ロマ書の研究第55講

 

第五十五講 日は近し
十三章十一 ~ 十四節
 
十三章の十一節以下は、世の終末、キリストの再臨、信者の復活榮化等の大問題に觸るる重要なる個處である十二章の一節より、パウロはクリスチャンの實践道德を提示し、まず對個人道德として謙遜と愛とを詳説し、次に對社会道德として権能服從と愛とを力説する。そしていよいよ最後に至つて再臨の希望に言及するのである。從つて、十三章十一節以下が、十二章一節より十三章十節までに何かの深き關係を持つことは、いわずして明らかである。
しかして前講の最後において説きしごとく、クリスチャンの道德實行を助くるものは信仰と愛である。十一章までに説きしは信仰、そして十三章十一節以下は希望である。キリストとそのあがないを信じて、その大なる恩惠に感激するは、人をして愛のおこないに出でしむる根源である。しかしながら、これだけにては、根底の強きあるも激励の足らざるをうらむ。ここに主再臨の希望ありて、その時迫れりとの實感より、強き刺戟が加えられ、おのずからにして緊張せる信仰生涯が生まれるのである。すなわち信望愛は常に相離れずして、信は愛の根底たり、望は愛の激励者たるのである。しかるに現代は、信と望とを神秘不可解となして排し、ただ愛のみを説く。不信者はもちろんしかり。信者と稱する者までがまたしかるありさまである。しかし、ただの倫理敎ほど無力なるものはない。これはただ人に愛を賦課するのみにて、少しも愛をおこなわしめないのである。ゆえに信と望なくしては愛は立ち得ないのである。この事は過去千九百年間の人類の經驗によつて明白である。信と望の稀薄となりし時に、愛の充分におこなわれし例はない。愛の盛んなる處には必ず信と望とが伴う。すべて醇眞(じゅんしん)なるクリスチャンはみなこの事を自己の生涯において實驗したのである。
「われらは時を知れり」という。「時」とは何をいうか。すなわちここにいう「時」は、「福音の時代」である。福音の宣傳せらるる時代である。すでにキリスト出現し、その十字架の犧牲成りて、今や舊約時代は去り、新約の時代となつた。しかしこの福音宣傳の時代は決して永久に続くものではない。これには必ず終わりがある。ゆえに、われら、暗きのわざを捨てて、
光明の甲(よろい)を着るべし。
おこないを正しくして、昼歩むごとくすべし。
宴樂、泥酔、また淫亂、好色、また争闘、嫉妬に
歩むことなかれ。ただなんじら、主イエス
キリストを着よ。肉体の欲をおこなわんがために
その備えをなすことなかれ(十三・十二後半 ~ 十四)
日はすでにのぼらんとしてゐる。キリストはすでに來たらんとしてここに三種の惡が擧げられてゐる。第一種は宴樂と泥酔、すなわち暴食と暴飲である。これは食欲の放縦である。第二種は淫亂と好色、これは性欲の放縦である。第三種は争闘と嫉妬、これは處有欲または自利中心主義の放縦である。この三種の荒亂に、ある一人がことごとく從うこともあろう。
世の終末はいかなる形において來たるか。それは明白でない。しかし、いかようにしても來たり得ることは確實である。文明の破壊、地の變動、地球の壊滅、太陽系の變動……いかにしても世の終末は來たり得る。この、いつ變動しいつ覆滅するか測り得ぬ地上にありて、永久の安固を願う人の愚かさよ。このたのみがたき地上に藏を増し加えて財寶をたくわえ、「かくて靈魂に向かい、靈魂よ、多年を過ごすほどの多くの貨物(たから)を持ちたれば、安心して食い飲み樂しめという」者の愚かさよ。かるに、神、これにいいけるは、「無知なる者よ、今夜、なんじが魂、取らるることあるべし」という(ルカ傳十二・十六~二〇)。しかり、まことにしかり。しかるに、たのみがたき地上にたのみがたき物を積み、たのみがたき権力にあこがれて蠢動(しゅんどう)することの愚かなるかな。営々として努力し、紛々として争闘し、そして得るところはついに滅亡あるのみではないか。「かたくなにして悔いなきの心に從い、おのれのために神の怒りを積みて、その正しきさばきのあらわれん怒りの日に及ぶなり」(ロマ書二・五)とは、すなわらこの事である。われら、信によつて義とせられたる者は、希望をあわせいだきて、この信とこの望とに励まされて、この時代にありて「光明(ひかり)の子」として、愛の生活を営むべきである。暗き夜にありて決して失望せず、黎明(れいめい)近きを信じて、光明の中を着て歩むべきである。
第五十五講 約 説
終末と道德(十三章十一 ~ 十三節)
