内村鑑三 マタイ伝 58講 パリサイの麪酵(パンダネ)

58 マタイ伝
 
イメージ 1
 
 
大正101010 『聖書之研究』255  署名内村鑑三
 
其弟子対(むか)ふの岸に到りしにパンを携〔たずさ〕ふる事を忘れたり、イエス彼等に曰〔い〕ひけるは心してパリサイとサドカイの人の麪酵(ぱんだね)を慎めよ、弟子互に論じて曰ひけるは是れパンを携へざりし故ならん、イエス之を知りて曰ひけるは信仰薄き著よ何ぞ互にパンを携へざりしことを論ずる乎〔か〕……是に於〔おい〕て弟子その麪酵(ぱんだね)にはあらでパリサイとサドカイの教を謹めと言へるなるを悟れり(馬太〔マタイ〕伝十六章五―十二節)
 
エス弟子に曰ひけるは汝等〔なんじら〕パリサイの麪酵(ぱんだね)を謹めよ、是れ偽善なり(路加〔ルカ〕伝十二章一節)
エスはパリサイの人を嫌ひ給ふた。其れは勿論彼等を人として嫌ひ給ふたのではない。パリサイの人は当時の清教徒であつて、彼等の間に多くの貴むべき愛すべき点があつた。宰(つかさ)ニコデモはパリサイの人であつた。イエスは彼を愛し、彼は最期(さいご)までイエスを尊敬した。イエスは又パリサイの人シモンの招待(まねき)に応じて其客となり給ふた(路加七章)。又イエスの死後に其弟子等を弁護し、彼等の身に危害を加へざらしめし者はパリサイの人にて衆民(たみ)の中に尊ばれし教法師〔ぎようでん〕ガマリエルであつた( 行伝五章)。而〔しか〕して最後にイエスの最大弟子となりて其福音を全世界に伝ふるに至りし者は同じガマリエルの弟子の一人なりしパリサイ派パウロであつた。ユダヤ歴史を読む者はパリサイの人は当時の猶太〔ユダヤ〕人中最も高潔且〔かつ〕優秀なる者でありし事を知る。パリサイの人と云〔い〕へば偽善者の代名詞である乎の如〔ごと〕くに思ふは大なる間違(まちがい)である。
然らばイエスは何故にパリサイの人を嫌ひ給ふた乎と云ふに、其れは彼等の「教」の故であつた。今日の言葉を以て言ふならば其主義精神の故であつた。パリサイの人は党人であつた。而して党人根性を最も明白に発揮した者であつた。彼等は徧(あまね)く水陸を歴巡(へめぐ)り一人をも己が宗派に引入れんとした(馬太伝廿三章十五)。彼等は天国を
人の前に閉ぢて自らも入らず且入らんとする者の入るをも許さなかつた(同十三節)。即ち彼等は信仰の人であるよりは寧ろ宗派の人であつた。彼等の伝道は神の道を伝ふる為の伝道でなくして自分の勢力を拡張する為の伝道であつた。彼等は人がパリサイ派に入らざる限りは神の道を聞かざらん事を欲した。故に彼等に由りて信者となりし者は彼等よりも倍したる地獄の子となつた(同十五節)。嫉妬〔しつと〕、陥擠〔かんせい〕、暗闘、結党は彼等の常性であつた。彼等の信仰なる者は宗教の名の下に政治的野心を行ふに過ぎなかつた。
以上がパリサイの麪酵(ぱんだね)である。其「教」である。其主義精神である。而して是れあるが故にイエスは何者よりもパリサイの人を嫌ひ給ふたのである。イエスの精神はパリサイの人のそれと正反対であつた。二者は両立し得る者でない。イエスに政略は毛頭なかつた。彼はすべて正直率直であつた。「然り然り否な否な、此より過るは悪より出るなり」とは彼の教であつて、又彼が常に実行し給ひし所であつた(馬太伝五章三十七)。イエスに疑ふの心はなかつた。彼は雲雀(ひばり)の如くに日光を愛し給ふた。嫉妬、暗闘、結党の如きは暗黒を愛する蝙蝠(こうもり)族の為(な)す所であつて、常に日光の内に棲息〔せいそく〕する雲雀族の王の堪ゆる能〔あた〕はざる所であつた。イエスの立場より見て最も嫌ふべき者は無知無能無芸の民ではなかつた。彼は能〔よ〕く大抵の罪悪に堪へ給ふた。