内村鑑三 マタイ伝 16講

16マタイ伝
七福の解
大正7310日『聖書之研究』212号  署名内村鑑三〔本巻八九頁〕
別稿「馬太〔マタイ〕伝に現はれたる基督の再来」の増補として読まれたし。
 
馬太伝五章山上之垂訓発端の言辞(ことば)は左の如くに配列して見て其意味が一層明瞭になるのである、
心の貧(まずし)き者は福(さいわい)なり、天国は即(すなわ)ち其人の有(もの)なれば也。
哀(かんあし)む者は福なり、其人は安慰(なぐさめ)を得べければ也。
柔和なる者は福なり、其人は地を嗣(つ)ぐ事を得べければ也。
饑渇(うえかわ)く如く義を慕ふ者は福なり、其人は飽く事を得べければ也。
矜恤(あわれみ)ある者は福なり、其人は矜恤を得べければ也。
心の清き者は福なり、其人は神を見る事を得べければ也。
平和を求むる者は福なり、其人は神の子と称(となえ)らるべければ也。
義のために責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の有(もの)なれば也。
以上に「福なり」と云ふ言辞(ことば)が八次(やたび)繰返(くりかえ)されてある、而(しか)して第十一節に続いて「我が為に人汝等を罵〔ののし〕り……其時は汝等福なり」とあるが故に全部を総称して九福と云〔い〕ふを常とする、然〔しか〕し乍〔なが〕ら最後の「福(さいはひ)なり」は「汝等は」とありて特に弟子等を指して云ふものなるが故に之は前の「者」又は「人」と云ひて一般の人を指して云ふものより区別して読むのが本当であると思ふ、而して又残る八福の中に第一と第八とは「天国は即ち其人の有(もの)なれば也」と云ひて同一の祝福を宣〔の〕ぶるが故に第八は第一の高調的重複と見るべき者であると思はれる、依て見る九福は実は七福であることを、七は希伯来〔ヘブライ〕人に取り天の数であつて完全の数である、七福は神が人に降し給ふ完全の祝福である、世人に其欲する肉の七福あるが如くに、信者にも亦其求むる霊の七福があるのである。
以上之を上下両段に列記したるが、上段は信者の描写(べうしや)であつて、下段は天国の記述である、信者とは如何〔いか〕なる者かと云ふに第一に心の貧しき者(心より自己に頼まずして神に依頼(よりたの)む者)、第二に哀む者(自他の罪を哀む者)、第三に柔和なる者、第四に饑渇(うゑかわ)く如く義を慕ふ者、第五に矜恤(あわれみ)ある者、第六に心の清き者、第七に平和を求むる者、即ち之を総称すれば義者、神に義とせられし者、其故に世に悪〔にく〕まれ人に責めらるゝ者であるとの謂(いひ)である、
 
