内村鑑三 マタイ伝13講-2

13講 山上の垂訓に就て-2
取除くべき三個の誤解二月一日柏木聖書講堂に於て為せる講演の大意    大正3年3月10日『聖書之研究』164号  署名内村鑑三
 
 
犬に聖物(きよきもの)を与ふる勿〔なか〕れ、又豚の前に汝等の真珠を投与(なげあた)ふる勿れ、恐らくは彼等足にて之を践み、振返(ふりかえ)りて汝等を噬(か)まんとあるは伝道失敗の辛らき経験を土台として語られし彼の智慧の言葉として見るべきである(七章六節)、所謂(いわゆる)「山上の垂訓」を単(ただ)に大教師の訓誡とのみ看〔み〕て解し難い節(ふし)が多くある、訓誡に止まらない、実験の言葉である、
 
エスが都会の教会に於て多くの綿羊(めんよう)の姿にて来れる残(あらき)狼に会合して幾回(いくたび)か其噬(か)む所となり給ひし辛らき実験より出たる貴(たふと)き言葉である。
取除くべき第三の誤解は所謂「山上の垂訓」はイエスが公衆に対(むか)つて為されし大説教であるとの事である、然し其事は注意して五章一節を読めば直(すぐ)に解かるのである、
 
エス許多(おほく)の人を見て山に登り坐し給ひければ弟子等其下に来れり
とある、「許多の人を見て山に登り」とある、「見て」は「見しが故に之れを避けて」の意である、俗衆(ぞくしゅう)の彼に押(おし)寄せ来りければ彼は之を避けて山に登り給ふたのである、日本訳に「弟子等も」とある其「も」は原文には無いのである、イエス山に登り給ひければ弟子等其下(もと)に来り彼と相対して坐したのである、如斯〔かくのごと〕くにして、イエスが茲処(ここ)に述べられし言葉は、是れ特に弟子等に対して述べられし言葉である、其中に少数の所謂不信者も混合(まじ)つて居りしやも計られずと雖〔いえど〕も、然かも主なる聴聞者(ちやうもんしや)は弟子等であつたのである、路加伝には明白に「イエス目を挙(げ)弟子を見て曰ひけるは」と記してある(六章十二節)、其事を知(しる)はイエスの此嘉言(かげん)を解する上に於て甚〔はなは〕だ肝要
である、イエスは茲に公衆に向つて彼の主義綱領(しゆぎかうりやう)を発表し給ふたのではない、彼は此事を首府(しゅふ)のヱルサレムに於て為し給ふた、然し茲処(ここ)は湖畔(こはん)のカペナウムである、山高くして水清き処である、而して彼の足下に集いし者は彼の信頼せる弟子等である、彼は茲に彼等の前に天国の福音を披瀝(ひれき)して彼等を慰め且〔か〕つ教へ給ふたのである、故に曰ふ「汝等は地の塩なり」、「汝等は世の光なり」と、是れ皆弟子等に対して言はれたのである、所謂「山上の垂訓」を以て神がイエスを以て人に伝へ給ひし人の道であると解して甚だ之を誤解し易くある、イエスは茲の弟子(信者)の倫理道徳を教へ給ふたのである、彼を識らざる現世(このよ)の人等の守るべき、又は守り得べき道を説き給ふたのではない、
目にて目を償(つぐな)ひ歯にて歯を償へと言へることあるは汝等が聞きし所なり、是れ現世(このよ)の道徳にして汝等が今日まで教へられし所なり、然れども我れ天国の市民にして我が弟子なる汝等に告げん、汝等の社会に在りては、、、、、
悪に敵すること勿れ、人若(も)し汝の右の頬(ほほ)を批(う)たば亦他の頬をも転(めぐ)らして之に向けよ、云々、茲処(ここ)に於けるイエスの言葉は大略斯〔か〕くの如くにして解すべき者であると思ふ、是は一般道徳ではない、信者道徳である、現世(このよ)の道徳ではない、天国の道徳である、信者の国(社会)なる天国に於てのみ行はるゝ道徳所謂「山上の垂訓」をイエスの宣べ給ひし人類の一般道徳と見て其不可能事たるは何人が見ても明かである、此事を心に留めずして、山上の垂訓はイエスの宣べし道徳なるが故に、人は何人も之を実行すべしと言ふは無理を言ふのである、トルストイ伯の基督教に非常識の点多きは彼が此明白なる事実を看落(みおと)したからである、所謂「山上の垂訓」は露国英国などいふ非基督教国(而して彼等は確かに非基督教国である)に於て行はれ得べき者ではない、
是はキリストの血に由て其罪を贖(あがな)はれたる、清くして心の虚(むな)しき、謙下(へりくだ)りたる信者の間にのみ行はれ得べき道徳である、イエスは国家道徳として又は社会道徳として此天国の福音を宣べ給ふたのではない、彼の弟子等に、俗衆を離れて山の上に於て、天国の道徳として之を伝へられたのである。
所謂「山上の垂訓」は説教又は垂訓と称すべき質(たち)の者ではない、是は天国の福音である、厳格(げんかく)の言であると同
時に又慰藉(なぐさめ)の言である、主の嘉言(かげん)である、実(まこと)に天よりの喜ばしき音信(おとずれ)である、是は又イエスの最初の福音宣伝ではなかつた、彼は此前に既〔すで〕に自己(おのれ)を世に顕はし給ふた、イエスの福音宣伝は首府ヱルサレムに於て始まつた、而して都人士の之を受納(うけい)れざるを看取(みと)り給ひて彼は僻陬(へきすう)ガリラヤの地に退きて茲処8ここ)に純樸(じゅんぼく)なる田舎人士(いなかじんし)の間に田舎伝道を開始し給ふたのである、所謂「山上の垂訓」なる者はイエスの田舎伝道首途(かどで)の大説教と見て多く間違がな
いと思ふ、之をユダヤ人の宰(つかさ)ニコデモに宣べられし彼の言葉と比較(くらべ)て見て其間(とひ)に歴然たる都鄙(とひ?)の区別のあることを見るのである。
所謂「山上の垂訓」は又公衆一般のために説かれたる者ではない、是れは特に弟子等のために説かれたる者である、天国の福音であるから特に天国の市民のために説かれたる者である、是は所謂イエスの倫理観ではない、エシツクス、天国の憲法である、信者の道徳である、神の子と成るを得て天国に入るの特権を与へられし者の守るべき、又守り得べき憲法である、此心を以て之を読まずして其中に解し難い事が沢山〔たくさん〕にある。
天国の福音、其市民の資格と義務、其律法、之に入らんと欲する者の覚悟、是等の事を順序(じゆんじよ)正(たゞ)しく述べた者が
所謂「山上の垂訓」である、全福音の手引(てびき)とも称すべき者であつて、能く之を学んで基督教の全豹(ぜんぺう)を窺〔うかが〕ふことが出来る。