キリスト敎道德は愛である。しかして愛は信と望との間に立つ。信の結果としての愛である。望に励まさるるの愛である。信愛望の三姉妹は互いに相よりて確立する。パウロは愛を説くにあたつて、「されば」または「このゆえに」(十二・一)の接続詞をもつて始めた。人の救わるるは行爲(おこない)によらず信仰によるとの理由のもとにキリスト敎道德を説かんと欲したからである。信仰の基礎は、神がその子をもつて信者のために遂げたまいし贖罪(しょくざい)の行爲である。「このゆえに」信者は、相互に對しまたこの世の政府と社会とに對して愛の行爲に出づべしというのが、十二章一節より十三章十節に至るまでのパウロの敎訓(おしえ)である。しかしながら信仰の上に立つ愛は希望をもつて強めらるるを要す。「われらは時を知れり。」今の時代のいかなるものなるかを知れり。これ、いわゆる「福音の時代」であつて、永久に続くべきものにあらず。やがて主キリストの再臨をもつて終わるべきものであるロマ書は特に信仰について論じたる書である。ゆえに希望については多くを語らない。しかし全然語らないではない。第八章は救いの完成について論ずる希望の一章である。しかしてここにまた愛の奨励として世の終末について述べる。また十五章十三節にいう、「希望の神、なんじらをして、聖靈の力によるその希望を大いならしめたまわんことを願う」と。希望なくしてキリスト敎はない。しかしてクリスチャンの希望は、キリストの再臨とこれにともなう救いの完成の希望である。無限進化の希望ではない。徐々たる世の改良進歩の希望ではない。「このイエスは、なんじらが彼の天にのぼるを見たるそのごとく、また來たらん」使徒行傳一・十一)と天使が弟子たちに告げしその約束の成就(じょうじゅ)である。事の眞否は余輩の問うところでない。イエスと彼の弟子たちがかく信じ、しかしてその信仰によつてキリスト敎の起こりしことは、疑うの餘地がないキリストはまことにいまだ來たりたまわない。しかしながら、それがために聖書はこわれない。まことにペテロがいいしごとく、神にありては千年も一日のごとしである。永遠の存在者より見て、すべての有限の時は一瞬間である。(a÷∞=0である)。世の終末は近づきつつある。その事は昔も今も事實である。「われらは時を知る」。この時代の何たるかを知る。これは永久に続くべきでない。始めがあつて終わりがあるものである。しかして「信仰の初めより、さらにわれらの救いは近」きにあらずや。信仰の初めを使徒時代と見て、二十世紀の今日は、さらに世の終末に近きにあらずや主は近し。ゆえに、まじめなれ。端厳なれ。「兄弟よ、われ、これをいわん。時は迫れり。妻を持てる者は持たざるがごとく、泣く者は泣かざるがごとく、喜ぶ者は喜ばざるがごとく、買う者は買わざるがごとく、この世を用ゐる者は用いざるがごとき時いたらん。そは、この世のさまは過ぎゆけばなり」(コリント前書七・二九~ 三一)と。肉体とこの世の事に淡泊なれ。主は近し。萬物の終わりは近づけり。肉体の欲をおこなわんがためにその備えをなすことなかれ。
。「神の聖旨はこれなり。すなわちなんじらのきよからんことなり」(テサロニケ前書四・三)とある。「人きよからずば、主にまみゆることあたわず」(ヘブル書三・二四)とある。しかして、きよむるに火が必要である。恐るべき主の日の到來を覺悟して、われらは心の奥底よりきよめらる。われらが神の恩惠になれてゆだんする時に、惡魔の乘ずるところとなる。ここに警戒の必要があ新しき天と新しき地とを望み待てり。義、その中にあり。このゆえに、愛する者よ、なんじらすでにこれを望み待てば、主の前に、しみなく、きずなくして、安全ならんことを務めよ」(ペテロ後書三・一〇~ 十四)とあるがごとし。
世の終末である。その破壊でない。神はご自身が造りたまいしものをさげすみたまわない。「神の日には、天燃えくずれ、体質焼け溶けん。されど、われらは、約束によりて、新しき天と新しき地を望み待てり。義その中にあり」である。世の終末は「死と陰府(よみ)と火の池」とではない。「新しき天と新しき地」とである。罪人の存在を許さざる正義の世界である。あだかも今の世界が、へびやとかげの祖先たりし醜き恐ろしき大爬蟲の存在を許さざるがごとく、來たらんとする義の世界は、今日世に跋扈(ばっこ)する人たちの活動存在を許さないのである。「今はなんじらの時、暗黒の勢力なり」とイエスのいいたまいし時代である。。「なんじら今主にありて光れり。光の子どものごとくおこのうべし」(エペソ書五・八)とあるがごとし
 
イメージ 1