ロマ書の研究第59講
第五十九講 終結 頒榮の辭
十六章二五節以下
幾たびも終わらんとして終わらなかつたロマ書は、いよいよここに最後に達した。十六章二十五節以下は、この大書簡の最後を飾るにふさわしき大贊美である。
なんじらを堅うし得る者に
わが福音によりて
イエス・キリストの宣傳によりて
奥義の啓示によりて
永き間、世に隠れたりしも
今あらわれ
限りなき神の命(めい)により
豫言者たちの聖書をもて
信仰の服從に入らしめんために
萬國の民に示されたる
独一叡知(えいち)の神に
世々かぎりなく
イエス・キリストによりて
榮光あらんことを
この頌榮の辭のうち、根幹というべきは、「なんじらを堅うし得る者に、すなわち独一叡知の神に、世々かぎりなく、イエス・キリストによりて榮光あらんことを」の句である。あとは、この根幹に付随する枝葉である。もちろん枝葉というてもたいせつなるものではあるが、まず注意すべきは右の根幹である。「なんじらを竪うし得る者」はすなわち「独一叡知の神」である。信仰は神より與えられしもの、また信仰生活の堅立は神の導きによるのである。神は彼を信ずる者を堅うし得るのである。すなわち堅うする力を有したもうのである。
次に注意すべきは、「世々かぎりなく、イエス・キリストによりて榮光あらんことを」と、パウロがキリストを通して神を贊美したことである。キリストをもつて神と人との仲介者となし、彼を通して神と交わり、彼のゆえに罪をゆるされ、彼をもつて永生を與えらるるとの事は、福音的キリスト敎の基調である。
第一の句は「わが福音によりて」である。神は福音によりて信徒を堅うするのである。「わが福音」とあるも、べつに普通の福音と異なるものをさしたのではない。。
次には「奥義の啓示によりて」の句がある。イエス・キリストの宣傳によりてということをいいかえれば、「奥義の啓示によりて」である。そしてこの奥義は「長き間、世に隠れたりしも、今あらわれ」たものである。「われらの語るところは、隠れたりし神の奥義の知惠なり。こは創世(よのはじめ)の先より、神のあらかじめわれらをして榮えを得しめんがために定めたまいしものなり」(コリント前書二・七)とパウロはかつていうた。そのとおり、あらかじめ定められてはいたが、隠れていたのである。その隠れていたものが、今、神のひとり子の出現、その生涯、その十字架、その復活によりて、明らかに啓示せられたのである。これすなわちパウロのいわゆる「わが福音」である。わが福音というも、決して自己創造の敎えではない。神よりキリストを通して啓示せられた敎えである。もし福音が人間創造の敎えならば、これに眞の生命はない。たとえ榮ゆるも、朝に咲きて夕に枯るる野の花の榮えのごときものである。またその宣傳者たるパウロその他の使徒たちに、かくのごとき岩よりも堅き確信と火よりも熱き熱心とを與えたはずがない。まことに福音が神の啓示なればこそ、彼はその宣傳のためにすべてをなげうつて毫(ごう)も悔いず、わしのごとく翼を張つてのぼつたのである。
そしてこの奥義の今啓示せられたるは、「限りなき神の命により」である。永遠にいます神は、ここにこの時をもつて、この奥義の啓示をなすことを、みずから定めたもうたのである。すなわちこの福音は全然神の意志より出でたのであつて、何ら人の心に依據しないのである。またこの奥義の啓示は「豫言者たちの聖書をもて」である。すなわち舊約聖書をもつて神の啓示はおこなわれたのである。
なんじらを堅うし得るものは神である。神は福音によりてなんじらを堅うするのである。換言すれば、イエス・キリストの宣傳によりて、なんじらを堅うするのである。また換言すれば、奥義の啓示によりて、なんじらを堅うするのである。--この奥義は、長い間、世に隠れいたれど、今あらわれたのである。そのあらわれたのは、限りなき神の命(めい)によるのであつて、舊約聖書を通してあらわれ、かつ萬國の民に、彼らをして信仰の服從に入らしめんために、示されたものである。--かくのごとくして、なんじらを堅うし得る神に、すなわち独一叡知の神に、世々かぎりなく、イエス・キリストによりて、榮光あらんことを願う
