ロマ書の研究第56講

第五十六講 小問題の解決
十四章以下の精神


 

 
 ロマ書は第十三章までをもつて、福音に關するたいせつなる問題は説き終えたのである。個人はいかようにして救わるべきか、人類はいかようにして救わるべきか、人はクリスチャンとして、道德的にいかなる行爲をなすべきか、およそこれら重要なる問題に對しては、すでに充分に解答が與えられたのであ
 まず十四章を見よ。パウロがこの問題をキリスト的愛の高處に立ちて解決したるはすこぶる注意すべき點であるといわねばならぬ。次の十五章前半は、十四章と同じ精神の続けるものであり、そして十六章に入つては全く個人的のあいさつとなる。ここにパウロは幾人かの友人についてしるし、その一人一人について簡潔適切なる紹介をなしてゐる。ここに彼の友人觀を知ることができるのである。彼のごとき大宗敎家がいかなる友を持つていたか、またその友について、いかなるこまかき、また良き見方をなしていたか、その一つ一つを見て、偉大なる胸中に潜める婦人のごとく繊細(せんさい)優雅なる愛をうかがうことができる。まことに注意すべき處である。そして十六章は最後に至つて二十五節以下の壯大なる贊美となつて、ここにいよいよこの大書簡は結了するのである。
 キリストは神である。また人である。彼はこの世の聖人のごとく、神らしき人、または人にして神のごときものではない。彼には二つの性質があつた。いわく神性、いわく人性。すなわち彼は全き神であつてまた全き人であつた。クリスチャンはもちろん純然たる人であるが、またキリストの宿るところとなつたものである。ゆえに、ただの人とはちがう。キリストにありて「みな新しく」なりし者である。彼の中にはキリストがある。ゆえに彼に神心(かみごころ)があると共に人心がある。すぐれたるクリスチャンは、強く神らしく(intensely divine)あると共に、また強く人らしく(intensely human)ある。努力修養によつて人らしきところを殺して、いわゆる聖人となつたものではない。特別の修養工夫によつてこの世を超越し人間性を脱却するということが佛敎の理想であるとするならばこの點においてキリスト敎と佛敎との相違ははなはだ著しいのである。特別に聖き生活に入る事、特別に聖き事に從う事、すなわち形の上の聖さは、キリスト敎においては少しも要求されていない。クリスチャンは、形においては、この世の人と何ら異なるを要さない。心もまた人らしくあつてよいのである。ただその人らしきが神の靈によつて深められて、強くまた深く人らしくなるを要するのである。
 人に缺くべからざるはこの二つの方面である。Divinity(神らしき方面)とHumanity(人らしき方面、これを人間味と譯すべきか)。天に關しての熱心と地に關しての熱心。この二つが互いに相補つて眞の人が生まれる。
 ロマ書は偉大なる神學書と稱せらる。そして實に偉大なる神學書である。個人の救いと人類の救いと實践道德とに關する完全なる敎えの提唱である。とうていこれ以上の神學書がこの世に現わるることはない。ロマ書以前にロマ書なく、ロマ書以後にロマ書なきものである。しかしながら、この書がもし神學の提示のみをもつて終わるならば、あまりに荘高厳粛に過ぎて、人をして近づくを得ざらしむるものとなるに相違ない。しかるにここに、十四、十五、十六章がある。これは彼とローマの信者との個人的關係を示すものにして、彼の人間味のうるわしさが遺憾(いかん)なく表われてゐるのである。これあるがために、ロマ書がわれらになつかしき書となり、またパウロ彼自身が親しき人となるのである。。
 十四章は、第一節においてまずいう、「信仰の弱きを受けよ。されど、その思うところをなじるなかれ」と。これ全章の精神である。信仰上の根本問題については争わねばならない。しかし生活上の小問題については他の信者の思うところをなじつてはならない。彼をしてその信ずるままにおこなわしめなくてはならないそして彼をさばかずして、兄弟の一人として愛をもつて受けねばならない。人の小問題にまで干渉して、彼をしてわれの意に從わしめんとしてはならない。人おのおの見るところあり。しかるがゆえに、互いに人の意(おもい)を尊重し、その自由を認容し、ひろき愛の心をもつて、互いに相受くることを心がけねばならぬ。
 強き信者があり、また弱き信者があつた。かくて二種類の人のあることは、べつに困つた事ではない。困つたことは、兩者の間がとかく愛の一致を缺いた事であつた。強き者は弱き者を小心者としてあざけりて、わざとその前に食するような事をなし、弱き者は強き者を不敬虔不謹愼となして、行動を共にするを恥じ、その間にいとうべき乖離(かいり)が起こりつつある状況においてあつた。宗敎的に偉大なりし彼は、一人の弱き信者に對しても、妻が夫を思うごとき熱愛をもつてするほどに、人間的であつた。そして多くの信仰の偉人はみなそうであつた。これが靈的偉人の靈的偉人たる特色である。靈的に大なると共に人間味に富めること、弱き兄弟のために自己の自由を制限せんとする心やり、これが眞の信者に存するものである。われらまた深くパウロのこの心に汲(く)み、強く宗敎的たると共にまた強く人間的なる、情味のゆたかなる、愛において繊細なる人とならねばならない。
第五十六講 約 説
小問題の解決
 
 ロマ書は第十三章をもつて終わつたものと見ることができる。人の救わるるは何によるか?信仰による。ユダヤ人の多數の救われざるは何ゆえか?萬民が救われんがためである。キリスト敎道德の根底、件質、實行、奨励、これらの諸問題に徹底的解決を供して、パウロはここに筆をおいてよいのである。十三章十四節に次ぐに十五章三十三節……「平和の神、なんじらすべての人と共にあらんことを願う。アアメン」……の語をもつてこの書を終わつてよいのである。
 「神の國は、食らう事または飲む事にあらず。ただ義と平和と聖靈による歡喜にあり」(十七)。神の國は肉の事にあらず、靈の事なり。「イエスいいけるは、すべて口に入るものは腹を通りて厠(かわや)に落つ。口より出づるものは心より出づ。これ人を汚すものなり」(マタイ傳十五・十六 ~ 十八)とあるがごとし。何を食おうが(ロマ書のこの場合においては、一度偶像に供えられし肉をさすがごとし)、何を飲もうが、その事は人を汚さない。クリスチャンにはいわゆる「汚らわしき物」はない。しかしながら、心より口を通して出づるところのもの、すなわち無念、僞證、そしり、これらはまことに人を汚すものである(同十九 ~ 二〇)。されば信者は肉の事について争つてはならない。靈の事は大問題である。肉の事は小問題である。小問題に熱心になりて大問題を忘れてはならない。
 禁酒禁煙の事、觀劇の事、土曜日を安息日として守る事、これみな小問題である。信者はこれがために相互をさばいてはならない。愛のためにこれを譲りて、キリストの愛をあらわさねばならぬ。
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