ロマ書の研究第58講

第五十八講 パウロの友人録
十六章一 ~ 二四節


 

 
 パウロは自己の傳道計畫を説明して第十五章を終えた。そしてその最後に「平安の神、なんじらすべてと共にいまさんことを願う。アァメン」と、あたかもこの大書簡を結ぶがごとき一語を下した。彼はこの時はもう筆をおこうとしていたのかも知れぬ。しかしこの書簡の持參人なるフィベを一言ローマの信者に紹介するの必要を思い起こして、十六章一、二節の語を成した。そしてさらにローマにある彼の友人を想起して、その名を列記し、「安きを問え」の連發をもつて十六章までに至つたのである。

 

 すでにキリストの在世中にも幾人かの婦人が弟子の中にありて、それぞれ重き役目に當たり、ある意味において男子にまさりしこと、四福音書にしるさるるとおりである。そしてここにしるさるるとおり、使徒時代においてもまた婦人に多くの善き信者ありて、彼らは男子に劣らぬ良き働きをなしたのであるかくて婦人はキリスト敎世界において事實的にその値を示して、その地位を高め進んだのである。由來ギリシャ、ローマの文明は決して婦人を重んずるものではなかつた。その社会においては著しく男尊女卑の風があつた。當時の哲人賢者の著書を見るも、その婦人觀は一般のそれと似たものである。かかる時代と社会にありて、福音は、新たに婦人の價値を發揚し婦人の地位を高めし點において全く独創的であつた。これ福音の革命的性質そのものの一表顯である。パウロはコリント前書において「女のかしらは男なり」(十一・三二)との男主女從主義(男尊女卑にあらず)を主張しながらも、「されど、主にありては、男は女によらざることなく、女は男によらざることなし」(十一・十一)ことの、一種の平等觀を述べてゐる。そしてまたここには、その友人録中に、幾人かの女性を擧げて、彼らを推奨してゐる。これ當時の大哲學者たるセネカやシセロといえどもとうていなし得ぬところであつて、パウロの革命的なるを充分に語ると共に、彼をかく革命的にせし福音そのものの、革命的勢力たるを知るのである。
 
 次に注意すべきは、ここにしるされし人々がみな信仰の勇士なることである。あるいは富者もあつたであろう。高官にある人もあつたであろう。あるいは貧しき下層社会の人もあつたであろう。あるいは奴隷もあつたであろう。それがみな愛と信仰のゆえに一致して、ここに一つのうるわしき靈的一団を形成したのである。ここにしるさるる二十七人が、パウロの知れるローマ信者にして、いずれも良き信仰の持ち主なるを思えば、彼の知らざるローマ信者中にも幾人かの良き信者ありしこと、もちろんである。もつて初代敎会の靈的豐強を知るのである
 なお注意すべきは、五節前半「またその家にある敎会にも安きを問え」の一語である。敎会とありても、今日の敎会とは大いにちがう。これは原語エクレシヤであつて一つの団体をなしてゐる信徒全体を意味する語である。すなわちこの場合においては、プリスカ、アクラの家に幾人かの信者がたびたび集会(あつまり)をしたその集会の人々をさしたのである。今日のいわゆる敎会というごとき組織的のものは、紀元三世紀まではなかつた原始敎会はただ愛をもつてつながる兄弟的団体たるにすぎなかつた。ローマ敎会というても、べつに堂々たる会堂を有していたわけではない。ただ信者の家で会合を持つだけのものであるプリスカの家にある敎会というのはその一つであつて、なお他にもこれに類するものがあつたのであろう(十四 ~ 十五參照)。實に簡素な、單純な、べつに敎職という職業的のものもなく、敎権とか敎会政治とかいう、この世の政治組織をまねたものもなく、自由な、樂しい敎会であつたのである。かかるものが敎会であるならば、われらももちろんこれをしりぞけない。いな、これをわれらの靈的家庭として迎える。しかり、かくのごときもののみが眞の敎会である。キリスト敎が發剌(はつらつ)として生きていた原始時代においては、敎会とはすべてこれであつた。のち、靈において失いしところを肉において補わんとして、今見るごとき敎会なるものが生まれたのである
 
