内村鑑三 マタイ伝 25講

25   マタイ伝
 
天国の律法
馬太〔マタイ〕伝五章十七節以下の研究 大正3510日『聖書之研究』166
署名内村鑑三 二月廿二日柏木聖書講堂に於ける講演の要点
 
律法(おきて)はモーセに由りて伝はり恩寵(めぐみ)と真理(まこと)はイエスキリストに由りて来れりとある(約翰〔ヨハネ〕伝一章十七節)、故にキリストの福音に律法は無いと云ふならば誤謬(あやまり)である、キリストの福音にも律法がある、モーセのそれよりも遥(はる)かに深い且〔か〕つ聖(きよ)い律法がある、イエスは茲(ここ)に天国の律法を宣給(のべたま)ひつゝあるのである、使徒ヤコブは之を称(しょう)して自由なる全(まった)き律法(おきて)といふた、束縛(しば)るための律法に非ずして釈放(はな)つための律法である、又強(し)ひられて行ふ律法に非ずして、愛に励まされて行ふ律法である(雅各〔ヤコブ〕書一章廿五節)
エスの宣(のべ)たまひし天国の律法はモーセの律法を壊(こぼ)ちて其上に建てられたる者ではない、イエスは破壊者で無い、彼は旧(きゅう)を壊(こぼ)ちて其上に新(しん)を築き給はない、彼は旧(きう)をして其精神を発揮(はっき)せしめ、新として之を世に供し給ふ、蕾を壊ちて新(あら)たに花を造り給はず、蕾をして花として開かしめ給ふ、律法と預言者とを廃(すて)ず之を成就し給ふと云ふは此事である、方今の哲学の言辞(ことば)を以て言ふならば、イエスモーセの律法を廃棄(はいき)し給はず、之を進化(しんか)せしめ給ふ、モーセの律法の精神を発揮せしめて之を其真正(まこと)の意味に於て行ふことを得しめ給ふ。
今試に之をモーセの律法の或る条項に就て例証せん乎、十誡第六条に曰く、汝殺す勿れと、実に然り、然し乍〔なが〕ら、殺すと云ふことは肉体の生命を奪ふことに止まらない、故(ゆえ)なくして其兄弟を怒ること、其事も亦〔また〕殺すことである、憤怒(ふんど)、仇恨(きうこん)、誹譏(ひき)、讒謗(ざんぼう)、是れ皆な殺人の罪である、殺人は外(そと)の行為(おこない)では無い、内(うち)の心状(こころ)である、人を憎む者は彼を殺す者であると、イエスは如斯(かくのごと)くに十誡第六条を解釈し給ふたのである。
然らば十誡第七条は如何〔いか〕に、汝姦淫する勿れとある、然し乍ら、姦淫するとは止(ただ)に肉体を汚(けが)すことではない、邪念を以て婦(おんな)(他人の妻)を見る者は心中すでに姦淫の罪を犯したのである、饕餮(どんらん)、酔酒(すいしゅ)、放肆(ほうし)、汚穢(おわい)、是れ皆な姦淫の罪である、姦淫も亦殺人と同じく外の行為ではない内の心状である、情性(じょうせい)の汚れたる者はすべて姦淫を犯す者であると、イエスは如斯(かくのごと)くに十誡第七条を解釈し給ふたのである。
 
