ロマ書の研究第60講

第六〇講 ロマ書 大觀


 

 
 すべて書物を讀みたる後において忘れ得ざるものは大体の印象である。もちろんその中の重要なる個處もまた忘れがたきものではあるが、最も強く長くわが心に留まるは、その全体の空氣である。あだかも百花咲きにおう春野を逍遙せし後において、個々の花の忘れがたきもあれど、むしろ花の野に身を浸してその香に酔うたという事その事が、最も強き記憶として残るたぐいである。ロマ書を讀み終えし後の感もまた同樣である。
 
2012年5月から同信の兄弟方と輪読し始めて、この8月21日で全60講、
上下合本になって,500余ページの「ロマ書の研究」を読了した。イエスキリストと出会って,30余年断片的にしか捕らえていなかったパウロ神学の
精髄を飲み下した思いである。それは、内村の四書五経の学びから養われた豊富な漢字による表現力は、現代の我々日本人の臓腑に響く。翻訳文にない日本人に適合した米の味である。味噌、醤油の味である。永年日本人を養ってきた文化はそう簡単に西洋文化に置きかわらない。
 
 
今ここにこの大体の印象を述べておきたい。これすなわちロマ書大觀である。
 ロマ書全体に關することを講述の題目とする時はなお他にも多い。二、三の例を擧げれば、ロマ書の世界歴史における影響というごときは、確かにおもしろき題目である。
 
