内村鑑三 マタイ伝 19講

19マタイ伝
 
平和の祝福
大正3310日 『聖書之研究』164   署名内村鑑三
 
福〔さいわ〕ひなり、平和を求むる者は、蓋(そは)、其人は、神の子と、称(とな)へらるべければ也。馬太〔マタイ伝59節〕
 
「平和を求むる者」とは如何〔いか〕なる者である乎〔か〕、人と人と、又は国と国との間に平和の破れし場合に、二者の間に立て平和を計る者であるとは、大抵(たいてい)の信者より余輩が聴く此言辞(ことば)の註解である「平和を求むる者」とは不和を調停する者、仲裁者の労を取る者、即〔すなわ〕ち、日露戦争の時に北米合衆国大統領ルーズベルト氏の立ちし立場に立つ者であるとは、イエスの此言辞(ことば)に対する普通の見解である。
而〔しか〕して余輩と雖〔いえど〕も、此見解の誤りたる者にあらざるを知る、イエス御自身が此意味に於ての平和主義者であつた、彼に由て神と人との間に横(よこた)はりし敵意は取除(とりのぞ)かれた、夫(そ)れ汝等は前(さき)に神に遠(とざか)かり、心にて其敵(あだ)となれる者なりしが、神、今、キリストの死に由り汝等をして己(おのれ)と和(やわら)がせ、己(おのれ)が前に立たしめんとすとある(哥羅西〔コロサイ〕書一章廿一、廿二節)、又イエスに由りて人と人と、ユダヤ人とギリシヤ人と、国民と国民とが、真正(ほんとう)の意味に於て和(やわら)ぐことが出来る、彼は我等の和(やわらぎ)なり、二者を一つとなし、冤仇(うらみ)となる隔(へだて)の籬(かき)を毀(こぼ)ち給ふとある(以弗所〔エペソ〕書二章十四節)、故にイエスを称して契約の中保(なかだち)又は新約の中保(なかだち)とも言ふ(希伯来〔ヘブル〕書八章六節、同九章十五節)、又、神と人との間に一位(ひとり)の中保(なかだち)あり即ち人なるイエスキリストなりとありて、キリストの職務は主(しゅ)として神人間(しんじんかん)の平和を計るに在るが如くに録(しる)されてある(提摩太〔テモテ〕前書二章五節)
如斯〔かくのごと〕くにして中保(なかだち)はイエスの大事業でありしが故に、彼の弟子たる者も亦〔また〕、中保、仲裁、調停を以て事業となすべきことは余輩の茲〔ここ〕に言ふまでもない、信者が嫌(きら)ふものにして争闘の如きはない、彼はすべての手段を尽くして之を取除(とりのぞ)くべきである、行(な)し得べき限(かぎ)りは力を竭(つく)してすべての人と睦(むつみ)み親(した)しむべし、とある(羅馬〔ロマ〕書十二章十八節)、争闘(そうとう)の開けし場合に、信者が全力を竭(つく)して平和の克復(こくふく)を計るは勿論の事である。
 
