ロマ書の研究第23講

 
第二十三講 アブラハムの信仰
-第四章の大意 -
 
萬人の罪人なること、ゆえに人は到底行いをもつて神の前に義たり得ぬこと、從つてただ神より義を賜わるほかに道なきこと、そして神はこの義を我らに賜うて、義ならざるに義とする道をひらきたまいしこと、そしてこれはイエスの十字架の贖罪ありしによること、されば今われらはただこのキリストを信ずる信仰のみによつて義とせらるること、ゆえに人には何ら誇るべきなく、すべての良きことはみなキリストにおいてあること -- これ第三章までにおいてパウロの説きしところである。
彼は進んで第四章において、イスラエルの始祖アブラハムの信仰について説述するのである。そのはなはだ重要なる箇處なることは、この章を熟讀してみてわかることである。我らは充分にこの章を重要視すべきである。
 
まずこの章の構想をうかがうに、ほぼ四段より成つておること明らかである。
 
第一段は一節より八節までである。その説くところは、アブラハムが行いのゆえに義とせられたのではなくして信仰のゆえに義とせられたのであるゆえ、これ純粹なる恩惠であつて、幸福の極であるというにある。ここにアブラハムの信仰の性質が示されたのである
 
第二段は九節より十二節までである。その主眼は、アブラハムは割禮を受けざる前に義とせられたのであるゆえ、彼の信仰の實例は實に全人類に向つての模範であり、從つて異邦人もユダヤ人もことごとく彼を信仰の師父として仰ぐべきであるというにある。
 
第三段は十三節より十六節までである。世界の嗣子たるは、律法によるアブラハムの子孫に約束せられたことではない。すべてアブラハムの信仰に倣う者--すなわち靈魂における彼の子孫--に約束せられたことである。換言すれば、アブラハムの信仰に倣う者はすなわち世界の嗣子であると
 
そして第四段は十七節以下である。ここにアブラハムの信仰が神の約束を確信する信仰であること、および我らもまた彼のごとく「わが主イエスを死よりよみがえらしし神を」眞に信ずれば、彼と同樣に義とせらるることが説かれてゐる。
あらかじめ創世記第十一章以下において、まず父テラとともにカルデヤのウルを出でてハランに移り住みしことより、エホバの命に從つてハランを出でてカナンに入り、さらに南に移り、ついに飢饉に禍いせられて沃饒なるエジプトに移住し、ふたたびカナンに歸り、そこに甥のロトと別れて住み、エホバより大なる約束を受け、またイサクを與えられ、そしてそのイサクをひとたびささげんとせし等、彼の生涯は波瀾多く、興味津々たるものである。
 
彼のごとき世界的人物の生涯と信仰とその精神とを探ることは、誰にとつても有價値なことである。
そもそもパウロユダヤ人である。そしてアブラハムはいかなるユダヤ人にとつても、肉の始祖であるとともにまた靈の始祖である。すなわち信仰の偉大なる師表である。今までパウロは、福音の中心義が信仰の義であつて行いの義でないと説き來つた。これに對して彼の同胞は「然らば、もし然らざる場合は、パウロの處説より力強き支柱が取り去らるることとなるのである
革新と守舊とは彼の表裏となつていた。そしてこの二方面を一身に具有するものがすなわち健全なる人である。いずれか一に偏するは、たしかに不健全の徴候である。根なきところに花はないとひとしく、過去なきところに現在未來はない。過去のある確實なるものに根柢を置くは、眞理の特徴である。パウロの説く福音が、アブラハムおよび多くのイスラエルの優秀なる豫言者や詩人の善き信仰と思想とに根柢を有して初めて健全であり、確實であり、かつ眞に革命的なのである。人類過去の經驗を裏書きとして持つは、眞理の眞理たる處以である。福音はこの意味において、他のすべての宗敎や思想や信仰に打ち勝つのである。これを我ら日本民族だけにおいて見るも、福音もし果して神の眞理ならば、わが民族の過去において抱有せしすべての良き信仰、良き思想、良き精神を充たすものでなくてはならぬ。
 
アブラハムが行いを義とせられたのでなく信仰を義とせられたのであるとのパウロの主張を知るのである。創世記第十五章六節に言う、「アブラハム、エホバを信ず、エホバこれを彼の義となしたまえり」と。これをパウロは三節に引用したのである
これはパウロが舊約聖書のギリシア譯より引用したからのことで、その意味はいずれも同樣である。すなわちアブラハムは神よりその信仰を義と敎えられたのである。別の語にて言えば、神はアブラハムの信仰を義と數えたもうたというのである。
 