 時は紀元五十九年の春のころであつたと史家はいう。パウロは捕われの身ながらも、春のごとき若き希望に輝きて、イタリヤ半島とシシリー島との間を北上して、半島西岸の港ポテオリに上陸し、そこより陸路ローマに上り、ローマの兄弟たちと相合した。その時、プリスカ、アクラ以下數十名(または數百名)の兄弟姉妹たちの喜びはいかに大なりしか。また多年翹望(ぎょうぼう)の對象なりしローマ府を見し時の大使徒の喜びはいかなりしか。この地に數年を過ごせし間、この大使徒と信者たちの交わりはいかにうるわしくあつたであろう。これを、兄弟姉妹相争う今日の敎会においてながめて、無量の感慨に打たれざるを得ないのである。
 
 
第五十八講 約   説
パウロの友人録(十六章一 ~ 十六節の解譯)
 
私は、諸君に、私たちの姉妹フィベを推薦(すいせん)する彼女はケンクレヤの敎会の女執事である

キリスト・イエスにありて私と共に働く者なるプリスカとアクラに平安(やすき)を問われたし。

私の愛するエパネトに、その平安を問われたし

私たちのために多く努力せしマリヤ私と同樣に囚人となりしアンデロニコユニアスに、その平安を問われたし

主にありて私の愛するアムプリアトキリストにありて私と共に働くウルバノ、また私の愛するスタキスに、その平安を問われたし(九)キリストにありて鍛えられたるアペレにその平安を問われたし(一〇)

アリストブロの家の者に、その平安を問われたし(一〇)

私の血縁の者なるへロデオンに、

ナルキソの家の屬(もの)にして、キリストにある者に、その平安を問われたし(十一)

主にありて努力せしツルパナとツルポサ

愛せらるるペルシスに、その平安を問われたし。彼女は主にありて多く努力せる者である(十二)

主にありて選ばれたるルポスとその母とに平安を問われたし。彼の母はまた私の母である(十三)

アスンクリトと、フレゴンと、ヘルメスと、パトロバと、ヘルマスと、また彼らと共にある兄弟たちに

ピロロゴユリヤ、ネレオとその妹、オルンパ、ならびに彼らと共にあるすべての聖徒に、その平安を問われたし(十五)

諸君が、聖き接吻をもつて、相互の平安を問われんことを望む。キリストのすべての敎会、諸君に平安を問う(十六)
 
