ロマ書第57講

第五十七講 パウロの傳道方針
十五章十四節以下


 

 
 第十二、十三章をもつて一般的の實践道德(じっせんどうとく)を説き、十四章よりローマ敎会特有の問題に入つたこと、前述せるとおりである。そしてパウロは、後者のために、十五章十三節までを用いて、熱心に説くところあつた。そして最後に「望みを與うる神の、なんじらをして、聖靈の力により、その望みを大いにせんがために、なんじらの信仰より起こるすべての喜びと平安を滿たしめたまわんことを願う」と述べて、結んでゐる。ロマ書の本文はここにひとまず終わつたと見ることができる。一章の十六節より十五章十三節までをもつて、數式の解明および實践道德の提唱は結了したのである。ゆえに、残るは餘論またはあいさつのごときものである。これすなわち十五章十四節以下である。
 十五章十四節より章尾までは、もっぱら自己にかかわる事の説明である。これ一種のあいさつのごときものである。しかしその中にパウロの傳道方針がはっきり表われてゐる。われらはこれに注意すべきである
 まず十四、十五節にいう、「わが兄弟よ、われ、なんじらが仁慈に滿ち、すべての知に滿ちて、互いに勧め得ることを信ず。されども兄弟よ、われなおなんじらに思い出ださせんため、はばからずしてほぼなんじらに書き送れり」と。ここに見るは、パウロの大なる謙遜である。彼もとよりローマの信者に敎うるに足る充分の力あり、彼らまた彼より敎えを受くべき人たちであつたこと、もちろんである。しかしながらこの敎会は彼の創設した敎会ではなかつた。その中に彼の知れる信者ありしとはいえ、大部分の敎会員は未知の人であつたに相違ない。ここに適當の禮節と謙遜とを要する理由が存する。ゆえに「なんじらはわれより敎えらるる必要なき人たちにして、信仰とおこないとに秀(ひい)でてゐるけれども、なお知れる事を思い起こさしめんために、かく長々と書いたのである」との意味をまず述べるのである。彼のごとき、種々の事において優秀なる人物が、また謙遜においても優秀なりしは、注意すべき點である。謙遜の要なきに謙遜するところに彼の偉大が存する。もし彼にこの美點がなかつたならば、他の幾多の長處もまた輝きを薄くしたに相違ない。この美德ありて、他のすべての長處がいっそう光輝を増すのである。これ明らかに彼の靈的偉人なりし特徴である。ために、彼の人格が、いっそうの美しさと、えらさとを加えるのである。われらはよろしくパウロのこの態度を學ぶべきである。しかのみならず、かく人の感情を重んじ、人の誤解を避けんためまた良き感じを起こさしめんために細心の注意を拂いたる用意周到を見よ。ますますもつて彼の偉大を示すものではないか。
 十五節の最後には「これ神のわれに賜うところの惠みによるなり」とある。すなわちローマの信者に向かつて福音を説きしは、神より賜わりし恩惠によるというのである。この恩惠とは何ぞ。これすなわち特に彼に賜わりし異邦傳道職である。彼は十六 ~ 十九節においてこれを説明した。彼は神に招かれてこの大任を授けられ、キリストの役者(えきしゃ)となりて、もっぱら異邦人敎化に從い、キリストに助けられて「異邦人を從わしめんために、しるしと、奇跡の力と、聖靈の力をあらわし、ことばとおこないとをもて、エルサレムよりあまねくイルリコに至るまで」福音を宣傳した。これ今まで彼のなせしところであつた。そしてこの異邦傳道はこれからもますます熱心になさんとするところ、すなわち彼の一生の業である。ゆえにローマの信者に向かつて福音を説くも、またこれこの職分に忠實ならんがためである。ローマの敎会が異邦にある敎会なるがゆえに、その敎会に向かつて、彼が異邦使徒たるがゆえに、敎えを説くのである。
 二十節において、パウロはその傳道上の大方針を披瀝(ひれき)した。すなわち「かつわれ、愼みて他人の置きし土臺に建てじと、イエスの名のいまだとなえられざる處に福音を宣べ傳えたり」という。彼は主として心靈未開の野の開拓に從事したいまだ人の斧(おの)を入れざる樹木を切り倒し、いまだ人の鋤(すき)を入れざる地を耕して、そこに福音の播種(はしゅ)をなすをもつて、その一生の大方針とした。ゆえにユダヤ傳道には手を下さざるのみならず、異邦においても、他人の建てた敎会はつとめてこれを避けんとした。彼は福音の全く入りおらざる地、一人も信者のなき地を選んで、そこに福音を宣傳したのである。
 心靈未開の地は全世界に滿ち滿ちてゐる。パウロはその開拓に從事して日もまた足らざるありさまであつたゆえに、ローマにいたらんとするも、いたる時を持たなかつたのである
 ローマ敎会はパウロの建てた敎会ではない。ゆえに彼はこれに對して適當なる遠慮と禮儀を表わした。他人の事業にかかわることであるゆえ、綿密なる注意をもつてこれに對し、もっぱら他の権限内に自己を入るるようのことを避けた。。パウロのこの心事を知りて、ローマの信者はかえつてパウロを自己敎会の監督として迎えたしとの心をいだいたかも知れない。しかしながらパウロは他人の建てし土臺に建つるを潔しとしない。彼の思うところは西陲(せいすい)イスパニヤである。小アジアギリシャとの傳道を終えたる彼は、スペイン傳道のためにその残世をささげんと志したのである。しかしローマ行きは多年の宿望であれば、スペイン行きのついでをもつてローマに立ち寄り、そこにある期間を愛の交換に送りてのち、ローマの兄弟の祈祷に送られてスペインに行こうと志したのである。
 