然れどもパリサイの麪酵に至つては、政治的野心を以て行ふ宗教に至ては、神の名を用ひて人の益を計るに至ては、信仰の名の下に自党の利害を語るに至ては……イエスは之に対する憎悪の念を発表するに足るの言葉を持ち給はなかつた。故に彼は彼等に対するに彼の感情有の儘〔まま〕を発露するより他に途〔みち〕がなかつた。曰く「ウーアイ嫌〔いわ〕ふべき者よ」と。和訳の「噫〔ああ〕汝等禍〔わざわい〕なる哉〔かな〕偽善なる学者とパリサイの人よ」とは弱い訳字である。「蛇蝮(へびまむし)の類(たぐい)」とは彼が彼等に与へ給ひし名称である(三十三節)。暗黒(くらき)を愛する蝙蝠族、毒を蔵(かく)す蛇蝮類、税吏(みつぎとり)よりも、娼婦(あそびめ)よりも憎むべき嫌ふべき政治的宗教家……イエスはパリサイの人の前に立ちて純潔の処女(おとめ)が悪漢の前に立ちしやうに感じ給ふたのである。
而してパリサイの人の麪酵(ぱんだね)、是れ何時(いつ)の世にも在る精神である。悪魔は必ず宗教家となりて世に顕はるゝのである。即ちパリサイの人となりて現はるゝのである。彼は誠に宗教家らしくある。彼に神学がある、聖書知識がある、熱心がある、謙遜がある、所謂〔いわゆる〕社会奉仕の心がある。外見に現はれたる彼は立派なる宗教家である。故に多くの人は彼に帰服する。彼れ自身も多分悪魔なることを知るまい。然れども其れあるに係〔かかわ〕らず彼は蝮(まむし)の裔(すえ)である。彼は光明を嫌ふ。自党を愛する。他を指導せんと欲して指導せらるゝを好まない。正義に訟〔うつた〕へない、愛を説いて感情に問ふ。自党確立の為に一致協同の必要を説く。怒らない、穏健なる君子である。他を称(よ)んで蛇蝮(へびまむし)の類(たぐい)と云ふが如き事は断じて為さない。立派なる基督教的紳士である。常に聖書の言〔ことば〕を引いて語る。何人が見ても模範的基督者である。
然し乍〔なが〕ら神の子イエスは斯〔か〕かる「完全なる人」を嫌ひ給ふ。斯かる人は其外観の美〔うる〕はしきに係らず蝮の裔である。故にペテロの如き正直者が此麪酵(ぱんだね)の毒する所となり、正義を念とせずして利害を思ひ、イエスのヱルサレムに上りて身を危険に曝さんとし給ふを見て、彼を引留めて「主よ宜〔よ〕からず此事汝に来るべからず」と言ひしや、イエスは彼の愛する弟子に悪魔の乗移(のりうつ)りしを認め、彼を叱責して言ひ給ふた「サタンよ我が後(うしろ)に退け、汝は我に礙(つまず)く者なり、汝は神の事を思はず、人の事を思へり」と(馬太伝十六章廿一以下)。イエスは茲(ここ)にパリサイの麪酵の彼の率ゐる小団体の間に入らんとするを認め給ふたのである。故に大喝一声之を斥〔しりぞ〕け給ふたのである。ペテロは此際確かにサタンと化したのである。イエスにして此際若〔も〕しペテロの此行為を許し給ひしならば彼の福音は其源に於て毒されたのである。事は小事に見えて重大事であつた。パリサイの人の麪酵は其痕跡(こんせき)だも弟子団の中に入るを許されなかつたのである。
「神の事を思はずして人の事を思ふ」と云ふ。正義を思はずして政略を思ふ。斯くなすは宜し斯く為すは宜〔よろ〕しからずと云ふ。社会の手前を憚〔はばか〕り、自己自党の安全を計る、是れパリサイの人の麪酵である。而して此麪酵の犯す所となりてキリストの福音は其根柢〔こんてい〕より滅びるのである。今日の所謂教会何者ぞパリサイの人の麪酵の脹発(ふくら)す所となりし三斗の麦粉(むぎこ)たるに過ぎないのである(馬太伝十三章三三)。パリサイの人の間に行はれし弊害は悉〔ことごと〕く今日の基督教会の内に行はる。基督教会、実は之をパリサイ教会と称すべきである。昔のパリサイの人の美点も汚点も、長所も短所も悉く之を今日の基督教会に於て明に認むる事が出来る。