内村鑑三 マタイ伝 65講 十人童女の譬喩

65 マタイ伝
 
十人童女の譬喩
(三月九日) 馬太伝第二十五章一―十三節の研究
大正8610    『聖書之研究』227   署名内村鑑三 述藤井武筆記
エスの終末観を伝ふる馬太〔マタイ〕伝二十四五両章中に三個の譬喩(ひゆ)がある、其第一は僕(しもべ)の譬喩(ひゆ)である(廿四章四十節以下)、第二は十人童女(じうにんのむすめ)の譬喩である(廿五章一―十三節)、第三は委〔ゆだ〕ねられし銀の譬喩である(同十四―三十節)、而〔しか〕して新約聖書全体の教ふる所より見て是等の三譬喩は全人類に関する最終審判を示すものと解する事が出来ない、三者は孰(いず)れも特に基督者に対する審判又は恩恵の譬喩である、僕とは「時に及びて糧(かて)を彼等に与へさする為に立てられたる」者にして換言すれば信者を導くべき教役者である、故に第一の譬喩は牧者に対する審判である、委ねられし銀とは凡〔すべ〕ての信者各自に委ねらるゝ相異なりたる宝にして彼等が其総勘定(さうかんじやう)を為〔な〕さゞるべからざる日が来るのである、故に第三の譬喩は信者各自に対する審判である、而して此二者の中間に在る十人童女の譬喩は信者を団体として見たる教会に対する審判である、童女を教会の意に解するに就ては聖書中多くの根拠がある (哥林多〔コリント〕後書十一の二、黙示録〔もくしろく〕十四の四等参照)、牧者教導者の審判と教会の審判と信者各自の審判、之れ馬太伝二十四五章に亘〔わた〕る三個の譬喩の内容である。
 
「其時天国は燈(ともしび)を執りて新郎(はなむこ)を迎へに出づる十人の童女(むすめ)に比(たと)ふべし」といふ(廿五章一節)、茲(ここ)に所謂〔いわゆる〕「天国」とは何の意である乎〔か〕、之を探らんが為には馬太伝十三章を参照すべきである、十三章に於ても亦〔また〕「天国は何々の如〔ごと〕し」と言ひて七個の譬喩が列挙せらるゝのである、而して七譬喩は譬喩集に非ずして一の歴史である、基督教会の歴史を七個の譬喩を以て綴〔つづ〕りたるものである、故に天国とは天国其者に非ずして天国の福音が地上に於て経過すべき歴史の謂〔い〕ひである、十人童女の譬喩亦然り、キリストの十字架より其の再臨に至るまで即ち所謂異邦人の時又は教会時代の歴史に関する譬喩である、「天国の福音の地上に於ける経歴を何に比へん乎、そは燈(ともしび)を執り新郎を迎へに出づる十人の童女の如し」といふのである。
パレスチナ地方に於いては結婚に際し或る特別の場合には新婦(はなよめ)の許(もと)に新郎(はなむこ)を迎ふる事今も行はるといふ、こは士師記十四章に示さるゝが如くサムソンの時代に於て既に其例を見たる古き風俗にしてイエスの当時も之に類したる事実があつたのであらう、彼の譬喩は常に事実を根拠とするものである、而して新婦が新郎を迎へんとするに当りては美〔うる〕はしき童女凡〔およ〕そ十人を選びて之を己が代理者として迎へに出でしむるのである、彼等は何〔いず〕れも其手に燈を携帯する、燈とは我国に於ける古代のカンテラの如く棒(ぼう)の尖端(さき)に燈の心(しん)を附して之に油を注ぎたるものである、然るに童女等の中には智(かしこ)き者あり又愚かなる者がある、其智き者は燈と共に油を器(うつわ)に満たして之を携ふるも愚かなる者は感興(かんきょう)の余り油を忘れ蒼皇(そうこう)としてカンテラのみを担(にな)うて出で行く、斯(か)くて彼等は待てども新郎来らず、皆仮寐(かりね)して眠る、夜半ばにして忽(たちま)ち声あり曰く「新郎(はなむこ)来れり!」と、即ち彼等みな起きて燈を整へんとするに智き者の火は点ぜらるゝも愚なる者の燈は消えて点(つ)かない、茲に於て彼等は智き者に其油を分たん事を請(こ)ふも聴かれず、依て之を買はんとて往きし間に門は閉(とざ)されて復(ま)た入る事が出来ないとの譬喩である、イエス始めに此卑近なる例を捉(とら)へて語り出せし時彼の面(おもて)には微笑(びしょう)が漂(ただよ)うて居たであらう、然しながら語りて此処(ここ)に至り「我誠に汝等に告げん、我は汝を知らず」と言ひし時彼は実に権威ある預言者と成り給うたのである。
 