この頌榮の中にロマ書全体が要約せられてゐるのである。
神の榮えを贊美することは、クリスチャンがすべての場合においてなすべきことである。いかに大なる成功をもつて見舞わるるも、彼はこれを自己の力に歸(き)してはならない。
げにしかり。すべては神より出づるものである。人はただ神に使役せられて、かの事この事に當たるにすぎない。人に何かの能力あるも、それはもとより天賦(てんぷ)である。人に何の誇るところがあり得よう。人は神の前に立ちて絶對の謙遜あるのみである。彼は事に當たりて常に独一叡知の神を贊美すべきである。一つの事をなし終えて神を贊美し、一日を暮し終わりて神を贊美し、一週を、一月を、一年を送り終わりて神を贊美すべきである。囘顧して自己に何かの善きを見出だすは、いまだ信仰の不純なる者である。そしてこの世を去るの時、みもとに召さるるの時いよいよ來たらば、一生を囘顧して、自己の功績を思うことなく、すべての良き事を神に歸し、もつて聲高く頌榮の辭を述ぶべきである。大著述の最後を頌榮をもつて結びたる大使徒にならいて、われらも、與えられしわが小生涯の最後を、頌榮をもつて結ぶべきである。われらをして、今も、後も、いつまでも、神を贊美せしめよ。しかり、神を贊美せしめよ。
以上のごときが、實にこの偉大なる書簡を結ぶところの大贊美の辭である。むなしき語は一つもない。その一つ一つが重大なる思想の壓縮である。大著述をなして後も大使徒の力は少しも衰えずして、その終わりに、かくのごとく盛んなる、靈的生命の結晶ともいうべき大贊美が、彼の魂の底より天に向かつて擧がつたのである。事それ自身が實に壯美なることである。これぞ眞の畫竜點晴(がりゅうてんせい)である。これあつて、ロマ書は永久に世界第一の書である。
第五十九講 約 説
終結 頌榮の辭(十六章十七節以下)
なんじらを堅うし得る者、わが福音とイエス・キリストの宣傳により、すなわち、長き世の問、隠れたりしも、今あらわれ、限りなき神の命により、豫言者たちの聖書をもて、信仰の服從に入らしめんがために萬國の民に示されたる奥義の啓示によりて、なんじらを堅うし得る者、すなわち独一叡知の神に、榮光、世々かぎりなくイエス・キリストによりてあらんことを。 アァメン
實に偉大なる重い言葉である。最後にロマ書を總括して餘すところなき言葉である。
ことばはまわりくどいように見ゆるが、その意味は簡單明瞭である。「わが宣べし福音をもつて、なんじらを堅うし得る者、すなわち独一叡知の神に、榮光、世々かぎりなくイエス・キリストによりてあらんことを」というのが、この頌榮の辭の大意である。くどいと思わるる部分は、パウロの宣べし福音の説明であつて、比較的に輕い言葉である。論理學上にいわゆる大前提と小前提とであつて、まず大を解して、小はおのずから解けるのである。
なんじらを堅うするの力を有したもう者、すなわち独一叡知の神に、「榮光かぎりなく、イエス・キリストによりてあらんことを」と。なぜキリストによらなければならぬか。これは省いてもよいことばではないか。しからずである。これは必要缺くべからざることばである。神はキリストをもつて人に救いを施したもう。人はまたキリストによりて神に歸ることができる。神の榮光はキリストによりて現われ、またキリストによりて彼のみもとに歸る。キリストなくして救いあるなし。永生あるなし。復活あるなし。勝利と榮冠あるなし。榮光はすべてキリストによりて、すなわち彼を通して、父なる神にあれである。