内村鑑三の非戦論

この世が大分きな臭くなってきた。「平和憲法改正」とか「集団的自衛権」とかうるさくなってきた。有ってはならぬが、いざというときの備えは必要なのだろう。
 
 
かって内村鑑三は「非戦論」を強く訴えたが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。また、弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。しかし、時既に遅く、斉藤は教職を追われてしまう。
 
これは「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。
 
内村は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議に積極的に参加したと同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を正当化した。
 
キリスト者は、どの様な状況においても、戦争において困難な状況に立たされる。
否迫害においても同じように選択を迫られる。
「兵役を受容するか、拒否するか」 あなたならどうする?と主は問われる。
私は拒否するであろう。    殉教の道を選ぼう。