ロマ書の研究第47講

 

第四十七講 キリスト敎道德の性質
十二章二節
 
ロマ書第十二章は、信者の一人としての道、十三章は、社会の一員としての道を説示したものである。そして十四章、十五章は同じく實践上の問題にかかわつてはゐるが、特にローマ敎会特有の事柄について注意を與えたものである。ゆえに一般的のキリスト敎道德といえば、十二、十三章をもつてほぼその大綱を盡くしてゐるのである。しかして前講に説きしごとく、十二章の第一節は、キリスト敎道德の根底であると共に、またそれが實行の動機であるということができる。すなわち神の愛に感激して全き獻身をなせよとのことである。もしこの事さえ充分にできれば、他の事は學ばずともおのずから明瞭となるのである。しかしパウロは念のため、なお諄々(じゅんじゅん)としてキリスト敎道德の全般を語らんとするのである。
第一節はキリスト敎道德の根底である。これに對して第二節の説くところはそれの性質である。そしてパウロは彼特有の習慣として、まずその消極的半面を説き、しかるのち、その積極的半面を説くのである。消極的半面とは二節の前半である。いわく、またこの世になろうなかれと。そして積極的半面とは二節後半である。いわく、なんじら、神の全くかつ善にして喜ぷべき旨を知らんがために、心をかえて新たにせよと。まことにこの兩方面をあわせる時、そこにキリスト敎道德の性質は遺憾なく知らるるのである。健全なる道德は、一方においてはこの世の潮流に對する反對、他方においては心の革新である。この兩者を兼ねるところにキリスト敎道德は成立する。しからざるところにはキリスト敎道德はないのである。
「この世になろうなかれ」という。この世にならうところにはキリスト敎道德はない。ゆえに、「なろうなかれ」は、この世の移り行くさま、流行、風潮に加わるなかれという意味である。世は常に風のごとく流れ、潮のごとく動くものである。あだかも婦人の服装の流行が、流行という文字が示すとおり、絶えず流れ行くがごときが、いわゆるこの世の風潮であるしかるに、キリスト敎会の多くが、またキリスト信者の多くが、この世の流行にならいつつあるは、痛歎すべきことである。變わりゆくこの世の相(すがた)におのれを似せ、周圍の色の變わるごとにこれと同じ色に塗りかえ、世が帝國主義を高唱する時はこれに同(どう)じ、世が社会運動に熱狂する時はまたこれに加わり、もしかく世にならわざる時は敎会または信者の生命は衰うべしと考える。しかし世にならわざるところに敎会および信者の生命がある。世は敎会に向かつておのれになろうべきを要求すれど、少しく時日を經過すれば、おのれにならうものを卑しむるのである。しかるときは味を失いし鹽のごときもの、後は用なし、外に捨てられて人に踏まるるのみである。しかるに、この事に氣づかずして、浮き草のごとく潮流に流されつつある現代敎会の愚かさよこの世は滅ぶべきもの、その根本精神は物欲追求にある。神を信じて永遠の國をおもう者は、かかる世の流行風潮の外に超然として独自の境を守つていなくてはならぬ。ゆえにいう、「この世になろうなかれ」と。
 
心をかえて新たにせよというのは、人生觀を一變し一新せよとの意である。物の見方を全然改めよとの意である。パウロがここに魂(スピリット)といわず心情(ハート)といわざるに注意せよ。われらは心思、判斷力、常識を養わなくてはならぬ。そしてこの世の人のそれと異なるある新しき世界へ心の目を向けねばならぬ。普通の心は「肉の心」(コロサイ書三・十五、おのれの心とあるは誤譯)である。ゆえにこれをかえて靈的の心とせねばならぬ。かく、心を變革するためには、靈魂の改造、情性の涵養が必要である。しかしパウロの特にここに力説するところは知的判斷力の改新である。すなわち心をかえて新たにせよである。これ眞に重要なる戒めである。
なぜ心をかえて新たにすべきか。そは「神の全くかつ善にして喜ぶべき旨を知らんがため」である。ここに、神の旨(みこころ)という語に對して三つの形容詞が用いてある。第一は、「善なる」である。第二は、「喜ぶべき」である。第三は、「全き」である(原語の順序による)。神の善なる意、喜ぶべき意、全き意である。かかる神の聖旨を知ることは、クリスチャンの實際生活において常に最も必要なる事である。これがためにはまず心をかえて新たにせねばならぬのである。
 