同一の筆法を以て亦十誡第九条をも解釈すべきである、虚妄(いつわり)の証拠(あかし)を立つるとは法廷に出て法官と同胞とを欺くことばかりでない、誓約を立つること、其事が神と他人(ひと)と自己(おのれ)とを欺くことである、明日あるをさへ知らざる
人が如何で誓約実行を確証するを得んや、彼の為し得る事は唯「主もし許し給はゞ我此事或ひは彼事を行さんと言ふ」事のみである、十誡第九条を完全に守らんと欲せば誓約は絶対的に之を廃止せざるべからずである。
更らに十誡以外の律法に就て言はん乎、復讐は絶対に之を禁ずべきである、人、若し我が右の頬を批たば亦左の頬をも向けて彼をして之を批たしむべきである、絶対的無抵抗主義、天国に於ては、軍備、警察は勿論、民法又は刑法も亦在るべからずである。
悪に抗せざるに止まらず、更らに進んで悪人を愛すべきである、敵と味方との区別を立つべからず、味方を扱ふが如くに敵を扱ふべし、神が其日を善者(よきもの)にも悪者(あしきもの)にも照らし、其雨を義人にも罪人にも降らし給ふが如く、一視同仁(いっしどうじん)、以て自己(おのれ)を愛する者を愛するが如くに、自己を憎む者又虐遇(なやっまし)まし迫害(せまる)る者をも愛すべきである。
以上を以て天国の律法は尽きたりと言ふのではない、然し乍ら、以上に由りて天国の律法の一斑を窺(うかが)ふことが出来るのである、そのモーセの律法(おきて)と異なる点、その之に優(まさ)るの点は以上の引例に由て推知(すいち)することが出来る
十誡のすべて、其他、旧約のすべての律法は以上の範例(あんれい)に由りて解釈せらるべき者である。
依て知るイエスが茲処(ここ)に宣(のべ)たまひし者の天国の律法のすべてにあらざることを、同時に又天国の律法の箇々(ここ)別々(べつ〳〵)の律法より成る者にあらざることを、律法は一である、一の律法を種々(しゆ〴〵)様々(さま〴〵)の場合に適用せんとして幾多の法規法条が在るのである、此事を最も明かに言表はしたのが使徒ヤコブである、
人、律法を悉〔ことごと〕く守るとも若し其一に躓(つまづ)かば是れ全部を犯すなり、それ姦淫する勿れと言ひ給へる者亦殺す勿れと言ひ給ひたれば、汝等姦淫せずとも若し殺すことをせば、律法を犯す者となる也( 即ち姦淫の罪をも併せ犯す者となる也)とある(雅各(ヤコブ)書二章十、十一節)、天国の律法は之を一括して考量(かんが)へなければならない、是は特に殺人を誡め亦特に姦淫を誡めたる律法ではない、是れは罪を其本源に於て糺明すための律法である、故に此罪彼咎を箇々別々(べつ〳〵)に鞫(さば)くための律法でない。
此事を心に留めて、所謂〔いわゆる〕「山上の垂訓」を以て人の過誤(あやまち)を鞫(さば)くための法文として用ゆることの如何に不当である乎が判明(わか)る、イエスは茲処に世の所謂民法又は刑法を定め給ふたのではない、縦し又人ありてイエスの此律法を以て他の人を鞫(さば)かんするも、其は到底不可能(できないこと)である、其故如何にとなれば、人は何人も此律法を以て他の人を鞫くの資格が無いからである、姦淫の故を以て人を鞫かんと欲する者は自身未だ曾(かって)一回も邪念を以て婦人を見たことの無い者でなくてはならない、且又〔かつまた〕律法は一であつて殺人も亦姦淫の罪に問はるべき者であり、而して故なくして人を怒る者は殺人の罪を犯したる者であるとの事であれば、曾て一回たりとも憤怒(ふんど)の罪を犯したる者は殺人の罪に問はるべき者であるが故に、斯かる人は他の人が姦淫の罪を犯したればとて、之を鞫(さば)くの資格を有たない者である、若し人ありてイエスの宣たまひし此天国の律法を以て他の人を鞫(さば)かんと欲するならば、其人は右の頬を批たれし場合には左の頬をも転らして之を批たしめ、裏衣を要求せらるゝ場合には外服をも提供し、人の彼に求むる者あれば己が所有のすべてを与へて惜まざる者でなければならない、若し基督信者が此明白なる事実を認めしならば彼れが今日まで臆面もなく犯し来りし、イエスの「山上の垂訓」を以て他人を鞫きて得々(とく〳〵)たるの恐るべき憎(にく)むべき罪より免(まぬ)がるゝ事が出来たであらふ、怒ることの殺人なるを忘れ、吝(おし)むことの貪婪(たんらん)なることに気が附かずして、己が犯さゞる(幸にして)罪を他人が犯すを見れば旗鼓堂々(きこだう〳〵)として之を責むるが如き、是を偽善の行為と称せずして何とか称せんである、イエスの唱へ給ひし天国の律法を以て所謂教会法(ecclesiastical laws)なる者を制定し、之を以て此世の政府が社会の罪人を審判(さば)くが如くに、信者を審判(さば)くはイエスの聖法の大なる濫
(らん)用と称せざるを得ない、我来りしは世を審判かんために非ず世を救はんため也と彼は御自身に就て言ひ給ふた(約翰ヨハネ伝十二章四十七節)、然るを彼の宣たまひし律法を以て人を審判くが如き、是れ殺人以上、姦淫以上の罪と称せざるを得ない。
然らば何のための天国の律法である乎? 他人を鞫(さば)くための律法ではない、自己を鞫くための律法である、人は何人も之を以て自己を探り、自己を糺明(ただ)し、自己の何たる乎を確(たしか)むべきである、爾(そう)するならば人は何人も推諉(いいのがる)べきなくして彼はパウロの如くに善なる者は我れ、即ち我肉(肉的自我)に在らざるを知ると神の前に白状せざるを得ざるに至るのである(羅馬〔ロマ〕書二章一節、同七章十八節)、而して此苦しき白状に由りて彼はキリストに顕(あら)はれたる神の赦罪(ゆるし)の福音に接し、茲(ここ)に始めて天国の市民の第一の資格、即ち心霊(こころ)の謙下(へりくだり)を得て、平和の生涯に入ることが出来るのである、イエスは彼の救済(すくい)に与(あずか)らざる者と雖〔いえど〕も実行し得る律法として之を宣(のべ)たまふたのではない、一は之を以て各自(かくじ)己を糺弾(きゅうだん)せしめ、己が罪を発覚して神の子の救済に与からしめんがために、二には斯の救済に与りし者が聖霊の恩化に由り終(つい)に実行し得るに至るものとして、此完全無欠、純粋無雑(むそうふ)の律法
を宣たまふたのである。
 
