ロマ書の研究第44講

 

第四十四講 ユダヤ人の不信と人類の救い(二)
九 ~ 一〇章
 
ロマ書九章、十章、十一章は一つの連続した思想の發表である。その説くところは、ユダヤ民族、ひいて全人類の救いに關する重大なる問題である。そしてこの三つの章の趣旨は、ユダヤ人の救いはいつ、いかにしておこなわるるかの問題に對する解答である。彼は第九章の四、五節において、ユダヤ民族の特権を幾つも掲げた。かかる特権を神より與えられ來たりし民族が、今やその大なる救いの恩惠より遠ざかつてゐるのは何ゆえであるか。これ單に同胞イスラエルの問題たるのみならず、また共に神の攝理の問題- 神がいかように世界を統べゆくかの問題である。これが解決せられざる時は、彼はその同胞を餘處(よそ)に異邦世界にのみ福音を宣傳するその使徒職を執り得なかつたのである。彼はまず「うめき」をもつてこのたいせつなる問題を始めた。「われに大いなる憂いある事と、心に絶えざるの痛みある事」を述べた。その憂いと痛みとは、同胞たるイスラエルの救われざる事についてであつた。そして彼は同胞の救われざる理由として三つを擧げる。第一の理由は九章に、第二の理由は十章に、第三の理由は十一章にしるされる。彼らの救われざる第一の理由は、神のみ心によるのであるという事第二の理由は、彼らの不信仰によるのであるという事第三の理由は、異邦人が救われんため、かつその結果として全人類が救われんためであるという事である。
九章は(精確にいえば九章六 ~二九節は)、右の第一の理由を述べし處である。その主眼は、救われるも救われぬももっぱら神の意志(みこころ)に基づくというにある
、しかして異邦の人救われしのち、福音の光は再びイスラエルを照らし、「イスラエルの人ことごとくわるるを得」るに至る、かくして全世界に生命の光ゆきわたり、地上の全民族に救いは臨むのである、ゆえに、今のイスラエルの福音拒否は、やがて全世界がこれを傳受する豫備であると。これパウロ世界救拯論(せかいきゅうしょうろん)であるこのパウロの大希望の豫言に接して、われらは現在の世界の状態について大いに慰められるのである。今や世界の壊亂はその極に至つたかと思われる。今や人は善意という簡單なる道德的差別をさえ認めない時代である。いっさいを自己と自己の快樂のために用いて、これを恥じざるのみか、これを誇りつつあるが現代人の心理である。そのために人類社会の醜陋(しゅうろう)堕落急轉直下の勢いを示してゐるかと思われる。パリ、ベルリン、ニューヨーク等の文明都市の大腐敗は、この事の著しきしるしである。これ實に人の意志より出でたものであつて、同時に神の意志より出でたものである。すなわちこれ明白に神の審判である。しかしながら、神はまた必ずこの暗きを通して新たなる光明の世まで人類を導きたもうであろう。ユダヤ人の不信がついに全世界の救いを起こすとのパウロの豫言にならいて、われらもまた、今の世界壊亂はついに全世界の救いにまで導かるると放言し得るであろう。人は今神の法(おきて)を破りつつあるがごとくであるが、實は神の法は人に破らるるごとき脆弱(ぜいじゃく)なるものではない。神の法は厳として千古に立つてゐる。彼は依然として全世界救拯のその聖計畫を進めつつある。やがて聖圖(せいと)の成る時は必ず來たる。あたかもわれの罪を通して神はわれを光明の境にまで導き來たりたまいしがごとく、全世界の今の罪惡を通して、彼はこれをその聖目的のあるところまで導き行きたもうであろう。その事を思うて、われらにもまた悲歎のうちに大なる慰籍がある。
これ九、十、十一章の大觀である。さらばわれらは前に歸つて十章の大意を見よう。これイスラエル不信の第二の理由である。すなわち彼らの不信は彼らの責任であるという主張の提起である。「彼らは神の義を知らず、おのれの義を立てんことを求めて、神の義に從わざるなり」と三節にある。また「すべて信ずる者の義とせられんために、キリストは律法の終わりとなれり」と四節にある。律法のおこないによつてみずからを義とせんとは、キリスト以前のことである。律法のおこないによりて、すなわち自己を義として救わるるとは、舊(ふる)き原理であるキリストが十字架において滅ぼしたる原理である今はただ信仰だけで義とせられるのである。これが「神の義」である。しかるにキリストを知らざる彼らは、この簡單容易なる義の道を捨てて、かの複雑困難なる義の道に執着してゐる。彼らは舊くして劣れるものを固くいだきて、新しくしてまされるものをしりぞけてゐる。自己の努力奮闘によつて律法の義をおこない、もつて神の前におのれを義とせんとして、信仰によつて與えらるるところの神の義を顧みない。ここにおいてかキリストとその十字架とを受けないのである。見よ、信仰の道のいかに簡單なるかを。「道はなんじに近く、なんじの口にあり、なんじの心にありと。これすなわちわれらが宣(の)ぶるところの信仰の道なり。そはもしなんじ、口にて主イエスをいいあらわし、またなんじ、心にて神の彼を死よりよみがえらししを信ぜば、救わるべし。それ人は心に信じて義とせられ、口にいいあらわして救わるるなり」(一〇・八~一〇)とある。この簡易なる信仰の義を採らずして、かの難渋なるおこないの義によれること、これユダヤ人不信の理由である。かくばかり平易簡明なる恩惠の道をすら採らない。ゆえに不信の責任は彼ら自身が負うべきものである。