さらば神の旨を知るの道いかにあるいは天然の中に、あるいは世界の推移の中に、これを探ることができる。
しかしまず第一には聖書の研究である。聖書の中には明らかに神のみ旨がしるされてゐるこれを「心」をもつて-- かえられたる新たなる心をもつて --學び、そこに示されたる聖旨を知らねばならぬ。由來、キリスト信者と稱する者にして、聖書を充分に讀まざる者、聖書の研究にすこぶる冷淡なる者多きは、彼らの大通弊である。そして神のみ旨といえばただ「愛」であると考えてゐる。しかしその愛とはいかにと問えば、明瞭なる答えをなし得る者はたして幾人かある。神のみ心たる愛は、かく一口に人のいうほど簡易なるものではない。愛とはいかなるものなるかを知るために、聖書の全体を學ぶ必要がある。健全なる知的理解力をもつて聖書を充分に研究し精讀せずしては、神の善にして、喜ぶべき、全き旨を知ることはできない。もしかくして充分に聖書を學ぶ時は、そこに示されたる神のみ心の全く豫想外なるに驚くのである。さればわれら、普通の心を捨て、肉の思いを去り、變革せられたる新たなる心をもつて聖書を學び、もつて神の全き旨を探るべきである。聖書の研究は決して知的遊戯ではない。それによつて生ける聖旨を知り、これを實際生活においておこなうためのものである
今第二節を全体として見るに、全くこの世の人の意表に出づる戒めであることを知るのである。この世になろうなかれとは、まず人の意外とするところである。この世の風潮とは多數決である。多數決は眞理であると人は考える。しかるにパウロはここに、まずこの世になろうなかれというのである。また人は宗敎問題においては知性よりも第一に情性であると考え、情性の涵養だけで足ると考える。しかるにパウロは、知性を變革し改新して神の心を知れと敎える。そして神の心といえば、愛をさすのであつて、わかりきつてゐるとの普通の考えに反して、右のごとき新たなる知性をもつてこれを究(きわ)め學べと勧める。「心をかえよ」とは、まず精神を改め、觀念を新たにして、形までもおのずから變わることをいう。この世のスケーマすなわち變轉きわまりなき外相に從いておのれもまた變轉するなかれと。
 