然し乍〔なが〕ら、平和は争闘(さうとう)の調停(ちょうてい)を以て尽きない、中保(なかだち)と云ひ、仲裁と云ひ、平和事業の一面に過ぎない、破れし平和を恢復するのみが平和ではない、平和は平和を擾(みだ)されざらんとする、真(まこと)に平和を求むる者は不和に近づかざらんとする、美術家が醜容(しょうよう)を厭(いと)ふが如くに平和者は不和争闘を厭ふ、之に接するは彼に取り大なる苦痛である、彼は自(おのず)から之を避けんとする、仇恨(きんこん)、争闘(そうとう)、分争(ぶんそう)、結党(けつとう)と聞いて彼は堪えられず感ずる、彼の本能性(ほんのうせい)に逆(さから)ふ者にして平和の擾乱(ぜうらん)の如きはない。
而して是がすべての分争に対するイエスの態度であつたのである、平和の主なる彼は如何なる党派にも与(くみ)し給はなかつた、結党(けたう)の動機は敵対(てきたい)である、対峙(たいじ)すべき一つの党派があつて、茲に他の党派が起るのである、平和の
行(おこな)はるゝ所に党派は起らない、党派の存在其物が仇恨(きんこん)伏在(ふくざい)の何よりも良き証拠である。
エスパリサイ派にも属し給はなかつた、サドカイ派にも入り給はなかつた、ヘロデ党にも与(くみ)し給はなかつた、イエス自己(おのれ)を彼等(党人)に托(まか)せざりき、蓋(そは)、人を知り、人の心を知りたれば也とある(約翰〔ヨハネ〕伝二章廿四、五節)、彼は全然無政党無宗派であつた、彼は今の多くの基督信者が為すが如くに宗派間の調和を計らんがために自〔みずか〕ら宗派に入り給はなかつた、宗派は彼の本能性(ほんのうせい)に合はなかつた、生れながらにして平和を求め給ひし彼は、自己を否認(ひにん)せざる以上は宗派に入らんと欲するも能〔あた〕わなかつた、余輩はイエスの純る無政党的無宗派的態度に於て平和を求むる者の真実(まこと)の模範を見るのである。
而してイエスの如き者に朋友の尠(すくな)き、其理由は之を探るに難くない、神を離れて人は党派の人たらざらんと欲するも能はないのである、而して人の中に在りてイエスのみが真(まこと)に不羈独立(ふきどくりつ)の人であつたのである、人の中に彼に儔(たぐ)ひすべき無党派の人は一人も無かつた、故に全然党を離れし彼には政治的にも宗教的にも天が下に枕(まくら)するは無つた、性来平和の人なりし彼は止むを得ず孤独の人であつたのである。(『研究十年』第百一頁以下、「イエスうまれつき〔本全集第一六巻二九三頁以下〕は何故に人に憎まれし乎」の一篇を参考すべし)
茲(ここ)に於て「平和を求むる者」の如何なる者であるかが稍明瞭(ややあきらか)になるのである、止(ただ)に平和の恢復を計る者に非ず、分争(ぶんそう)に近寄らざる者、性来(うまれつき)の平和追求者、不和を厭(いと)ひ、分争結党を諱(い)み嫌ふ者、「平和を求むる者」とは斯かる者である。
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希臘(ギリシヤ)語のειρηνοποιòς を「平和を求むる者」と訳したのが(そも〳〵)誤解の始めであつたらふと思ふ、支那訳聖書には施(ほどこ)平和者と訳してある、「施す」は「求むる」よりも少しく優(ま)さりたる訳字である、然し乍ら、「平和を行ふ者」
と訳するのが更らに大なる改良であると思ふ、平和を実行に顕はす者、其行為全体が平和的なる者、イエスが福ひなりと言ひて祝(しゅく)し給ひし者は斯かる者であると思ふ、或ひは更らに進んで「平和性(へいわせい)の者」と訳するならば原語の意味に最も近くあると思ふ ロビンソン氏著『新約聖書字典』二一六頁を見よ、六十年前の著作なりと雖も定義の明瞭にして簡潔なるに
於ては今猶ほ比類尠(すくな)き好著なりと信ず、one disposed to peace, peaceful, opposed to strife とある、(平和に傾く者、平和性の者、争闘に反対する者)とある。
平和性の者は福ひなりとの事である、而して此性たるや、是を自然性として受くるも、又は信仰に由り聖霊の賚賜(たまもの)として受くるも、其祉福(さいわい)たるや同じである、要は平和が我等の性質となるにある、義務として之に従ふに非ず、訓誡(いましめ)として之に服するに非ず、性質として自(おのず)から之を行ふ者、其人は福ひであるとのことである。
「其人は神の子と称へらるべければ也」神は元々(もと〳〵)平和の神である、
平和の神汝等すべての人と偕(とも)に在(いま)さんことを祈るとある(羅馬書十五章三十三節)、又
平和の神自から汝等を全く潔(きよ)くし云々とある(テサロニケ前書五章廿三節)、又
羊の大牧者なる我等の主イエスキリストを死より甦〔よみがえ〕らしゝ平和の神
とある(希伯来〔ヘブル〕書十三章二十節)、故に斯神(このかみ)の子と称(とな)へられんには自身も亦平和の人とならなければならない、神は真個(まこと)の意味に於て不偏(ふへん)不党(ふとう)である、而して神の聖意(みこころ)を身に体(たい)したる者は党派に入らんと欲するも能はない、宗派は基督者の大禁物である、之に入り之に属するは神の明かなる聖意に逆らふのである、然るに事実は如何に、盗むこと姦淫することを侃々(かん〳〵)諤々(がく〴〵)として責立(せめた)つる基督信者が宗派と云ふ信仰的党派に入りながら、敢〔あえ〕て大なる罪(余輩は之を罪悪と称して憚〔はばか〕らない)を犯しつゝあるとは感じないのである、而して我等は分争結党(今の教会なる者は殆んど其すべてが結党に由て成りたる党派の類ではあるまい乎)の苟合(こうごふ)、汚穢(をくわい)、好色(こうしょく)と同じ罪であることを忘れてはならない(加拉太〔ガラテヤ〕書五章二十節)、宗派の人は神の子と称(とな)へられずと謂ふことが出来る。
「称(とな)へらる」とは止(ただ))に名称(めいしょう)を附せらるべしとの事ではない、聖書に於て「称へらるべし」とあるは「事実を認めらるべし」と云ふことである、故に称へらるゝ前に事実があるのである、神の子と称(とな)へらるゝ前に神の子と為(せ)
らるゝのである、神に在りては名実の差別は無い、神の性(せい)なる平和性を受けて、人は神の子として認めらるゝのである。
エス言ひ給はく、祝福されたる者なる哉、平和の性を賜はりし者は、蓋、其人は神の子と認めらるべければ也と
世は平和の人を称して臆病者、隠遁者、非社交的人物となすならん、然れども平和の主なるイエスキリストは言ひ給ふ、其人は神の子と認めらるべければ也と。
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