内村鑑三 マタイ伝 12講

12 講 イエスの受洗と其意義
馬太伝二〔三〕章十三―十七節 明治40310日『聖書之研究』85号「研究」        署名 内村鑑三
 
エスは洗礼をバプテスマのヨハネより受け給へり、是れ抑々〔そもそも〕何のためなりしか、彼に洗ふべき罪のなかりしは明かなり、故にヨハネは彼より洗礼を受けんとするイエスの乞を辞(いな)みて曰へり、我は汝よりバプテスマを受くべき者なるに汝反て我に来る乎と、世の罪を任(お)ふ神の羔(こひつじ)を観てヨハネはイエスに洗礼の要なきを認めたり。
 
然れどもイエスは強〔し〕ひてヨハネより洗礼を受け給へり、是れイエスが洗礼の式其物に重きを置き給ひてにあらざるは彼が説き給ひし福音全体の精神に照らし見て明かなり。
罪なきイエスは罪の悔改のバプテスマを受けて、自己の罪人の友なるを証し、陰に彼の側に立ちて彼の行為如何を目撃しつゝありしパリサイ及びサドカイの人々の自己を義とするの罪を責め、陽に心に罪を悔ひて赦免の恩恵に与からんと欲する罪人の義を賞め給ひしなり、エスは衆人凝視の中に悔改のバプテスマを受け給ひて世が称して以て義士仁人と做〔な〕す者の班を脱して罪人の中に己が身を投じ給へり、彼は後に税吏其他の罪ある人と食を偕〔とも〕にせしの故を以てパリサイ人の酷評を受け給ひし時に健かなる者は援助を要せず、唯病ある者之を要す……夫れ我が来るは義人を招くために非ず、罪ある人を招きて悔改めさせんが為なり( マタイ九章十二、十三)と曰ひ給ひしと同一の精神を茲〔ここ〕に表顕し給ひしなり、イエスの洗礼は彼のすべての行為と等しく愛に出し勇敢の行為たりし也。茲に於てか余輩は彼がヨハネに答へて曰ひ給ひし言の意義の一斑を解するを得るなり、イエス答へけるは暫く許せ、かくすべての義(たただ)き事は我等尽すべきなり(第十五節)。「暫く許せ」Aphes arti 、蓋〔けだ〕し当時の俗語にして、今日の日本語を以てすれば「構(かま)ふ勿〔なか〕れ」と云ふが如き者なりしならん、すべての義しき事とはすべての義しき律法の意に非ず、イエスは茲にヨハネに向て儀式の重要を弁じ給ひしに非ず、pasan dikaiosunēn はすべての義なり(義き事に非ず、義なる言辞の単名詞なるに注意せよ)義を一括せし者との意也、全節を左の如く改訳すべし構(かま)ふ勿れ、そは(gar)かくすべての義を成就(plērōsai)するは我等の為〔な〕すべきことなればなり、イエスは茲にヨハネに告げて曰ひ給へり「汝、我に悔改のバプテスマを施すに躊躇〔ちゆうちよ〕する勿れ、そは我が今為さんとするが如くに為してすべての義を成就するは我等天国の民たる者の為すべきことなれば也、すべての義とは他なし、愛、是れなり、義者が不義者と班を同うし其ために死することなり、斯〔か〕かる愛的行為をばすべての義を成就すると云ふなり、而して是れ我等の為すべき事なり」と。斯くてエスは罪人のために人が為すことを耻〔しか〕ることを為し給へり、彼が洗礼を受け給ひしは無意義に一定の制式に服従してにあらず、罪人に対する彼の愛を表せんがためなり、彼の受洗は彼の十字架の前表に外ならず。斯くも勇敢なる愛的行為に出で給ひしかば、彼れバプテスマを受けて水より上がり給へる時、天、忽〔たちま〕ち彼がために開け、神の霊は鴿(はと)の如くに彼の上に降れり、又天より声ありて此は我心に適ふ我が愛子〔いとしご〕なりと云へり、勇敢の行為に伴ふに常に甚大の霊的報賞あり、イエスは自己を虚(むなし)うし、断然茲に悔改のバプテスマを受けて罪人の友たるを神と人との前に表白し給ひたれば、聖父は彼に報ゆるに異常の霊の賜物を以てし給ひしなり。
罪人に同情を表するための勇敢なる愛的行為としての洗礼に至大の道徳的価値存す、然れども其他の意味の洗礼に何の用ある乎、余輩は之を知るに甚だ苦むなり。
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