内村鑑三 マタイ伝14講-その2

馬太伝第五章-2
明治391110日― 40年1月10
『聖書之研究』818283号「研究」  署名内村鑑三
 
2マタイ伝5
矜恤(あはれみ)ある者は福なり、其人は矜恤(あはれみ)を得べければ也。(7)
「矜恤〔あわれ〕ある者」憐む者、人の困苦に在るを視て之を責むるに其罪を以てせずして、之に同情を表し、援助を供する者、斯かる者は神に恵まれし者なりとなり
○「其人は矜恤を得べければ也」憐まるべければ也、己れ困苦に遭遇する時に神と人とに憐まれ且つ援けらるべければ也、殊に最終の裁判の日に方〔あたつ〕て己れ神の憐愍〔れんびん〕を要する最も大なる時、我れ小にして且つ弱き者を憐みしが故に大にして且つ強き神に憐まるべければ也、憐まざる者
は憐愍を識らず、故に憐まれず、又憐まるゝも憐愍の憐愍なるを識る能はず、憐愍も亦訓練を要す、我等は人を憐(あわれ)んで、自から憐まるゝ時に憐愍を憐愍として受くるの準備を為すべき也。
(改訳) 矜恤む者は幸福なり、其人は憐まるべければ也。
 
心の清き者は福なり、其人は神を見ることを得べければ也。(8)
「心の清き者」罪念邪慾を心に貯へざる者の意なる乎、然らば生れながらにして斯くある者は世に一人もなかるべし、心は清からざるべからず、然れども生れながらにして心の清き者あるなし、心は万物よりも偽はるものにして甚だ悪し(耶利米亜〔エレミヤ〕記十七章九節)、若し心の清き者にあらざれば神を見ること能はずとならば世に神を見ることを得る者は一人もなかるべし、故に心の清き者の意義は之を字義以外に於て発見せざるべからず、而して之を説明するに最も善き聖語は馬太〔マタイ〕伝六章廿二、廿三節なり、心の清き者とは其目的の単純なる者との意ならざるべからず、天国と其義の外、何物をも求めざらんと欲する者との意ならざるべからず、此単純なる目的ありて、人に多くの欠点と汚穢(けがれ)と存するあるも、彼は徐々に完うせられ且つ潔められて終〔つい〕神を見るを得るに至るべしとなり、心の清からざる者、即ち濁(にご)る者とは二心(ふたごごろ)の者なり(雅各〔ヤコブ〕書一章八節)、神と世とを両(ふた)つながら歓ばせんと欲する者なり、単純は完全に達するの途なり、患ふべきは行為の過失多きことにあらず、心の複雑なることなり、失錯多きシモン・ペテロの如きすら其心の単純真率なりしが故に終に能く神を見るを得たり
○「神を見ることを得べければ也」opsontai, shall see. 神を見るべければ也、神を見るの可能性を備ふれば也、必ず見るを得べしとは定まらず、そは単純其物は見神の資格となすに足らざればなり、神を示さるべき資格を供せらるべき性質を備ふればなりと
○「神を見る」神は物体にあらざるが故に肉眼を以て見る能はざるは言ふまでもなし、眼に神を見たりと云ふ者は迷信にあらざれば幻想を語る者なり、神は霊なり、真なれば彼を見る者は霊と真
まこととを以て為ざるべからず、神を見るとは(第一に)その栄の光輝その質の真像なるイエスキリストに於て之を見ることなり(希伯来〔ヘブル〕書一章三節)、キリストを見し者は神を見しなり(約翰〔ヨハネ〕伝十四章九節)、人はキリストに由らずして神を見る能ず。(第二に)神に在りて人生と万有とを解し得ることなり、人生の矛盾は大なる調和として了(さと)られ、宇宙の現象は愛の行動として解せらるゝに至ることなり。(第三に)神の霊を自己の霊に受けて、父の完全なるが如く自己も完全(まつた)きことなり、「見る」とは想像に対して言ふ語なり、明白に会得するの意なり、百聞一見に如かずと言ふが如し、たゞに神を憶想推測するにあらずして、判然と暁得するの意なり。
(改訳) 心の純(じゅん)なる者は幸福なり、其人は神を見るべければ也。
 