 パウロはこの世界を家とする傳道者であつた。萬國の民に福音を宣傳せよとの主の命令を彼は實現せんと欲した。從つて他人の拓(ひら)きし處を避けて、もっぱら光の照らぬ野に谷に、光を照らさしめんとした。これ彼の一生いだきて變わらざりし聖望であつたゆえに彼は異邦世界の各要地に播種(はしゅ)しつつ、進み進んでついに當時の世界の西陲なるスペインを志すに至つたのである。
 
 しかるに今の日本人の考うるところは何か。その望むところは何か。その最大の問題は、物質問題、經濟問題である。その最も望むところは自己の収入の些少(さしょう)の増加である。または自己中心の小さき戀愛問題である。その最も好んで讀むものは、遊戯的の愛欲を題材とした片々たる駄小説の類である自己の小利害 -- これが現代の日本人を支配してゐるすべてである。實に侏儒(しゅじゅ)の集合というべきはわが民族の現状ではないか。そしてクリスチャンと稱する者までがこの惡風に染みて、多くはただ自己の小慰安のためにのみ福音を信じつつあるは痛歎すべききわみであるかく、おのれを主とする信仰は決して實の信仰ではない。おのれを忘るる信仰こそ眞の信仰である。おのれを忘れて世界を思うこと、これをわれらは日本今日のキリスト敎徒に勧める。廣漠なる世界、そこにはいまだ福音の光に觸れざる民が何億となく存在してゐる。福音の光に照らされざる地が幾千幾萬マイルとなく存してゐる。このことを常に忘れてはならない。もとより世界傳道の使命を受くることなくして世界傳道の旅に上ることはできないゆえに傳道者は特別の人に限る。ただ、すべての信者に要求せらるることは、自己の慰安を主とする信仰を捨てて、世界を思う信仰をいだくことである。かくして、一身の利害得失を忘れて、わが信仰生活の性質を向上させその内容を豐富にする心がけを持たねばならぬ。
 ゆえに、パウロの傳道計畫を學び、その傳道の方針を探ることは、單なる史的研究ではない。これはまた實に自己を覺醒さするための研究であるわれらは深く彼の心に汲(く)み強く彼の心にならうことを努むべきである。
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