余輩は今日の基督教会の欠点のみに注目して其美点を見逃さんとはしない。今日の基督教会の内に少数のニコデモ、ガマリエル、又タルソのサウロの在る事を余輩は疑はない。余輩は人として教会信者を尊敬し又彼等を愛する。然し乍らイエスにして今日彼の名に由て立つ教会を見給ひしならば、彼は其内に於て彼れ在世当時のパリサイの人の間に働きしと同様の麪酵(ぱんだね)の盛に働きつゝあるを認め給ふに相違ない。今日の伝道に競争の盛なる、教師間に嫉妬暗闘の盛に行はるゝ、「徧く水陸を歴巡(へめぐ)り(外国伝道を行ひ)、一人をも己が宗旨に引入れんとす(一人も多く洗礼を授けて之を己が教会の会員たらしめんとす)、既に引入るれば之を汝等よりも倍したる地獄の子と為せり(既に信者となし教会員たらしむれば宣教師同様或は彼等以上の地獄の子即ち党派の人となして嫉妬陥擠離叛等有りと有らゆる党人の罪悪を行はしむ)」。是れ今日の基督教会に於て何人も目撃する事実である。即ちパリサイの名は絶えしも、其麪酵は絶えないのである。蛇蝮の類は依然として蕃殖〔はんしよく〕し、嫠婦(やもめ)の家を呑み偽はりて長き祈祷をなし、人々よりラビ(神学博士)と称せられて上流社会と交際して得意然たるのである。而してイエスの心を以て心とする者は是等近代のパリサイの人に対してイエスが当時のパリサイの人に対せしと同様の態度に出ざるを得ないのである。「ウーアイ嫌ふべき者よ」と、「噫汝等禍ひなる哉偽善なる学者(神学者)とパリサイの人よ」と。若しキリストの福音と全然正反対なる者がありとすれば、其れは今日の宗教界に瀰漫〔びまん〕する宗派心である。是は預言者を殺しながら其墓を建て義人の碑を飾る精神である。福音に似て最も非なる者、キリストの名の下にサタンの意志を行ふ者である。
而して斯く唱ふる余輩も亦〔また〕稍(やや)もすればパリサイの人と成り教会信者と化するのである。我は彼等の如くならずと唱ふる時に余輩も亦非パリサイ的教会を形作(かたちづく)り易くなる。余輩も亦ペテロの如くに純福音を唱へながら神の事を思はずして人の事を思ひ易くなる。我が団体が貴くなる。其社交的体面を維持せんとする。福音の純潔を守ると称して他人の主義主張を異端視し、是と与(くみ)すべからず彼と偕〔とも〕なるべしと云ふ。神の真理は太陽の光の如き者なることを忘れて、自分の書斎を照すランプの光を以て全世界を照さんとする。実に慎むべきは此時である。一歩を過(あや)まれば余輩自身が蛇蝮(へびまむし)の類(たぐい)となるのである。余輩は思ふイスカリオテのユダは此淵(ふち)に沈みし者であることを。ユダは世に所謂(いわゆる)る悪人ではなかつた。彼も亦イエスを思ふの一人であつた。彼の離叛は悪意より出たと云ふ事は出来ない。彼は多分思ふたであらう、イエスは何時(いつ)まで待つても身を起して世界の王となり給はない、故に若し彼を敵人に附(わた)さば彼は奇蹟力を発揮して自己(みずから)を救ひ敵を亡ぼして弟子一同が期待する世界王国を建設するに至り給ふであらう、是れイエスに取ての利益、又弟子団に取ての幸福なりと。斯くしてユダは師と団体との為を思ふて彼の大胆なる行為に出たのである。然し乍ら彼の目的は達せられずして師は十字架に釘〔つ〕けられ団体は四散したのである。ユダの動機に同情すべき所があつたと云ふを得やう。然し乍ら彼も亦神の事を思はずして人の事を思ふた。彼も亦パリサイの人の麪酵の化する所となりて其一生を過(あやま)つたのである。憐むべきである、然し慎むべきである。而してイエスとしてはパリサイ主義の体得者なるユダと断ちて彼の弟子団の純潔を維持するより他に途がなかつた、パリサイの精神がイエスを十字架に釘けたのである。