十人の童女は十の教会である、十とは地上に於ける完成の数なるが故に十の教会は神の許し給ひし丈けの凡ての教会を意味する、燈とは何ぞ、教会の機関又は制度としての外形である、或〔あるい〕は礼拝或は事業或は信仰箇条等の如き皆之に属する、油とは何ぞ、此譬喩の重点は油にある、油の有無に由て童女等の運命が分るゝのである、信仰上の外形たる燈の中にありて之に光を与ふる油は果して何である乎、聖書に於て油の最も明白なる意味は聖霊である、「汝義を愛し悪を憎(にく)む、是故に神即ち汝の神は喜びの油を以て汝の侶(とも)よりも愈(まさ)りて汝に注げり」(ヘブル書一の九)、「此ナザレより出でたるイエスは神より聖霊と才能(ちから)を以て油を注がれ云々」(行伝〔ぎようでん〕十の卅八)、又キリストとはメシアの希臘(ギリシヤ)訳にしてメシアは「油注がれたる者」の意である、凡ての基督者も亦彼に在て油を注がれたる者である、故に油は聖霊を代表すと見るは最も適当なる解釈である。
十の教会あり、皆新郎を迎へんが為に立つ、而して共に信仰的外形たる燈(ともしび)を携ふ、然れども智(かしこ)き者と愚かなる者とあり、智き者は衷(うち)に聖霊の油を有するも愚かなる者は之を有せず、新郎来る事遅くして彼等は悉〔ことごと〕く仮寐(かりね)に耽〔ふ〕ける、やがて「新郎来れり」との声響くや聖霊の油ある者は之を迎ふるも油なき者は迎ふるを得ずと、譬喩の大意は之である、而して教会の歴史は明白に其真実を証明するのである。
教会は本来新郎を迎へんが為に起りしものである、基督再臨の信仰を嘲〔あざけ〕らんと欲する者は嘲〔あざけ〕るべし、然しながら初代の教会が此信仰を以て起りたるの事実は之を如何〔いかん〕ともする事が出来ない、新約聖書中最も旧き書翰はテサロニケ前書である、初代教会の実状を探らんと欲する者は先〔ま〕づ此書に就かなければならない、而して此書は始よりして曰〔い〕ふ「汝条信仰に由て行ひ愛に由て労し我等の主イエスキリストを望むに由て忍ぶ」と、また「汝等偶像を棄て神に帰して活ける真の神に事〔つか〕へ其子の天より来るを待つ」と、若し基督再臨の信仰なかりせば基督教会は興らなかつたのである、教会歴史の世界的権威たるアドルフ・ハーナックの如きは自〔みずか〕ら再臨の信仰を有せざるに拘〔かかわ〕らず尚〔なお〕其冷静なる学者的立場より此事を断言して憚〔はばか〕らないのである。
十の教会は皆新郎を迎へんが為に燈を執つて立つた、然しながら新郎は来らない、百年五百年又千年二千年を経れども新郎は未だ来らない、斯くて小き童女等の皆仮寐(かりね)したるが如く教会も亦挙(こぞ)つて睡眠の状態に陥つた、其半(なかば)が醒めて居つたのではない、再臨信者も然らざる者も共に眠つたのである、十字架又は聖霊等に就ては忘れざるも再臨は之を忘れたのである、美はしき十人の童女、其智き者も愚かなる者も皆燈を手にして眠りしが如く凡ての教会は洗礼晩餐式祈祷会慈善事業等を共にしつゝキリストの再臨を忘れて了(しま)つたのである。
然るに夜既に更(ふ)けて暗黒其(そ)の絶頂に達し将〔ま〕さに明け初めんとする頃「新郎来りぬ」との声は響きて、均〔ひと〕しく眠れる童女等の中智き者と愚かなる者とは判然相分たるゝのである、キリスト再び来り給ふ時教会は劃然二個に区別せらる、聖霊の油を有する者と之を有せざる者と、二者は左右に区別せられ、而して前者のみが彼を迎へ得るのである、再臨を嘲る者よ、汝等之を嘲るは可なり、然れども若〔も〕しキリスト果して再臨して此処に立ちたらば如何、其時之をユダヤ思想なりと言ひ得る乎、其時は神学も教職も教派も何の用あるなし、唯〔ただ〕彼を迎へ得る乎或は迎へ得ずして周章狼狽(しうしやうらうばい)する乎二者其一あるのみである、故に再臨信者は曰ふ、再臨の時迄待たんと、教会の真偽は其時に至て判明するのである。
