内村鑑三 マタイ伝 13講-1

13講 山上の垂訓に就て
取除くべき三個の誤解二月一日柏木聖書講堂に於て為せる講演の大意
大正3年3月10日『聖書之研究』164号  署名内村鑑三
 
山上の垂訓(すいくん)を能く理解するために三(みつ)個の誤解(ごかい)を取除くの必要がある。其第一は名称である、之を「山上の垂訓」と称するのは抑々(そも〳〵)何から始つたのである乎〔か〕、其事を知るの必要がある、是れは聖書が附けた名ではない、是れは多分英語のSermon on the Mount を漢訳したものを其儘和訳したものであらふ、Sermon は普通之を説教と和訳する、故に之を「山上の説教」と訳するが更に適当であるであらふ、然し乍ら「垂訓」と云ふも「説教」と云ふも馬太伝五章以下七章の終に至るまでのイエスの言辞(ことば)を総称するに足りないのである、今日説教と云へば或る聖語を主題として教師が語る信仰奨励の言辞である、而して所謂〔いわゆる〕「山上の垂訓」が単に今日吾人の称する説教でない事は之を熟読せし者の何人も能く知る所である、然らば之を「垂訓」と称して足れりやと云ふに、是れ亦(また)爾(さ)うで無い事は明かである、「垂訓」と云へば道徳上又は処世上の訓誡を垂(た)れるものであつて、主として道徳の教師の為すことである、而して「山上の垂訓」の中に斯〔か〕かる垂訓のあることは何人も否(いな)まない所である、然し「山上の垂訓」は単に垂訓を以て罄(つ)きない、其中に多くの垂訓以外の事がある、之を垂訓と称して唯〔ただ〕其一面を称(とな)ふるに過ぎない、「山上の垂訓」は更らに広い、更らに深い者である。
然らば之を何と称すべきであらふ乎、之に人が作つた名を附くるに及ばない、之に聖書自身が附けた称号がある、イエス、徧(あまね)くガリラヤを巡り、其会堂にて教を為し、天国の福音を宣伝(のべつた)へぬ、とある(四章二十三節)、天国の福音、第五章以下三章に渉(わた)りて馬太伝記者が記(しる)して居る者はイエスが徧(あまね)くガリラヤを歴巡(へめぐ)りて其会堂にて宣べ給ひし天国の福音の概要(がいよう)である、イエスは到る所に斯かる福音を宣べ給ふたのである、或ひは其一部分を、或ひは其全部を、機に臨み変に応じて宣べ給ふたのであらふ、何〔いず〕れにしろ所謂「山上の垂訓」はイエスの宣伝し給ひし福音の模範(モデル)である、馬太伝記者は、此時イエスガリラヤ湖畔の或る小山の頂上(いただき)に於て彼の弟子等に対(むか)つて宣べ給ひし福音が最も完全なる者なりしが故に殊更(ことさら)に茲〔ここ〕に之を詳述(しやうじつ)して、読者をしてイエスの宣べ給ひし天国の福音の全般を窺(うかが)はしめんと為したのであると思ふ。
「山上の垂訓」と称せずして、聖書に循(したが)ひ「天国の福音」と称し、其中に示されたるイエスの言葉の深き意味と其相互の関係を能く理解することが出来る、物の性質は其名称に顕はるゝものである、誤称(ごしよう)は誤解(ごかい)の因(もと)である、
之を「垂訓」と称するが故に、単にイエスの道徳律とのみ解し易く、為に其中に含まれたる美(うる)はしき福音を看逃(みのが)し易くある、大抵の信者が「山上の垂訓」と云へばイエスの倫理なりと思ひ、罪人の罪を赦すための福音は之を聖書の他(ほか)の所に覓(もと)めんとするは、是(こ)れ確(たしか)に「山上の垂訓」なる誤称(ごしょう)の然(しか)らしむる所であると思ふ、「垂訓」ではない、天国の福音である、厳格なると同時に恩恵に充ち溢(あふ)れたるイエスの宣べ給ひし喜ばしき福音である。
 