 ロマ書を讀了して受くる第一の印象は、それが信仰第一の書であるということである。信仰によりて義とせられ、信仰によりてきよめられ、信仰によりて榮化せらる。信仰をもつて始まつて信仰をもつて進み、信仰をもつて終わる。これを説いたのがロマ書である。ロマ書はもちろん愛を説く。また望みを説く。その愛を説きし十二、十三章のごとき、その望みを説きし八章のごとき、いずれも著しき處ではあるが、しかしロマ書全体にみなぎる空氣は、信第一のそれである。パウロは律法に信仰を對立せしめて、後者をもつて前者を打ち破つたのである。かくしてふるき律法時代にいとまを告げて、新しき信仰時代の到米を公宣したのである。これがすなわちロマ書である。この事は實に信仰時代のあけぼのを告げる暁の鐘の音である。
 第二に受くる印象は、この書が恩惠の書であるということである。神の、人に對する道は絶對的恩惠である。神はただ恩惠をもつて人を義とし、人を救いたもう。「キリストは、われらのなお罪人たる時、われらのために死にたまえり。神はこれによりてその愛をあらわしたもう」(五・八)とあるは、ロマ書の大主張である。われらが罪人であることは、少しも神の恩惠の發動を妨げない。いな、罪人を救わんためにこそ、彼はそのひとり子を世に賜いて、彼をして十字架上に人類の罪を贖わしめて、もつて罪人のゆるされ、かつ救わるる道を開きたもうたのである。事は、何ら人の功(いさおし)によらない。また人の願いによらない、ただもっぱら神の自發的行動に屬してゐる。ゆえに絶對的恩惠である。この事を極力闡明(せんめい)するのがロマ書である。
 神は、かく、ただ恩惠をもつてのみ、人に對したもう。人の、功なくて救わるるの道はすでに備えられてゐる。ゆえに、人は、ただこのまま神に立ち歸りて信從の生活に入りさえすればよい。實に簡易の極とはこの事である。しかるに多くの人はこの事を知らない。神が手を開いて寶物を與えんとしつつあるを知らない。ゆえに、この恩惠の中におのれを投げ入れようとしないのである。また信者といえども、この福音の中心的生命の處在を充分に知らない。ゆえに信仰生活をもつて努力作善の連続と誤想するそしてそのために早くもすでに疲憊(ひはい)しつくして、信仰生活の弛緩(しかん)無力を生むのである。これ、一に神の恩惠の眞性質を知らぬことに起因する。まことに今日のキリスト信者はただ恩惠恩惠(めぐみめぐみ)と叫ぶのみであつて、この恩惠の何であるかを知らないのである。パウロは信仰中心の人であつたが、その基に、神の恩惠、神の愛を置いた人であつた。すなわち、神がまず愛をもつて人に對するがゆえに、これに感激して人が信仰を起こすのであると彼は説く。實に恩惠なくして福音はないのである。ロマ書が神の恩惠を何よりも先に立つる書であることを忘れてはならない。
 キリスト敎というからとて、これを、他のいわゆる宗敎と同一列に置くは誤まつてゐる。キリスト敎はいわゆる宗敎ではない、神より人への啓示である。宗敎は人が神を求むるものであるが、キリスト敎は神が人を求むるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩惠の受納を主眼とするのである。自己が種々の方法をめぐらして神に近より行くのが普通の宗敎であつて、ただ恩惠を受け感謝喜悦に入るのがキリスト敎である。かく、この世の宗敎と、神よりの啓示たる福音は相違してゐる。地の産と天の産との間にはある根元的の相違があるのである。しかるに人は多くこの区別を知らずして、あるいは比較宗敎學の立場より、あるいは努力修養の道より、あるいは論理攻究の道よりして、福音の生命に達せんとする。これ、ドクトル・ジョンソンのいわゆる、雄牛より乳を搾取せんと願うの類である。赤子の心をもつて、へりくだりて神の與えたもう生命を受くること、これが救いに入る唯一の道である。神は人を求めつつある。彼は、人が努力修道の険路(けんろ)を經て近より來たるを靜かに待ちたもう神ではない。神は常に人を求めつつある。兩手に珠玉を滿載して、人々が手を伸ばして受け取るのを待ちつつある。人は信仰をもつてこれを受けさえすればよい。それより、眞の生命は臨むのである。
 ロマ書は以上のごとき事を傳うる書である。したがつて、信仰をもつてこの恩惠を受くる態度を人に要求する書である。しかしながら、かかる態度に入るにあたつてまず必要なるは、いかにして神の前に義たらんかとの問題を心に強くいだくことである。自己の積罪汚濁に堪えかねて、聖き神の前におのれを置くに堪えず、神の刑罰に當然値することを認めて、苦惱重く心を壓し、いかにして神の前に義たらんかとの問題に惱む人、かかる人にとりてはロマ書は絶好の伴侶(はんりょ)である。ロマ書は、要するにこの人生の最難問題に對して、明確にして最後的の解答を與え、もつて心の重き苦悶を取り去りて、晴天白日の境に人を引き出だすものである。すなわち、人の提供する義にあらずして、神の提供する義、人にあるところの義にあらずして、キリストにあるところの義、この義をすべて信ずる者に賜うことをロマ書は敎えて、人々をして、動かざる歡喜の世界に入らしむるのであるパウロはピリピ書においてこの事を述べて、「信仰に基づきて神より出づる義、すなわち律法によれるおのが義にあらず、キリストを信ずるによれるところの義をもちて」(ピリピ書三・九)というた。この義を人に與えて、人の罪の苦悶を取り去るのが、ロマ書にいわゆる福音である。ゆえに、ロマ書はこのむずかしき問題に苦惱せる人の讀むべき書である。
 