和平(やわらぎ)を求むる者は福なり、其人は神の子と称へらるべければ也。 (9)
「和平を求むる者」平和を行ふ者、平和の人たるに止まらず、平和を愛するに止まらず、進んで平和を行ふ者なり(求むるは意義弱し)、斯かる者は福なりとなり、総ての方法を尽して争闘を妨止せんとし、己れ自から之に加はらざるは勿論、他人をもして之を避けしめんとする者、是を平和を行ふ者と称〔い〕ふ、平和を行ふに多くの勇気を要す、自己に在りては多く赦し多く譲ら〔ゆる〕ざるべからず、社会に在りてはすべての党派に加はらず、厳然たる中正を保たざるべがらず、国家に在りては如何なる場合に於ても戦争を非認し、世界の平和を唱へざるべからず、
〔後〕
平和を行ふ者は平和の主(帖撒羅尼迦〔テサロニケ〕前書三章十六節)の外に主を求めず、彼は平和の君(以賽亜〔イザヤ〕書九章六節)に属し、平和の神(羅馬〔ロマ〕書十五章三十三節)を龥(よ)びまつる、彼は公道の外に政党あるを知らず、キリストの外に教会を認めず、彼は多くの人に憎まれながら平和の道を歩まざるべからず、平和を行ふ者は怯懦〔きようだ〕の人にあらず、安逸を求むる者にあらず、十字架に釘〔つ〕けらるゝも堅く平和を取て動かざる者なり
○「其人は神の子と称へらるべければ也」平和を行ふ者は愛国者と称へられず、彼は此世の国家が愛国的行動と認むる戦争を根本的に非認すれば也、平和を行ふ者は又熱心なる教会信者と称へられず、彼はキリストの分つべからざる者なるを確信し、すべての教派的行動に絶対的に反対すれば也、平和を行ふて此世の帝王より位階勲章の恩賜に与かるの希望なし、平和を行ふて又法王、監督、宣教師の類より賞讃同情を得る能はず、然れども勇気を以て平和を行ふて神の子と称ヘらるゝの名誉に与かるを得べし、神学博士の称号尊からざるにはあらざるべし、然れども神の子の名称の単純にして壮厳なるに及ばざるや遠し、此世の勲章は以て神の前に立つの資格を作るに足らず、唯神の性を帯ぶるが故に神の子と称へらるゝ者のみ、能く神の懐に入りて彼をアバ父よと龥(よ)び奉るを得るなり、平和を行ふの報賞は実に大なりと言ふべし。
(改訳) 平和を行ふ者は幸福なり、其人は神の子と称へらるべければ也。
 
義(ただ)しきことの為めに責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の有(もの)なれば也。 (10)
「義しきこと」正義正道なり、然れども此場合に於ては特にキリストの福音なり、キリストは神の正義也、彼はユダヤ人には礙(つまず)く者、ギリシヤ人には愚かなる者なりと雖〔いえど〕も、召されたる者には神の大能また智慧また正義たるなり
○「責めらるゝ者」原文に窘められて今日に至る者との意義存す、即ち迫害の中に信仰を持続せし者の意なり、姦悪の世が正義を憎むは人世の通則也、然れどもキリストの福音の如く世に憎まるゝ者の他にある、なし、迫害なるものは実は基督教の顕出を待て世に始まりしものなり、之を憎む者は賎夫悪徒に止まらず、志士仁人と称する者も亦〔また〕然り、キリストの福音は背倫、亡国、褻涜〔せつとく〕道として斥けらる、キリストの弟子は此世の異分子なり、彼は悪人に愚弄せられ、義人、善人に軽蔑せらる、実にキリストの福音を信じてのみ吾等は始めて迫害の何たる乎を知るなり
「天国は即ち云々」天国は今既に其人の有なればなり、彼は窘〔くる〕しめられながら益々深く天国に入りつゝあり、パウロ曰く是故〔このゆえ〕に我等憶せず、我等が外なる人は壊(やぶ)るゝとも内なる人は日々に新たなり、夫〔そ〕れ我等が受くる暫時の軽き苦しみは極めて大なる窮〔かぎ〕りなき重き栄を我等に得しむる也(哥林多〔コリント〕後書四章十六、十七節)と、永生は神に由て内に植ゑられ、人に由て外より堅めらるゝ者なり、迫害は信仰成長の要件の半ばなり、是れなくして人は何人も天国に入る能はざるなり。
(改訳) 義のために窘(くる)しめらるゝ者は幸福なり、天国は即ち其人の有なれば也。
 
