ロマ書の研究第46講

 

第四十六講 キリスト敎道德の根底
十二章一節
 
その内容の價値からいえば、ロマ書は第八章をもつて絶頂とする。しかしその内容の性質からいえば、十一章と十二章の間が分水嶺(ぶんすいれい)となつてゐる。すなわち十二章までに説かるるは敎義であるが、十二章からは全く面目を異にして、もっぱら實践道德を説くのであるかく、その書簡の前半において福音的敎義を説き、後半において實践道德を説くはロマ書のみに限らない。パウロの他の書簡においてもこれがある。その最も鮮明なのは、ロマ書のほかエペソ書である。この書は、第三章までにおいて、信仰に關する深き敎義を説き、第四章よりは「されば、主にありて囚人となれるわれ、なんじらに勧む。なんじら召されし召しにかないておこなわんことを」と説きはじめて、もっぱら實践道德を説明してゐる。コロサイ書もこの點がかなり明瞭である。一、二章において、含蓄豐かなる敎義が説かれしのち、第三章よりは、「すでになんじら、キリストと共によみがえりたれば、天にあるものを求むべし」と説き出して、もっぱら道德的の注意が與えられてゐる。その他、ガラテヤ書は第五章一節より、テサロニケ前書は四章一節より、同後者は三章六節より、いずれも實践道德に入つてゐる。パウロの書簡の半數がこの特徴をになつてゐることは、注意すべき一事である。
これパウロにとつては人生の第一問題である。神と人との關係の根本をなす問題である。しかるにパウロにとつては神人關係の問題が人生の第一問題である。これさえ解けば、他のすべての難問題と稱せらるるもののごときは自然と解け去るというのである。
根なくして、葉の茂り花の開くはずがない。しかるにこの世の人らは営々としてこの不可能事に從事してゐる。さりながら敎義は人生の第一問題の解明である。神と人との關係がまず義(ただ)しくされなくては、他のすべての事は義しくされない。キリスト敎道義はキリスト敎敎義を根幹として立つ花葉である。ゆえにこそ、根幹より養汁を受けて榮ゆるのである。根底なくしてただひとり立つところの倫理道德は、あたかも瓶に植えし花のごとく、しぼみ果つるほかない。この點において、キリスト敎道德は普通の道德と根本的に相違してゐる。自己の義とせらるる事、聖めらるる事、救わるる事の奥義を學び、進んで全世界に關する聖圖の秘義を學びて、歡喜と希望の歌が高く揚がる-しかるのち實際道德に入るのである
まず十二章第一節を見るに、邦譯聖書には「されば兄弟よ、われ神のもろもろのあわれみをもてなんじらに勧む。その身を神の心にかなう聖き生ける供え物として神にささげよ。これなすべきの祭なり」とある。今これを原文の順序のままに譯せば、大体左のごとくなる。
されば(そうゆう分けですから)なんじらに勧む、兄弟よ、神のもろもろのあわれみをもて、その身をささげよ、神の心にかなう聖き生ける供え物として、これ、なすべきの祭なり
實にその一字一句が意味深き語である。これ實にキリスト敎倫理の根本的原理である。實にこの一節をもつて倫理入門と稱することができる。
第一に立つは「されば」であるこの「されば」は何を受けての語であるかは。しかしながら多くの學者は、この語をもつて、一章十七節以下の既説全部を受けての語であると見てゐる。この語は、ロマ書の敎義部と道德部の間に立つところの「されば」である。ゆえに敎義部の全体を受けての語であると見るが最上の見方と思う。すなわち「なんじら、キリストによりて義とせられ、神と新しき關係に入らしめられたれば」の意である(サンデー)。義とせられ、聖められ、救いの希望を持たせられたれば-- かく數々の大なる惠みに接したれば --いいがたき喜びと安きを與えられたれば…という意である。かく「されば」をもつて呼び起こさるる道德の勧めである。ただなすべし、なすべからずの誡めではない。充分の根底ありて、おのずから現われねばならぬ勧めである「なんじらに勧む、兄弟よ」という。しかるに今や時來たつて福音の時代となつた。まず與えらるるは恩惠である。しかる後「されば……勧む」である。道德的命令を新たに課そうとするのではない。恩惠に浴して感激する結果、當然あるべき事を、念のために勧めるのである。勧めなくても、讀者の當然實行すべき事ではあるが、あるいは忘るる者もあろうかとの心づかいより、改めて勧めるのである。ゆえに自然に起こるべき事をひき起こすだけのことである。ゆえに少しも命令として威嚇的に臨む必要はない。ただ勧めただけで充分である。
神のもろもろのあわれみをもて」勧めるという。第十一章までにおいて説くところ、みな神の「もろもろのあわれみ」である。ことに一章~八章における救いの本義は徹頭徹尾神のあわれみである。そこに著しきは、人の罪と神の愛との對照である。人にはただ罪の深きあるのみにて、何の功なく、ただ信仰によつて義とせられ、聖められ、救わるという神のあわれみである。この神のあわれみをもてパウロは獻身をすすめるというのである。あわれみに感激しておのずからなすに至る獻身を、念のためにパウロはなお勧めるのである。「神のあわれみにあやまたず心動かさるる者は、そのすべての聖旨に從うに至る」とベンゲルのいえるに注意せよ。