然らばかく義と數えられし彼の信仰の性質は如何。これ當然起るべき問題である。信仰といえばこれを單なる「熱信」と思う人が多い。忠實に集會に出席する人を見て、熱心の信者であると評するは人のつねである。しかしそれはただ禮拝に出席するのに熱心であるというだけのことで、果してその人が眞の信仰を持つてゐるか如何はわからないのである。世には日常の實際生活は全く別にして、すなわち自己の生活の上にすこしもキリストの精神を持ち來らずして、全く不信仰と同樣またはそれ以下の低卑なる生活をなしつつ、ただ集會に熱心に出席するだけをもつて信仰と考え、この信仰だにあらば義とせらるると考うる人がある。この種の人は、宗敎とはただ安息日に崇厳なる儀式をいとなむこと、およびそれに出席することであると考えてゐる。從つて安息日以外においては不信者と全く同樣なる精紳をもつて同樣なる生活を送るのである。 これ詩人ホィッチャのいわゆる「一週日のうち一日だけを神に、他の六日を財神(マンモン)にささげる」ものである。これ信仰なるものを全然誤解したものである。また信仰を以て、ある一列の敎義を知識的に了得することであると考え、正統派の信仰を抱くをもつて誇りとし、この信仰をもつて義とせらると考える人がある。この種の人は、その知的確信においてはすこぶる強固であつて、他の信仰を異端として排するにはなはだ熱心である。從つて宗派心がすこぶる強烈である。しかし人を義とする信仰は決してこの種の信仰ではない。知的確信は決して人を義とする信仰ではないのである
アブラハム、神を信ず、その信仰を義とせられたり」と言う。アブラハム神を信ずと、語はきわめて簡單である。しかし深きまた強き語である。神を信ずとは、神自身を信ずることである。神に關するあることを信ずることではない。全然神に信頼することであつて、その他のある者またはある事を信ずることではない。親子の關係、師弟の關係、友人の關係等において、もつとも理想的なのは、相互の全き信頼に立つものである。たがいに信ずるというところに至つて、その關係は眞に理想的となるのである。アブラハムが神を信じたというのは、全然神を信頼したのである。すこしの疑いもなくまたつぶやきもなく、全く神を信じて一切をまかせ奉つたのである。アブラハムはこの意味において神を信じて、その信仰を義とせられたのである。
 
信仰は信じ仰ぐことであると言いて、上のみを仰ぎて自己の状態を省みないのは危険である。信仰とは神を信ずることである。ゆえに神の命のままに動くことである。信仰の生涯とは、神御自身を信じ奉りて、聖意(みこころ)に從つて世を送る生涯である。黄金が萬能と思われつつある今の時代に住める我らが、同じくこの惡精神を抱きつつありては、いかに神を信ずと思いおるも、この種の信仰によつては義とせられないのである。
實に平和は會議によつて來らず、信仰によつて來る。神を信じて全くまかせ奉らば、軍備縮小のごときは即座に實行し得らるるはずである。世界の各國が絶對的平和を願いつつ、しかもその實現の不可能なるは、これ神を信ずる信仰が--ことにキリスト敎國と自稱する國において--充分に無いからである。
 
つとめず、つむがざる野の鳥をも養いたもう神は、いかで彼を信ずる一人を餓死せしめよう。眞に神を信ぜば、その御保護に信頼して、惡しき職業のごときはただちに捨て得るはずである。
 
第二段(九節 ~十二節)の主意は アブラハムは割禮を受けしのち義とせられたのではない、その前に義とせられたのである。同樣に、我らは洗禮を受けたからとて義とせられるのではない、義とせられしゆえにそのしるしとして洗禮を--もし受くべきものなれば--受くるのである
英國國敎會のごときは、洗禮の儀式それ自身に大なる功德ありとし、これを受けて人は初めて義とせられ、また聖靈を受くと主張す。これ形式に大なる値いをおくことであつて、靈的なるべきところを形式に堕したのである。信仰は信仰である。神とその獨り子キリストを信ずることである。この信仰あれば、聖書の明示せるごとく義とせられるのである。洗禮は形式のことであれば、これにともなうも可、ともなわざるも可である。ミルトン、クロムウェル、ジョージ・フォックスらの信仰は、實にこの種の信仰であつたのである。
第三段(十三節 ~十六節)の主意も、初めに述べておいた。すべてアブラハムの信仰にならう者は世界の嗣子(よつぎ)とせらるるというのである彼の肉の子孫はただカナンの地を與えられたのみである。しかし彼の靈の子孫--彼の信仰を學ぶもの--は世界萬物を與えらるべしという。「萬物は汝らの物なり…あるいは世界、あるいは生(ある者)、あるいは死(せる者)、あるいは今のもの、あるいは彼のもの、これみな汝らの屬なり」(コリント前書二一章二一節、二二節)とある。世界萬物の嗣子たるは、信仰によつて義とせられし者の特権であるというのである。
第四段(十七節 ~二五節)は、アブラハムの信仰の性質を説いたものである。彼は「死にし者を生かし、無き者を有りしごとく稱(とな)うる神」を信じ、汝の子孫は天の星のごとくなるべしとの神の約束ありしゆえに、「望むべくもあらぬときになお望みて、多くの國人の父とならんことを信」じた。イサクをささげよとの命に接しても「神は死よりこれを復活し得ると」(ヘブル書十一章十九節)思いて、遅疑するところなかつた。無より有を起し、死を變えて生となす神を彼は信じた。この信仰が義とせられたのである。「神はその約束したもうところをかならず成し得べしと心に決(さだ)む、このゆえにその信仰義とせられたり」とある。
我らもまた彼のごとく「死にし者を活かし、無き者を有りしごとく稱(とな)うる神」を信ずべきである。この神を信じて、死を思わず生を思い、無を思わず有を思わねばならぬ愛する者の死に會して、ただちにその復活の朝を思い、キリストよみがえりしごとく彼にある者もまたよみがえるべしと傳ぜねばならぬ。げに死を否定して生を肯定するところにクリスチャンの特徴が存する。アブラハムのこの信仰、それに我らもならわねばならぬ。そして信ずる者に復活の恩惠を賜う神をかたく信ぜねばならぬ。「われらもしわが主イエスを死よりよみがえらしし神を信ぜば、同じくかたく信ぜねばならぬ。「われらもしわが主イエスを死よりよみがえらしし神を信ぜば同じく義とせらるることを得べし」と言う。イエスを復活せしめし神、イエスにある者をいつかは復活せしめたもう神、その神を信じて、死をもつて死とせず、かぎりなき生命の門戸を思う者、永生の中に死を忘るる者、かかる人はこの信仰のゆえに義とせらるるのである。
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