天国の律法である、福音の一部分としての律法である、故に是は福音の立場より解釈し、又福音の精神を以て適用すべき者である、「我れあわれみをこのみて祭祀(まつり)をこのまず」、とは一言以て明かに神の聖意を言表したるものである(馬太マタイ伝九章十三節、同十二章七節、何西阿ホゼア書六章六節)
神は人が神に対する時に此精神を以てせんことを欲み給ふ、又神御自身が人に対するときにも此精神を以てし給ふのである、神は人が他人に対してあわれみを施さんことを御自身に対して祭祀を奉らんことよりも欲み給ふのである、
 
而(しか)して亦御自身に在りてもあわれみを人に施すことを、人が御自身に対して役(つか)へまつることよりも欲(この)み給ふのである、
即ちイエスキリストの御父なる真の神に在りては与ふが前にして受くるが後である、役ふるは役へらるゝに優さるの幸福である、随(したが)て神の立場より見て、信仰は道徳よりも肝要である、憐愍(れんみん)は正義よりも貴くある、故に天国の福音を宣給(のべたも)ふに方てイエスは先づ天国の律法を宣たまはずして、之に入る者の祝福を宣たまふた、「福〔さいわ〕ひなる哉」とは彼の開口第一番の言葉であつた、而して此事を心に留めて五章十七節以下の天国の律法を以て所謂「山上の垂訓」の骨子(こつし)となすの甚(はなは)だ誤れるを知ることが出来る、トルストイ伯の基督教の解釈の根本的誤謬(こんぽんてきごべう)は茲に在ると言はざるを得ない、彼はイエスの教訓の重心を彼の宣たひし律法に置て、福音の全景を見損ふたのである、
のみならず、彼の此誤解に由りて福音は福音にあらずして重き重荷と化するのである、即ち肉の人間に不可能事を強て其罪を鳴らすに止まつたのである、然し乍ら、イエスは如斯〔かくのごと〕くにして天国の律法を我等に提供し給はなかつたのである、彼は福音の一方面として之を宣たまふたのである、あわれみは彼の第一の要求である、而して第一に
あわれみを要求し給ふ彼は心の柔和なる者にして、人にあわれみを施すを以て最大最後の目的となし給ふ者である、我れ矜あわれみをこのみて祭祀を欲まずと彼は重ねて言ひ給ふた、あわれみは彼の生命の緯(よこいと)であり又経(たていと)であるのである。
 
斯(か)かるあわれみの主の定め給ひし律法である、之を律法的に解釈するの非(ひ)なるは言はずして明かである、天国の律法はあわれみを施すための律法、あわれみに導くための律法、あわれみで適用すべきための律法である、其事を弁(わきま)へずして
教会は恐るべき神の律法を地上に布く為の機関であるかの如くに思ひ、基督信者とはキリストに代りて地上に人を鞫(さば)く者であると思ふが如き、是れ聖書の大濫用、福音の大誤解と言はざるを得ない、我れあわれみをこのみてまつりをこのまず
聖書解釈の鍵は茲に在る、之を以てして聖書の宝庫を開かん乎、其中より生命の甘泉は流れて止まず、好き真珠と値高き真珠とは其中に山積し、汲めども涸ず、掘れども尽ず、我等は生きて永遠に至り、富んで其終る所を知らないのである。
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