新郎は未だ来らない、然しながら注意すべきは五十余年前より基督教界に於て響きつゝある高き叫びである、最も優秀なる学者等が祈祷を以て聖書を研究したる結果、基督教信仰の根本は基督の再臨にあり、之なくして真の教会あるなしと唱ふるに至つた、聖書註解者中知識と信仰との健全を以て称せらるゝ有名なるランゲの註釈(一八六三年版)に依れば其頃よりして多くの神学者が再臨を高唱するに至つたのである、此叫びは果して何である乎、之れ「新郎来れり」との声ではない乎、然らば即ち時勢は既に暗黒の絶頂に達したのである、而して今日迄教会は悉く眠りたるも今や何処〔いずこ〕よりともなく「新郎来れり」との叫びは聞えて人々皆醒めんとしつゝあるのである。
此声を聴いて既に多くの人は眠より醒めた、彼等は再臨の信仰を抱きてより聖書を全く新なる書と見、新生の喜びに似たる経験を繰返しつゝある、米国の如き常識の発達したる国に於て昨年五月に開かれたる費府(ヒラデルヒヤ)の再臨大会は近時稀〔まれ〕に見る盛会であつた、其壇に立ちし者は狂熱の人に非ずして冷静なる学者であつた、而〔しか〕も三日間寸刻の弛緩(しかん)をも感じなかつたといふ、又十一月の紐育(ニユーヨーク)大会も同様である、当夜は戦争中飛行機襲来を恐れて久しく実行したる電燈の禁令を解かれし第一夜にして市民の心自〔おのずか〕ら浮き立ちたる折なりしに拘らず、カーネギー会堂に会衆充満し其溢れたる部分は更に他の会堂に之を収容したりといふ、然るに他方に於ては又幾多の神学者教役者等が口を極めて再臨の信仰を罵〔ののし〕りつゝある、或は之を迷信と呼び或は猶太〔ユダヤ〕思想と称して反対を試みつゝある、
実に「新郎来れり」との声に由て基督教会は二個に分裂したのである、再臨の信仰は教会を両断する信仰である。
反対者は何故之を信ずる事が出来ないのである乎、蓋〔けだ〕し彼等に油なきが故ではない乎、彼等に燈の外形のみありて之に永遠の光と熱と生命とを与ふる聖霊の油なきが故ではない乎、或時人は各〔おのおの〕唯一人となりて神の前に引出さるゝ事がある、其時信仰上の外形は一も自己の心を満足せしむるに足らない、教会への出席、伝道金の寄附、
慈善事業又は伝道事業等を数へて自ら慰めんと欲するも少しも慰むる事が出来ない、誠にジヨン・バンヤンの言ひしが如く仮令(たとへ)地獄に落つるとも我等は唯だ顔を挙げて我為に十字架につきしイエスキリストを仰ぐのみである、神が我等の為に備へ給ひし十字架の贖(あがない)を信ずるより外に我等の義とせらるゝ途(みち)はないのである、而して之を信じて聖霊の油を豊かに受けたる者はキリストの再臨を聞いて決して之を嘲らない、再臨反対者は油を有せざる者である、彼等は再臨の時に至りて愚かなる童女の如くに狼狽するであらう、然しながら其時油を有(も)てる者は之を頒(わか)つ事が出来ない、神は聖霊の油のみは之を余分に与へ給はない、其人一人に足る丈けである、我等は各自神に求めて充されなければならないのである。
新郎は未だ来らない、尚〔な〕ほ暫〔しば〕し油を買ふべき時がある、「何故糧(かて)にもあらぬ者の為に金を出し飽く事を得ざるものゝ為に労するや、我に聴き従へ、さらば汝等美(よ)き物を食ふを得、油をもて其の霊魂(たましい)を楽しまするを得ん」と(
ザヤ書五十五の二)、眠れる者よ、速〔すみやか〕に醒めて往きて汝の油を買へ、然らずんば時既に過ぎて終〔つい〕に復〔ま〕た如何ともすべからざるに至るであらう、十人童女の譬喩は談笑の間に之を語り得ると雖も其中に無限の教訓がある、人の運命に就て教ふるものにして之よりも深きものを考ふる事が出来ない。
附言再臨と非再臨、再臨信者と非再臨信者、「新郎来れり」との声に由りて基督教会は劃然と両分せられたのである、是れ主の教へ給ひし所であつて人は之を如何ともする事が出来ない両者の間に合同は不可能である、教会の政治家にして聖書を究めて此事を覚るならば彼等は無益の調停(ちょうてい)を試みないであらう。
 
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