教界に人心を収攬〔しゆうらん〕すべしと、志す所功名に在り、代議士たるも神学者たるも其根本的精神に至ては何の異なる所は無いのである、イエスは其弟子等を誡めて言(いひ)給ふた
「汝等ヘロデの麪種(ぱんだね)を慎めよ」と(馬可〔マルコ〕伝八章十五節) 然るに大淫婦なるバビロン、地上の教会は此悪〔にく〕むべき麪種(ぱんだね)を取り之を三斗の粉、即ち彼女が捏(こね)る(牧する)信者の中に投じたれば全国悉〔ことごと〕く脹発(ふくれいだ)して今や教会は政治的団体の一種と化し了〔おわ〕つたのである、如斯くにして「天国は麪種(ぱんだね)の如し、婦 之を取り三斗の粉の中に蔵せば悉く脹発(ふくれいだ)すなり」との主イエスの比喩的預言は其通りに実現されたのである、パリサイの人の麪種、サドカイの人の麪種、ヘロデの麪種、即ち麪種といふ麪種は悉く醗酵して健全なりし信者の団体は悉く其酵化する所となつたのである、「粉」は健全分子を代表し、麪種は腐敗分子を代表する、而して教会の場合に於ても少数の腐敗分子が多数の健全分子を感化し去て全団即ち全教会が偽善的異端的政略的の団塊(かたまり)と成り了つたのである。
○以上が地上に於ける福音の歴史である、福音は播くに難(かた)く(第一比喩)、生長(そだ)つに難(かた)く(第二比喩)、悪魔に利用せられ(第三比喩)、腐敗しおわんぬ(第四比喩)、之を読みて我等は神の聖業〔みわざ〕が全然失敗に了りし乎〔か〕の如き感を起さゞるを得ない、恰(あたか)も彼が其独子〔ひとりご〕を世に遣(おく)り給ひしに世は之を捕へ十字架に釘〔つ〕け墓に葬りしが如くである、然乍(しかしなが)ら神の聖業は失敗に終らないのである、神は世と悪魔の反対に反して其聖意(みこゝろ)を遂行し給ふのである、始めの四箇の比喩は地上の教会に関はる預言である(聖書に在りては四は地の数であるに注意せよ)、而して之に次いで終りの三箇の比喩は天の教会に関する預言である(三は天の数である)、地が福音を俗化し去りて後に天の生命が現はるゝのである。
○第五が蔵〔かく〕れたる宝(たから)の比喩である、曰〔いわ〕く 又天国は畑に蔵れたる宝の如し、人看出(みださ)さば之を秘し、喜び帰り其所有(もちもの)を尽〔ことごと〕く売りてその畑を買ふなり、とある(四四節)、比喩の詳細に就ては茲〔ここ〕に語ることは出来ない、唯〔ただ〕暗黒の裡(うち)に此発見ありしことを見逃すことは出来ない、教会に福音の絶えし時に福音の大発見があるのである、而して宝とは次ぎの比喩に在るが如き真珠と称するが如き一箇又は一種の宝(たから)を指して云ふのではない、宝は宝物(ほうもつ)の集合である、累積せる金銀宝玉である、「宝の函」と謂ふならば意味が一層明瞭であらう、而して「畑に蔵(かく)れたる宝」とは神の聖書であると云ひて此比喩の意味は判明するであらう、腐れたる教会の内に聖書の発見があるとの事であると思ふ、聖書は教会の中に存りしも教会は之を忘却して之を土中に埋めたのである、然るに神の黙示が或者に臨んで其者が此蔵れたる聖書を発見するならんと云ふのである、而して此事は既に一回福音の歴史に於て有つたのである、今より凡〔およ〕そ四百年前にルーテルがエルフルトの寺院に於て古き拉典〔ラテン〕語の聖書を発見せし時に此大発見があつたのである、上に法王あり、其周囲に十二の副法王(カールヂナル)あり、其下に大監督、監督、長老、牧師、伝道師、神学者と限りなき職業的宗教家ありしと雖も、其一人だもが彼等の間に此宝の函の有ることを知らなかつたのである、而かも一個のアウガステン派の僧マルチン・ルーテルは此宝を発見し、彼は之を己が胸に当てゝ言ふたのである「這(こ)は我が書なり」と、而して彼は一切を棄てゝ之を己が有(もの)となしたのである、彼の一生は此宝の開発に費されたのである、而して彼の此発見に由りて旧き教会は壊れ新らしき神の家は地上に現はれたのである、実に人類の発見にしてルーテルの聖書の発見に勝さる者は無つたのである、コロムブスの亜米利加〔アメリカ〕大陸の発見も、グーテンベルグ印刷機の発見も、其他近世に於ける電気 蒸汽 X(エツキス) 光線ラヂユムの発見も其の人類全体に及ぼせし感化力に至ては遥〔はるか〕にルーテルの聖書発見に及ばないのである、実に神の建て給ひし天国は聖書として地に蔵(かく)れたのである、而してルーテルは之を発見して天国は実(まこと)に地上に現はれたのである。