而して信者の描写と相対して天国の記述がある、第一に之を天国と総称す、キリストが天より降りて之を建設し給ふ者なるが故に斯〔か〕く称す(但以理〔ダニエル〕書七章十三節参照) 第二に完全なる安慰(なぐさめ)の供(あた)へらるゝ所、第三に地上に建設せらるゝ国、第四に義の充溢する所、第五に矜恤(あはれ)を以て審判(みさばき)の行はるゝ所、第六に神の聖顔(みかほ)を拝することの能(でき)る所、第七に信者が神の子と称せられで其特権に与(あず)かる事の能(でき)る所である、信者とは上段に示すが如し、天国とは下段に記すが如し、上段の示す資格を有する者は下段の記す恩恵に与るを得べしと云ふのである、所謂〔いわゆる〕希伯来ヒブライ人の聯語(しるし)的記述法であつて、単一の真理を多方面より観察して其内容を明かにしたるものである。茲〔ここ〕に於て天国の何なる乎〔か〕が明かに示されたのである、天国は単に霊的状態ではない、地に建設せらるゝ国である、哲学者コムトの理想せしが如き完全なる人の社会である、而かも肉の人に由て組織せらるゝ社会ではない、神の子等を以て其市民とする国である、之を統(すぶ)る者は哲学者の称する「霊的勢力」ではない、神の栄(さかえ)の光輝(かがやき)その質の真像(かた)なる主イエスキリストである、天国に於て神の子等は彼に於て神を見奉り、神は又彼に在りて聖国(みくに)を照らし給ふのである、天国は又公平なる審判(さばき)の行はるゝ所である、其所(そこ)に矜恤(あわれみ)を以て他を審判〔さば〕きし者は矜恤(あはれみ)以て審判かるゝのである、雅各ヤコブ書第二章十三節に言ふが如しである、天国は又飽満の所である、而かも食物の飽満ではない、義の飽満である、飽くまでに義を以て心を満たすことの能(でき)る所である、依(よつ)て知るイエスが伝道の首途(かどで)に於て教へ給ひし事は使徒ヨハネが最後に述べし所と異らざる事を、天国とは「新らしき天と新らしき地」とである、「目の涙は悉〔ことごと〕く拭ひ去られ復〔ま〕た死あらず 哀(かなし)み 哭(なげ)き痛(いた)みあることなき」所である(安慰なぐさめ) 「渇く者には価なしに生命の水の源にて飲む事を許さる」ゝ所である(飽満)、「凡(すべ)て潔からざる者と憎むべき行を為す者、或〔あるい〕は勦(いつはり)言ふ者は必ず此(ここ)に入ることを得ず、唯〔ただ〕羔(こひつじ)の生(いのち)の書(ふみ)に録(しる)されたる者のみ入るなり」とありて真(まこと)の審判(さばき)の行はるゝ所である、而して「我れ彼の神となり彼れ我が子と成るべし」と云ひ、「僕等神の面〔かお〕を見、神の名彼等の額(ひたい)に在(あ)るべし」とありて真(まこと)の見神が行はれ、罪の子が神の子として認めらるゝ所である(約翰黙示録〔ヨハネもくしろく〕第廿一、第廿二章を見よ)
斯〔か〕くの如くにして山上之垂訓は単に純道徳を説いたる者ではない、其発端より天国を説いたる者である、天国に附随して道徳を説いたる者である、之を低い道徳と称する人があれば其れまでゞある、然れども聖書の記事は明白にして誤解を許さないのである、山上之垂訓は其発端より天国を説き、来世を説き、復活を説き、審判を説き、信者がキリストの再来と称し来りし者を説くのである。
始めに「天国は即ち其人の有(もの)なれば也」と云ひて終りに同一の言辞(ことば)を繰返して云ふ、是れ最も大切なる事なるが故に特に聴者の注意を惹〔ひ〕かんが為めに重複して云ふたのである、信者は主観的には自己に省みて心の貧しき者、然れども客観的には神の備へ給ひし十字架上のキリストを仰瞻(あほぎみ)て義者である、而して天国は特に彼の有(もの)であるとの事である。
 
附言
以上の如くに所謂九福を七福に解せし者は聖書註解者の王キングと称せらるゝドクトルH・A・W・マイエルである、真(まこと)に正当なる解釈であると思ふ、他にベーコン、ヴェルハウゼンの二学者も他の理由よりして之を七福に解して居る、勿論此解釈に対して多くの異論が唱へらる、今茲に之を掲げない、斯かる事に於てはマイエルの権威に九鼎(きうてい)の重みがある。
The International Critical Commentary に於てW・C・アレン氏は「天国」なる文字を終末的の意味に取て居る、氏の如き純批評家にして此文字を此意味に解するを見て福音書記者の原意の此(ここ)に在りしことを確(たしか)むることが出来る、読者にして英語を解し得る者は同註解書序論第六十七頁以下に於て其詳細を探るべきである、冷静なる聖書学者が却〔かえつ〕て旧信仰の味方をなすは真に痛快の事である。
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