 
 なお、注意すべき一事がある。「イエス・キリストのしもべパウロ」をもつて始まりしこの書は、最後に「独一叡知の神」を贊美して終わつた。彼はまずキリストのしもべとして、自己を全く彼の下に隠して紹介し、そして最後には神を贊美するのみにて、少しも自己をあらわさない。もとより強き特徴を持つていた彼のことであるから、いたる處に彼の精神はあざやかにあらわれ、ことに七章後半のごとき痛烈なる自己一身の告白などありて、この書を讀みしのちにおいて、著者たるパウロ彼自身がかなり強く讀者の心に残るは自然である。しかしこれ求めてなせしところではない。彼はひとえに自己をあらわさじと努めたのである。彼は「わが名によりてバプテスマを施すと、人にいわれんことをおそれ」(コリント前書一・十五)て、つとめてバプテスマ施行を避けた人であつた。また「ことばと知惠のすぐれたるをもて……神の證を傳え」なかつた。これ自己の力をもつて人を福音に引くをおそれたからであつた。「そは、なんじらの信仰をして、人の知惠によらず、神の力によらしめんと思えばなり」(コリント前書二・一 ~ 五)と彼はいうてゐる。彼は、かく常に注意しておのれを隠して、神とキリストとをあらわさんとした人であつた。ゆえに、ロマ書を讀みて、彼の姿がかなり強く見ゆるとはいうものの、それにも増して --しかり、幾十倍も増して -- 強く見ゆるものは、神とキリストの姿である。實にこの事において神の愛とキリストの救いとは、パウロのすべての特徴を押しのけて立つてゐる。しかり、神とキリストは滿天の輝きを受けしごときあざやかさをもつて立つてゐるのである。ゆえに、この書を讀んでさらに知りたく思うは、パウロではなくして、神とキリストであるパウロが極力自己を隠してあらわさんとしたこの神、このキリストは何であるか、その愛、その救いについてなお深き知識はいかにして得べきかと、人々はこの研究に對する熱心を燃やすのである。この意味において、ロマ書は大なる傳道書であるというべきである。
 これを要するに、世界最大の書といえば、これをロマ書のほかに求むることはできない。この世に大作といわるるもの、名著といわるるものは少なくないが、ロマ書に比してはその光を失うのである。ゲーテファウストのごときを近代人の聖書という人あるも、とうていロマ書と比することはできない。その他、ダンテの神曲というも、シェークスピアハムレットというも、なおこれらと比肩するに足るべき大作というも、とうていロマ書と光を争うことはできない。たれか臨終の時にあたつて世のいわゆる大作によつて慰められ得ようか。しかしながら、死に處しても生に處しても、いかなる場合にも、常に人生の最大伴侶たるはロマ着である。ゆえに、これにまさる貴き書物はこの世にないのである。
 
第六〇講 約  説
ロマ書大觀
 
 ロマ書を大觀して第一に氣の付くことは、それが信仰の書であることである。「神の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至る。しるして、義人は信仰によりて生くとあるがごとし」(一・十七)とある。信仰が原因であつて、信仰が手段であつて、また信仰が結果である。信仰に始まつて信仰に終わる。思索ではない。修養ではない。みずから潔(きよ)うせんとする努力ではない。信仰である。信仰によりて義とせられ、信仰によりて潔められ、信仰によりてあがなわる。ただ仰ぎ見る事によりて救わる。「見よ、しもべ、その主人の手に目を注ぎ、しもめ、その主婦の手に目を注ぐがごとく、われらはわが神エホバに目を注ぎて、そのわれをあわれみたまわんことを待つ」(詩篇一二三・二)とあるその態度である。この態度に自己を置かずして、ロマ書はわからない。ロマ書に臨むに、單に哲學者の冷靜と藝術家の敏感をもつてして、その特に貴き書なる理由を探ることはできない。
 
 
ここに一年と六カ月にわたりてロマ書を研究したことの實益が現わるるであろう。ことわざにいう、「最後の三分間に備うるために全生涯を用ゐるの價値(ねうち)がある」と。そのごとく、最後の審判の日に備うるために、全力を盡くしてロマ書を學んでおくの價値がある。
 
人はみな罪を犯したれば、神より榮光を受くるに足らず。ただキリスト・イエスのあがないによりて神の恩惠(めぐみ)を受け、功(いさおし)なくして義とせらるるなり。すなわち神は忍びて過ぎこしかたの罪を見のがしたまいしが、今おのが義をあらわさんとて、イエスを立て、その血によりて、信ずる者のなだめの供え物となしたまえり。これ、みずから義たらんため、またイエスを信ずる者を義としたまわんためなり。さらば誇るところ、いずくにあるや。あることなし。何の法によるか。おこないの法か。しからず。信仰の法なり。ゆえに、われ思うに、人の義とせらるるは信仰による。律法のおこないによらずと。
 
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