ロマ書の研究第18講

 

ロマ書3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(新改訳聖書
 
 
第二一節は、律法をはなれて神の義のあらわれしこと、および律法と豫言者がそれを裏書きすることを説いた。この神の義について、さらに説明するのが二二節である。邦譯聖書には
すなわちイエス・キリストを信ずるによりて、その義を神はすべての信者に賜うて区別(へだて)なし。
とある。キリストに對する信仰のゆえに、神はその義を区別く誰人にも與えるという意である。もしこれを原文のままに直譯すれば
[すなわち]神の義 イエス・キリストにおける信仰によりて、すべての人に向いて、
すべて信ずる者の上に、そは区別なければなり。
となる。最後の「そは区別なければなり」は、一の成句(clause)にして、主語あり、説明語ありて、一のまとまつた思想の發表となつてゐる。然るに初めの四つはいずれも一の句(phrase)たるにとどまつてゐる。パウロはここに四つの句を並べただけであつて、必要なる説明の動詞は全然はぶかれてゐるのである。ゆえにこれをおぎないて、意味を完了させねばならぬ。まず次ぎのごとくして大過なかろうと思う。
すなわち神の義[は、あらわれたり]
イエス・キリストにおける信仰によりて[受けらるる義]、
すべての人に向いて[發せられし義]、
すべて信ずる者の上に〔とどまる義なり]、
そは区別なければなり。
右のごとく、カツコ内の語をおぎないて、初めてこの節の意味が明らかとなるのである。
「神の義」は、人の義ではない、人が自力をもつて達成せし義ではない。神より、信ずる者の上に賜わる義である。神はこの義を、キリストを信ずる者の上に賜うて、彼を義としたもうのである。
 
すなわちイエス・キリストにおける信仰によりて」受けらるる義である。信仰をもつてこの義を受けるのである。人が神の義を受くる唯一の條件 ── もし條件と言い得べくば ── は信仰である。キリストにおける信仰、これ神の義を受くるただ一つの道であり、從つてこれなき人は神に義とせられ得ないのである。
この義は「すべての人に向いて」發せられし義である。すなわち神はすべての人類に向つて、イエスの十字架のゆえをもつて、この信仰の義を發したもうたのである。目的は、すべての人がキリストを信じてこの義をわがものとするにある。決してある一部の人を義とするを目的として發せられし義ではない。ゆえにこの義はすべての人に向いて發せられしものである。
 
この義をわがものとするは、信ずる者にかぎるのである。萬人の取るを目的とし萬人の取るにまかせられたる生命の水ではあるが、これを取らんと欲して汲み、器を持ち來る者にして初めてこれを實得し得るのである。これ注意すべき一事である。キリストの血は、萬民の罪をゆるさんとて流せしところの契約の血である。彼の十字架は、罪人の罪をあがなうためのものである。しかし。彼を信じたる者において初めてこの罪のあがないが事實となるのである神の、人を義とする義には、この特有性がある。然らずしては、悔い改めも全く不用となるのである。然り、神の義はすべて信ずる者 ── キリストを信ずる者 ── の上にとどまる義である。
 
すなわちパウロは、いかなる人といえども信仰をもつて義とせらると主張するのである。
されば、「区別なし」と言うたとき、パウロはまずユダヤ人異邦人の区別なきことを意味したであろう。かつてはユダヤ人のみが選民として神に救わるることを確信しいたるパリサイの人サウロも、キリストの化するところとなりては、國籍の区別はむなしきものとして消え去つたのである。ゆえに國籍の区別なくして、人は信仰だけをもつて--いかなる良き民族の人にても、惡しき民族の人にても--義とせられると主張するのである。そして國籍の区別にとどまらない。悔い改めて神に歸屬しキリストに信從するに至りし者は、ただそのことのみによつて神の義を賜わるのである。
そは区別なければなり」とは實に偉大なる言である。
 
また「神の義」と言えば、その中に愛もふくめられてゐるのである。そもそも人に對して惡をなせし者も、ひとたび悔い改むるときは、これをゆるすをもつて義しとすとは、人のあいだの普遍の思想である。ある場合には、人を罰することならで、人をゆるすことがかえつて義(ただ)しいのである。ゆえに、神もまた義しき神なるゆえに、人をゆるし人を愛すとの思想が舊約時代にあつた。
詩篇第五一篇十四節を見よ。
神よ、わが救いの神よ、血を流しし罪よりわれを助けいだしたまえ。わが舌は聲高らかに汝の義を歌わん。
とある。これ愛と赦免とをもつて義と見る--すくなくとも義の一部と見るのである。また詩篇第一四三篇一節 ~二節にいう、
汝の眞實、汝の公義をもてわれに答えたまえ。汝の僕の審判にかかずらいたもうなかれ。そは活ける者一人だに、聖前(みまえ)に義とせらるるはなし。
と。これまた公義の中に赦免を見るのである。ゆえに、新約においてもヨハネ第一書の第一章九節には
もし己れの罪を言いあらわさば、神は信眞(まこと)なる公義者なるがゆえに、かならずわれらの罪をゆるし、すべての不義よりわれらを潔(きよ)むべし。
 
とある。義なるがゆえに、父は我らの罪をゆるすというのである。
かく神の義は愛を含有する。ゆえに神の義を受けし者は、この愛をも同時に受けたのである。そして神よりの愛を受けしゆえに、兄弟をも愛し得るに至るのである。「われら神を愛するにあらず、神われらを愛し、われらの罪のためにその子をつかわしてなだめの供物(そなえもの)とせり。これすなわち愛なり。愛する者よ、かくのごとく神われらを愛したまえば、われらもまたたがいに相愛すべし」とある(ヨハネ第一書四章一〇節、十一節)。信仰によりて義とせられて、人は人を愛し、ゆるし得るに至る。信仰による義を受けて、その中にこもれる父の深愛を味得するに至り、求めざる感激はおのずから我に起り、たぐいがたき生命はおのずから我に湧きて、人に對してもまた愛を起し愛を行うに至るのである。まず愛して、父に愛せらるるにあらず、まず父に愛せられて、愛するに至るのである。
附 言
ロマ書第三章二一節 ~二六節は、わずかに五節より成るところであるが、その中に福音の眞髄が敎えられおるとして有名である。然るに何ゆえか文辭あまりに簡單である。パウロがもしこれを引きのばして長い論文となしおかば、研究者にとりてはまことに幸いであるのに、不幸にも、意地惡しと思わるるほど、その文字は簡單なのである。
何ゆえに、かく彼は重大な眞理を短く言うたのであるか。彼は恩惠の救いを説く前に、當然順序として萬人のみな罪あることを強調した。彼は早く救いを説きたきに、逸る心をおさえつして厭わしき罪の姿を描いていたのであろう。そしていよいよそれを描き終えて、律法の行いによつては一人も義とせられぬことを結論として述べ終るや、ここに今まで支えられおりし大水がにわかに堤を破りて流れ出ずるがごとく、心の中にはちきれんとする恩惠の言辭が、決河の勢いをもつてほとばしり出でたのであろう。
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実りの秋、信仰の実りの果実はいずこに?