神のもろもろのあわれみをもてパウロは何を勧めるのか。いわく「その身をささげよ」である。パウロがここに、その身(体)をささげよとのみいいて、全身全靈をささげよとも、なんじ自身をささげよともいわなかつたことについては種々の説がある。しかしながら、その身すなわち肉体をささげよと明示してある上は、それが肉体的獻身を意味することはもちろんである。パウロは何ゆえこの事に重きを置いたのであるか。彼は第二節において「心をかえて新たにせよ神の心にかなう聖き生ける供え物として」ささげよである。。しかして信者の場合においては、キリストはわれらに代わりて、「世の罪を負う神の小羊」として、みずから燔祭の壇におのれを滅ぼせしゆえ、われらの燔祭はすでに終わりて、今や感謝を表する酬恩祭をささぐべき時となつたのである。しかしながら今や牛や羊をささぐるは神の心にかなうところではない。今ささぐべき犧牲は自己の肉体である。聖き生ける供え物である。死せる牛や羊は今や供え物たる價をもたない。生けるわが体を全部- その肢体と共に全部 -ささげてしまうこと、これ「神の心にかなう」供え物である。これをわれらは感謝の意味において、恩惠に酬(むく)ゆる意味においてささぐべきである。そして神の聖きみわざのためにわが体を全部用うべきである。
クリスチャンにもまた祭がある。それはすでに形式化したるユダヤの諸祭儀のごときものではない。また異邦におこなわるるところの、かの俗の俗たる祭の類ではない。そしてまた日を定めてある一日または數日をのみ神のために用うる祭ではない。クリスチャンの祭とは、その當然なすべき祭であり、また靈的の祭である。それはその身を「神の心にかなう、聖き生ける供え物としてささ」ぐるところの祭である。一たびその身をささげて、日々に連続してその身をささげつつ行く祭である。別の語をもつていえば、信者はその生涯全部が祭である。彼にはこの世のいわゆる祭はない。けれども祭が全くないというは誤つてゐる。いな、祭を最も多く営む者は彼である。何となれば、彼は毎日毎日祭をするからである。いな、その全生涯が祭の連続であるからである。ゆえに、われらは他に特別の祭をする要がないのである。
キリスト敎道德は全き獻身をまず第一とする。それよりすべて行爲の細末にわたるのである。しかし、獻身というも、單なる命令ではない。まず神の恩惠に豐かに浴し、人生の根本問題を解かれて、歡喜滿悦のあまり當然なし得る獻身のすすめである。かくして深められたる心より自發的に起こるところの愛のおこないと生涯である
第四十六講 約説
聖き生ける供え物(一二章一節)
第十二章をもつてロマ書の第三区に入る。第二章より第十一章までは二区に分かれてキリスト敎の敎義を論じ、第十二章より第十五章まではその道德を述ぶ。敎義が先にして道德が後である。敎義に根底を置かざる道德は弱くして消滅しやすくある。敎義に十一章を與え道德に四章を配りしパウロのキリスト敎に注意すべし。敎義七分、道德三分、ゆえにその道德は堅くして動かないのである。
「されば兄弟よ、われ、神のもろもろのあわれみをもてなんじらに勧む。その身を神の意(こころ)にかなう聖き生ける供え物として神にささげよ。これ當然の祭なり」と。。道德を敎義の必然的結果と見るからである。キリスト敎は律法でなくして福音である。
その身を…供え物として神にささげよ」。キリスト敎道德の發端(ほつたん)はここにある。まずおのが身を供え物の生贅(いけにえ)として神にささぐる事である。祭にいろいろある。燔祭(はんさい)がある。素祭がある。罪祭がある。愆祭(けんさい)がある。酬恩祭がある。しかしてここにいう供え物とは酬恩祭の供え物である。「人もし酬恩祭をささぐるにあたりて、牛をとりてこれをささぐるならば、雌雄にかかわらず、その全きものをエホバの前に供うべし」とある。また羊にても、やぎにても可なり。ただその全きものたるを要す。事はレビ記第三章につまびらかである。酬恩祭は燔祭の後に來たる。しかして信者の場合においては、燔祭は、世の罪をおのれに負うて全き罪の犧牲(いけにえ)になりたまいし神の供えたまいし小羊イエス・キリストをもつてささげられたのである。「なんじ、いけにえの供え物を好まず。ただわがために体を備えたもう」とヘブル書十章五節にしるされたるその体、すなわちキリストの体である。神はわれらのささぐべき犧牲、。神に對し義(ただ)しき關係に入つて、その必然の結果として起こる聖き義しき生涯である。これがキリスト敎道德である。
 
「神の意にかなう聖き生けるいけにえ」という。神の喜びたもう供え物、彼の受けゐるるところとなるもの、しかして神は聖くありたまえば、彼が喜んで受けいれたもう供え物もまた聖くなければならない。しかして、いけにえは生けるものたるを要す。この點において新約のいけにえは舊約のそれと異なる。舊約にあつては、牛や、羊や、やぎは、ほふられて火祭としてエホバの前にささげられたが、新約においては、信者はその身を生けるままにて、イエス・キリストのおん父なる眞(まこと)の神にささぐるのである。生きて善行の善き實を結ぶ供え物として神にささぐるのである。ほんとうの人身御供(ひとみごくう)である。生きながら、聖き神の聖き器として使われんためのいけにえである。これ以上の尊き獻身のありようはずがない。
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