取除くべき第二の誤解は之をイエスの宣べ給ひし最初の教示(おしえ)と見ることである、馬太伝は新約聖書の首(はじまり)の巻であり、所謂「山上の垂訓」は其載せたる初(はじめ)の説教であるが故に、之をイエスが宣べ給ひし最初(さいしょ)の説教であると思ふは無理ならぬ事であるが、然し少しく注意して四福音書を読むならば、此誤解は容易(ようい)に之を正すことが出来るのである、「共観福音書」と称はるゝ馬太〔マタイ〕、馬可マルコ〕、路加〔ルカ〕の三福音は之を読むに約翰〔ヨハネ〕伝と対照して読むの必要がある、前者はガリラヤ伝道を主として伝へ、後者はヱルサレム伝道に重きを置いて居る、共観福音書はイエスの最初のヱルサレム伝道は全然之を省(はぶ)いて直(ただち)にガリラヤ伝道に説及(ときおよ)んで居る、其理由は那辺(どこ)に在る乎、今に至て能く知ることは出来ないが、然し其爾(そ)うである事は事実である、そしてガリラヤ伝道は最初のヱルサレム伝道に次いで始まつたことは確(たしか)である、イエスヨハネの説教を聞かんためにガリラヤよりヨルダンに来り、其処(そこ)にてシモンと其兄弟アンデレに会ひ、ピリポと其友ナタナエルを招き、後、一たびガリラヤに帰りしも再たび逾越節(すぎこしのいはひ)にヱルサレムに上り、其処にて公然伝道を開始し給ひ、神殿を潔め、ニコデモと語り、自己をユダヤ人に顕はし給ひ、ユダヤを去てガリラヤに往かんとし給ひし途中に、ヤコブの井の傍らにてサマリヤの婦に語り、ナザレに帰り給ひしも予言者は故郷(ふるさと)にて尊ばるゝ事なしと言ひ給ひて、茲処(ここ)を去りてカペナウンに往きて其処に住み給ふた(以上約翰ヨハネ伝一章二十九節以下四章末節に至るまでの概略)、共観福音書のイエスガリラヤ伝道の記事は茲(ここ)に始まるのであつて、所謂「山上の垂訓」なる者は彼が此時に説かれし者である、即〔すなわ〕ち彼が南方ユダヤに下り給ひしこと二回、ヱルサレムにパリサイ人とサドカイ人と、学者と祭司等とに会合(くわいごう)し、其宗儀と信仰とを視察し給ひし後の事であつたのである、此事を心に留めずして、「我汝等に告げん、汝等の義にして学者とパリサイの人の義に勝(まさ)ることなくば必ず天国に入ること能〔あた〕はず」との彼の言葉は理解(わか)らないのである(五章二十節)、所謂「山上の垂訓」は伝道(でんどう)の新参者(しんざんしゃ)の言葉としては余りに用意周到(よういしゅうとう)である、縦令(たとへ)神の子イエスの言葉であるとするも、深く世人(ひと)に接(せつ)触(しょく)せずして斯かる慎慮(しんりょ)に富める言〔ことば〕を発することは出来ないと思ふ。
 
エス自己(みずから)を彼等に托(まか)せず、蓋(そは)彼れすべての人を知り、又人の心の中を知るが故に、人に就(つい)て証を立つる者を求めざれば也とある(約翰(ヨハネ)伝二章末節)、イエスは此智慧を彼が逾越節(すぎこしのいはひ)にヱルサレムに在りし時、多くの人に接触して学んだのであると思ふ。
而(しか)して注意して馬太伝を読む者は如上の事実を亦其中に見るのである、其第四章十二節以下に曰〔いわ〕くイエスヨハネの囚(とら)はれし事を聞きければ(ユダヤを去りて)ガリラヤに往けり、而してナザレを去りてゼブルンとナフタリとの界なる海辺(うみべ湖畔)のカペナウンに至りて此処(ここ)に居れりと、ヨハネの囚はれし事はイエスユダヤ伝道の第一期の終結(をわり)であつた、彼は此時に都会に於て天国の福音を宣(のべ)
伝ふるの無効(むこう)を覚り給ふたのである、是れより後彼は田舎伝道(いなかでんどう)に身を委〔ゆだ〕ぬべく決心し給ふたのである、彼は一先〔ひとま〕づ故郷ナザレに帰り給ふた、然るに郷人(きょうじん)挙(こぞ)つて彼を排斥(はいせき)せしかば彼は同じガリラヤの中にて湖畔のカペナウムの
邑(まち)を彼の伝道地として選(えら)み給ふたのである(路加伝四章十六節以下)、イエスは此時既に伝道失敗の辛らき経験を嘗(な)めて能く其味を知り給ふたのである。