この世になろうなかれ、心をかえよは、原語においては共にこの中態を用いてゐるに注意すべきである。すなわち、自力のみをもつてこの世にならわず心をかえよというのではない。かくいわるる時、パウロのこの勧めは不可能を強(し)うるものである。さりとてまた全然自分の意志なく全く受働的にかくなれというのではない自己の意志を少しも動かさずして、ただ靜かに受身の態度におのれを置いたのみでは、この勧めの實現せらるる時はない。この世にならわないこと、心をかえて新たにすること、これは自力と他力の結合の上に初めておこなわるるものである。世にならわじとの決意、心をかえんとの努力、それをいだいたままにて、神の大なる能働(はたらき)の中におのれを投ずるのである。そして神の力に浴してわが決意を實現し、わが努力を有效ならしむるのである。これがこの戒めの實行せらるる道である。。
第四十七講  約 説 キリスト敎道德の性質
キリスト敎道德の根底は前講のとおりである。すなわち神のわれらに施したまいしもろもろのあわれみに對し、報恩の祭として、わが身を生けるいけにえとしてささげまつることである。さらばその性質いかに。これ第二節の明記するところである。「またこの世になろうなかれ。なんじら、神の全くかつ善にして喜ぶべき旨を知らんがために、心をかえて新たにせよ」と。
「この世にならう」。この一句に對する最も好き註解は、ヨハネ第一書二章十五、十七節における使徒ヨハネのことばである。いわく「この世あるいはこの世にあるものを愛するなかれ。人もしこの世を愛せば、父を愛するの愛そのうちにあるなし。おおよそ世にあるもの、すなわち肉体の欲、目の欲、勢力より起こるたかぶり、これらはみな父より出づるにあらず、世より出づるものなり。この世とその欲とは過ぎゆくものにて、神の旨をおこなう者は永遠にのこるなり」と。そは、この世とその欲とは過ぎ行く(流れ行く)ものにして、永遠の生命を目的とする者のかかわるべきものにあらざればなり。信者の堕落、敎会の腐敗は、常に「世にならう」すなわち世と流行を共にするより來たるのである。
「心をかえて新たにせよ」。これがキリスト敎道德の積極的半面である。「心」は、この場合においては靈(スピリット)ではない。心(マインド)である。判斷力である。物の見方である。人生觀といい宇宙觀というがごときものである。「なんじの人生觀を一變してこれを改めよ」というならば、よく原語の意味を通ずるであろう
ヤコブ書三章十七節にいう。「神の旨はすなわちこれなり。なんじらの清からんことなり」と、
テサロニケ前書四章三節にいい、「常に喜ぶべし。絶えず祈るべし、すべての事感謝すべし。これなんじらに求めたもう神の旨なり」(同五・十七)という。その他神の旨について聖書の敎うるところ、はなはだ多し。
 
しかしてこの知惠を探り、この聖旨を知りて、おこのうべしという。ここに聖書研究の必要があるのであるパウロはロマ書十二章において、信者の知的修養の必要を高調してゐる。神を知るの知識は、天然を知るの知識とひとしく、ただ漠然として心に臨むのではない。これは、きよめられし知識によつて聖書の内に探るべきものである。しかるに事實いかにというに、たいていの場合において、信者は神の聖旨を探らず、惡意なきをもつて神の聖旨と認め、これをおこなつて神に仕えつつあると信ず。キリスト敎会は聖書の研究を怠りて、聖旨ならざるものを聖旨なりと想像して、自己に無限の危害を招きつつある。
「ささげよ…なろうなかれ…心をかえよ」。「ささげよ」は、動詞アオリスト動詞であつて、斷然意を決して一時に身を神にささげよとの意である。「なろうなかれ…かえよ」は、中調現在動詞であつて、信仰的努力を継続せよとの意である。獻身は一時的に決行すべきもの、行爲と改心とは常時連続的に實行すべきものである。世にならわざるをもつて習慣とせよ、日々に心を新たにしてまた日々に新たにせよと。決心の後に永久的努力が続くのである。
努力といいて、自力(じりき)の謂(いい)ではない。世の流行のいたすところとなるなかれ、聖靈の恩化に身をゆだねて、その聖化するところとなれよと。中調動詞の意味はかくのごとくに解すべきである(英譯參考)。信者はいかにして心をかえて新たにすることができるか。自己の奮闘努力によりてではない。自己以外の感化力によりてである。コリント後書三章十八節にいえるがごとし。「われらすべて顔おおいなくして鏡に映すがごとく主の榮えを見、榮えに榮え、いやまさりて、その同じ姿にかわるなり。これ主すなわち御靈(みたま)によりてなり」と。主の榮えを仰ぐのはわれである。ここにわが努力が要(い)る。されども、われを化する者は聖靈である。われは彼を仰ぐによりて、彼の化するところとなるのである。「心をかえよ」と譯せられし原語はかくのごとくに解すべきものであると思う。パウロの傳うる道德は、道德であるが、明白なる福音的道德である。すなわち主を仰ぎ見るによりて起こる道德である。
 
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