 
我が為に人、汝等を詬誶(ののし)りまた迫害(せ)め偽はりて各様(さま〴〵)の悪しき言をいはん、其時は汝等福なり。 (11)
 
前節の敷衍〔ふえん〕なり
「我が為めに」我(キリスト)を主と仰ぎ我が福音を信ずるがために、即ち此世の倫理道徳とは全然其素質を異にする我が福音を信じ、其教訓を実行するが故に
「汝等を詬誶〔ののし〕り汝等我が弟子を罵り、汝等に帰するに多くの悪意悪計を以てし、汝等の罪を糺(ただ)さんと苛立つ時
○「また迫害(せ)め」窘(くるし)しめ、害を加ヘたゞいらだせ単に言を以て譏〔そし〕り罵るのみならず、手を以て害を加へんとする時
「偽はりて各様の悪しきことを言はん」虚偽の言を発して汝等を譏らん、又故意に無実の罪を構造して汝等を罪に陥〔おとし〕ゐれんとせん其時云々、不信者が信者を責むる時に彼等は意志方法の善悪を択ばざるが如し、若〔も〕し悪魔のインスピレーシヨンなるものありとすれば、是れ信者を苦めんとする時に不信者の心に臨むものなり
○「各様の悪しきことを言はん」汝等を国賊と称(い)ふべし、不忠の臣と称ふべし、不孝の子と称ふべし、社会の壊乱者と称ふべし、偽善者と称ふべし、偽君子と称ふべし、魔術師と称ふべし、人口に上る悪しき名称にして不信者に由てキリストの弟子に適用せられざる者はなかるべし
○「其時は汝等福〔さいわい〕なり」罵られ、譏〔そし〕られ、迫害せられ、悪名といふ悪名を悉〔ことごと〕く着せらるゝ其時、汝等は福なり、そは其時汝等は大なる宝を天に積みつゝあればなり、キリストのために受くる苦痛は生命の無益の消費にあらず、有益なる労働なり、我等は斯く責められつゝある間に我等の戴くべき栄の冕〔かんむり〕を鍛へつゝあるなり、天国に永住の家を築きつゝあるなり、苦しと思ふ其時が幸福なる時なり。
(改訳) 別に改訳の要を見ず、但し「詬誶」は罵りと改め、「迫害」は「せめ」と訓まずして「はくがい」と読む乎、或ひは「窘〔くる〕しめ」と改むるを宜しとすべし、「詬誶」の原意は罵辱の熟辞を以て最も正当に表はさるべしと信ず、左の如く改めなば多少の改良なるべし、我がために人、汝等を罵(のゝし)り(罵辱(ばじよく)し)、また窘(くる)しめ(迫害(はくがい)し)、偽はりてさま〲の悪しきことを言はん、其時汝等は幸福(さいわい)なり。
 
喜び楽しめ、天に於て汝等の報賞〔むくい〕多ければ也、そは汝等より前〔さき〕の預言者をも如此〔かく〕せめたりき。(12)
「喜び楽しめ」喜ベ、躍り歓ベ、歓喜雀躍せよ
○「天に於て汝等の報賞多ければ也」来世に於てのみならず、今も既に、キリストの国なる霊の世界に於て汝等の受くる報賞多ければ也と、迫害の報賞は人生最大の賜物なる神より来る聖霊なり、之を心に受けて我等は喜ぶなり、躍〔おど〕り歓ぶなり、聖霊の喜楽(帖撒羅尼迦〔テサロニケ〕前書一章六節)はすべての艱難に勝ち得て余りあり、神は我等を其膝下に召し給ふ前に、我等が尚ほ此苦痛の世に在る間も
我等を喜ばしむるに足るの賜物を其手中に握り給ふ、然れども迫害の報賞は聖霊に止まらざるなり、神は聖霊と共に終にすべてのものを与へ給ふべし、我が為せし悪はすべて忘れらるべし、我が為せし善は悉く酬いらるべし、而して我は罪の人なるに天使と共に永遠の国を嗣ぐを得べし、斯世に在て福音のために不信者より受くる罵辱と
迫害とは損失にあらず、利得なり。
 
(続く)
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