以上の略註
 
 以上は、パウロのローマにおける友人録とも、またローマ敎会の役員録とも見ることができる。またこれより演繹(えんえき)してローマ敎会の組織いかんをうかがうことができる。固有名詞は確實なる事實を語る。ロマ書は、生きたる人より生きたる人たちに書き贈られし書簡である。
 ここに第一に注意すべきは、婦人の名のわりあいに多いことである。擧げられし名はすべて二十七人、その内九人が婦人である。ロマ書をローマに携えし者が、コリント市の港ケンクレヤの女執事フィベであつた。パウロよりあいさつを受けし第一の者が、天幕製造業者アクラの妻なるプリスカであつた。その他、ツルパナとツルポサ(彼らはたぶん骨肉の姉妹であつたろう。あるいは骨肉もただならざる親しき二人の友であつたかも知れない)……主に愛せらるるペルシス、特にパウロが「わが母なり」と呼びしルポスの母があつた。キリスト敎は、初めより婦人を迎え、彼らを高め貴ぶ宗敎である。男尊女卑の當時にありて、實に著しきことである。そして婦人は初代の敎会において單に尊ばれたのみでない。彼らは男子に劣らず働いたのである。プリスカはその夫と共に、一時はパウロのためにその首を斷頭臺の上に剣の下にさらしたのである。「われらのために多く努力せしマリヤ」とありて、彼女もまたパウロ一団のために辛勞危険を辭さなかつたのである。
 二十七人、いずれも信仰の戰士であつた。その内に學者もあつたかも知れないが、パウロはその事をしるさない。高位高官の人はなかつたらしく見ゆる。アリストブロの家の者、またナルキソの家の者とありて、二人共に富者であつたらしくあるが、しかし彼ら自身が信者でありしにあらずして、彼らの家の者(從屬または奴隷)の内に信者があつたのであるように見える。キリスト敎会は信者の団体であつて、その内に貴ばるるものは、學問または位ではなくして信仰である。「キリストにありて鍛えられたるアペレ」とある。信仰の試練を經てこれに及第したる者である。英語にいわゆる approved in Christ である。キリストにありてその信仰を試みられて(多くの患難と迫害とをもつて)、善しと認められたる者である。信仰の老兵(ヴェテラン)である。幾度か内外の惡魔と戰つてこれに勝つの秘術を知つた者である。
 「キリストにありて鍛えられたるアペレ」、かかる者がパウロの友人であつて、ローマ敎会の柱石であつた。神學と哲學とギリシャ語とヘブライ語とをもつてするも、鍛えられたる信仰をもつてするにあらざれば、信者の信頼を受くるに足りない。
 ローマ敎会という。ローマ敎会とはある特別なる会堂を持ちたる団体であつたろうか。しからず。「プリスカとアクラの家にある敎会にその平安を問え」とありて、天幕製造業者の家がローマ敎会のあつた處、あるいはその一つであつたのである。初代の敎会が、各地のおもなる信者の家にあつたことは、疑うに餘地がない。使徒行傳十二章十二節、コロサイ書四章十五節、ピレモン書二節等がその事を證明する。かくいいて、余輩は敎会堂の不必要を唱うるのではない。ただ敎会堂はなくとも信仰があれば敎会はあり得ると信ずるのである。「二人三人、わが名によりて集まる處に、われその内にあらん」とイエスはいいたもうた。余の知る最も善き敎会は、信者の家にある敎会である。われらは信仰によりてわれら各自の家を敎会となすことができる。なぜこれを起こさないのであるか。
 今よりほとんど十年前に、余はこの事について左のごとくに述べたことがある。
 ローマ帝國の首府にして人口四百萬ありしというローマの市において、キリスト敎会は、一人の天幕製造業者の家にあつたのである。普通の家であつた。高壇ありしにあらず、牧師館ありしにあらず。しかも敎会はあつたのである。そこにパウロの親友なるプリスカとアクラとは、安息日ごとに兄弟姉妹を招き、キリストにありて鍛えられたるアペレもそこに來たり、ルポスは老いたる母の手を引いていたり、ピロロゴはその妻ユリヤと共に、ネレオはその妹と共に、ツルパナとツルポサの姉妹は共に手を携え、アリストブロのしもべ、しもめと、ナルキソの奴隷とは、何のはばかるところなくして名家の士女と共に一室に集(つど)いし時に、キリストは彼らの内にいまして、プリスカとアクラの家は地上の天國と化したのである。
 すべてのことに偉大なりしパウロは、また友誼(ゆうぎ)において偉大であつた。彼は人の長處を見るの目を持つていた。友にあいさつを述ぶるにあたつて、彼は單に名を呼ばずして、これに加うるに一言、その特長をもつてした。エパネトは、アジヤがキリストにささげし初穂であつた。アンデロニコは、パウロに先だちてキリストを信ぜし者であつた。アペレは、信仰鍛練の戰士であつた。ルポスは、特に主に選ばれし者であつて、彼の母はまたわが母なりというた。ことに男子の場合においては、「キリストにありてわが愛するアンプリアト」と呼びて、女子の場合においては、「愛せらるるペルシス」というがごとき、注意至れり盡くせりである。パウロに 多くの弟子(でし)はあつたろうが、彼が特に誇りしものは、彼に與えられし少數の友人であつた。そして彼は熱愛をもつて彼らを愛した。
 この書簡を書き贈つてのち三年、紀元五十九年の春ごろ、彼は囚人としてローマに着いた。使徒行傳二十八章十五節にいわく、「ローマの兄弟たち、われらのことを聞き、アピオ・ポロおよびトレス・夕べルネ(三館)といえる處に來たりて、われらを迎う。パウロ、これを見て、神に感謝し、その心に力を得たり」とある。この時、彼はこれらの友人に会し、聖き接吻をもつて相互の平安を問うたのであろう。
 
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