實に信仰の義は簡易である。ただ信仰さえすれば義とせらるるのである。
この秘義を知らずして、イスラエルはキリストをしりぞけ、今の文明人もまた同樣にしてキリストをしりぞけてゐる。この簡易なる信仰の道に、人生の不安、歡喜、愉悦、生命および永生のあることを知らずして、人間の努力をもつて、何か良きものを人の心に人の社会に産み出さんとして、狂奔亂撃におちいり、すべて失望をもつて終わるの惨状を呈してゐる。今日の文明人はパウロ時代のユダヤ人そのままである。みずから立たんと欲するがゆえに、キリストを信受しないのである。パウロユダヤ人に悔い改めよと叫んだ。われらも今の文明人に向かつて同樣の叫びを發せざるを得ない。
第四十四講 約   説
イスラエルの不信(一〇章)
ユダヤ人は何ゆえに救われざるか。(一)聖書にかなわんがためである(九章六~ 二九節)。(二)彼らが信ぜざるがゆえである(九章三〇節 ~一〇章)。(三)彼らの不信によつて異邦人が救われ、ついに全人類が救われんがためである(十一章)。
第九章は、主として神の選み(豫定)について論ずる。イサクの招かれしも、ヤコブの選まれしも、これによる。神の選みの聖意(みこころ)の動かざらんためである(十一)。神はかくなして不義をおこないたもうにあらず。彼はあわれまんと欲する者をあわれみ、かたくなにせんと欲する者をかたくなにして、彼が神たるの権能を現わしたもうにすぎないユダヤ人の不信の原因は神の聖意にあつたされども彼らにも大なる責任あつて存す。彼らは、信仰によらず、おこないによつて義を追い求めた。彼らは、おのが義を求めて、神の義を求めなかつた。彼らは全然義の何たるかを解しなかつた。神のつかわしし者を信ずる、これすなわち神の喜びたもうわざである(ヨハネ傳六・二九)。義人かえつて義を失い、罪人かえつて義にあずかる。神が何よりも喜びたもうものは、碎けたる悔いし心である。イスラエルはこの事を忘れて、かえつて異邦人の先んずるところとなつた(三〇~ 三三)。
イスラエルに熱心がある。されども、知惠による熱心がない。彼らは神の義と人の義とを混同してゐる。神の義は信仰である。人の義は行爲(おこない)である。信仰は小兒の信頼である。行爲は大人(おとな)の努力である。前者は容易である。後者は困難である。しかしてイスラエルは易(やす)きを捨て、難(かた)きについて、その目的に達し得ないのである。愚かである。氣の毒である。行爲はいう、われ天に昇つて道を求めん、陰府(よみ)にくだつて義を探らんと。あたかもキリストはいまだくだりたまわず、いまだよみがえりたまわざるがごとくに思いて…されども、天に昇るに及ばず地にくだるに及ばず、「道はなんじに近く、なんじの口にあり、なんじの心にあり」である。道は簡單である。容易である。「なんじ、口にて主イエスをいいあらわし、また心にて神の彼をよみがえらししを信ぜば、救わるべし」。簡單明瞭であるユダヤ人はこの道を取らずして他の道を取りしがゆえに、すなわら儀式と修養と思索と工夫(くふう)とによりて、信仰によらざりしがゆえに、救いの恩惠を過したのである(六~ 十一)。
信仰の道は簡單である同時にまた普遍的である。これにユダヤ人またはギリシャ人というがごとき区別はない。これに遺傳もなければ系統もない。「すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし」である
アバ父よという小兒の信頼である。しかして神は、その子イエス・キリストにありて、ご自身をすべての人に示し、彼らをして、イエスを信じて救いの恩惠にあずからしめんとなしたもうた。簡單である。明瞭である。高遠である。深遠である。しかしてあまりに簡單なるがゆえに、ユダヤ人にはつまずくもの、ギリシャ人には愚かなるもののごとくに見ゆるのである(十二~ 十三)。
救いは福音による。人は福音を聞き、これを信じて救わる。聞く事と信ずる事である。福音士の幸福はここにある。「おだやかなることばを宣べ、また善き事を宣ぶる者の、その足はうるわしきかな」とあるがごとし。傳道は敎理の講釋でない。社会事業でない。福音の傳達である。「彼、語りたまいたれば、われもまた語る」というのが傳道である。「彼、告げたまいければ、われはそのごとく信ず」というのが信仰である。簡單この上なしである。されども信頼の道はすべての場合において簡單きわまるものである(十四~ 十五)。
福音は傳えられた。されどもユダヤ人は聞き從わなかつた。彼らはまた聖書によつて、あらかじめ福音の何たるかを敎えられた。ゆえに彼らはいいのがるべきようなし。不信の責任、全然彼らにあり。彼らは救いを逸したればとて神を恨みまつることはできない(十六~ 二一)。ユダヤ人しかり。今日の米國人また日本人またしかり。彼らは何をなしても信仰だけはなさない。宗敎研究、社会事業、平和運動、文化生活 -彼らは雑行(ぞうぎょう)に忙殺せられて正行(しょうぎょう)につくのいとまがない。米國人はキリストの十字架を仰ぎ見るの秘訣(ひけつ)を忘れ、日本人にこれをなすの謙遜と單純とがない。かくて、兩者共に、ユダヤ人のごとくに、義の律法(理想の實現)を追い求めて、これに追い付かないのである。
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