朝日新聞 5月3日社説からと、「非戦論」(内村鑑三)
(社説)安倍政権と憲法 平和主義の要を壊すな
2014年5月3日05時00分
国会の多数決だけで、憲法を改めることはできない。
安倍首相は昨春、この手続きを緩めようとして断念した。
■本質は他国の防衛
仮に集団的自衛権の行使を認めれば、どんなに必要最小限だといっても、これまでの政策から百八十度の転換となる。
集団的自衛権の本質は、他国の防衛という点にある。アリの一穴は必ず広がる。「日本が攻撃された時だけ武力を行使する」という以上に明確な歯止めを設けることは困難だ。
政府が方針を決め、与党協議だけで実質的な改憲をしてしまおうという乱暴さ。なぜ、こんなことがまかり通ろうとしているのか。
■行政府への抑止なく
真っ先に目につくのは国会の無力だ。論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない。
対立する政党の質問にまともに答えようとしない首相。それを許してしまう野党の弱さは、目を覆うばかりだ。
立法府から行政府への監視や抑止がまるで利かない現状。そのうえ、憲法の歯止めがなくなればどうなるか。米国の軍事政策に追従し続けてきた日本だ。米国の要請に押され自衛隊の活動が「必要最小限」を超えるのは想像に難くない。
こんな体制のもと、第二のイラク戦争への参加を求められたら、政府は正しい判断を下せるのか。国会や国民がそれを止めることができるのか。
■憲法を取り上げるな
「自衛隊員に出動命令を出すからには、一人でも多くの国民の理解を得たい」。政権の中からはこんな声が聞こえる。
北朝鮮の核開発や中国の軍備増強などで、東アジアの安全保障環境は厳しくなっている。いまの議論が、日本の安全を確実にしたいという思いからきていることはわかる。
ならば一足飛びに憲法にふれるのでなく、個々の案件に必要な法整備は何かという点から議論を重ねるべきではないか。
仮に政策的、軍事的合理性があったとしても、解釈変更で憲法をねじ曲げていいという理由にはならない。
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近代に日本は3度の大きな戦争を繰り返してきた。日清、日露、太平洋戦争であるが、それぞれの時代の状況と似てきていることを見ます。
非戦論の原理(内村鑑三 )
明治41年8月10日
1.学者の態度
私は、今日は非戦論の原理について申し上げたいと思います。しかし本論に入るのに先立って、私は一言諸君に申上げて置かなければならないことがあります。
即ち、私が非戦主義を懐くのは、それが真理であることを、私が悉く証明し尽くしたからではないという事、その事です。
世の中のたいていの人は、自分が奉じる主義信仰と言えば、これには一点の懐疑も、また加えるべき一点の非難も無いものであるように思います。しかしこれは、真理を愛する学者が持つべき心の態度ではありません。
学者は懐疑を許します。非難を歓迎します。そして主張と非難とを比べてみて、二者のうちの真理の多い方を取ります。ゆえに彼の提供する説は、完全な真理ではありません。そのような真理を提供し得る者は、人間の中に一人もいないはずです。
私が捧持する真理は、完全な真理であると称する者は、神でなければ狂人です。私達人間は、より大きな真理を供するまでです。そして他人の批評を待って、さらに大きな真理に達するまでです。
私は今は、非戦主義を懐きます。私は、非戦論は道理として最も正しく、道徳として最も高く、政略として最も賢い主義であると思います。しかしそうは思うものの、非戦論に多くの非難すべき点がないとは言いません。
その反対の主戦論にも、また多くの採るべきところがあります。少なくとも同情を寄せるべき点があります。
私は、非戦論を証明し尽くしたとは言いません。これを宇宙進化の理から考えてみても、また実際にこれを行う点から考えてみても、これに多くの非難すべき点があることを認めます。
私は、より大きな真理としての非戦論を採るのです。絶対的な真理として、これを懐くのではありません。
そしてもし諸君の中に、そのような信念は半信半疑の信念であって、聞くに足りないと言われる方が居られるなら、その方は公平を愛する学者の精神を有(も)たない方と認めますので、私の講演中は、今から直ちにこの場から退かれることを願います。
2.戦争が悪事であること
さて、戦争が悪い事であることは、誰でも承知しています。如何に戦争好きの人でも、戦争は善い事であると言い得る人は一人もいません。戦争に対する普通の弁護は、「戦争は戦争を止めることである」との事です。
漢字の「武」は、戈(ほこ)を止めるという意であるとの事です。平和のための戦争であって、戦争のための戦争ではないとは、誰でも言うことです。ゆえに私は、ここに戦争が悪いという事を述べる必要はありません。
その事は、世界一般に知られています。あたかも、売淫制度が悪い事が一般に知られているのと同然です。誰も貸座敷は善いものであると言う者はいません。ただ、悪いけれども止むを得ないと言うまでです。人類一般が、それが悪事であることを認める一点においては、戦争は売淫と少しも異なりません。
ゆえに道徳の立場から見て、私はもちろん戦争を憎みます。しかし、どれだけ憎むか、それが問題なのです。憎悪にも強いのと弱いのとがあります。憎んでも許しておく憎悪があります。これを排除しなければ止まない憎悪があります。
貸座敷は悪いものであるけれども、残しておいてさほど害がないという憎悪と、貸座敷を残しておけば、自分の家庭も社会も終には国家までも滅びてしまうという激烈な憎悪とがあります。
そして戦争に対する私の憎悪は、前者の生ぬるい憎悪ではなくて、後者の熱い憎悪です。私は私の全心全性を傾けて、これを嫌います。あたかも故ビクトリア女皇がこれを嫌われたように、これを嫌います。
伝え聞くところによれば、彼女は老年に進むに従い、戦争をますます甚だしく嫌われ、「私は私の在世中、再び戦争の宣告に署名しないであろう」とまで言い張られたこともあるそうです。
ところが英国の憲法により、民の欲するところは皇帝もまたこれを了承しなければならないので、止むを得ずあの最も不幸な戦争、南ア戦争の宣告に署名されたので、彼女の心は常に安からず、終に彼女の崩御を数年早めたということです。
憎悪はもちろん感情であり、道理によって量るべきものではありません。しかしながら、感情にも高いものと低いものと、鋭いものと鈍いものとがあります。深い道徳は、鋭い感情を作ります。
女皇陛下の戦争に対する憎悪は、ヒステリー的であるとばかりは言えません。彼女は、最も常識に富む婦人であられました。彼女が戦争を嫌われたのは、彼女と同時代同国の人であった哲学者スペンサーが、非常にこれを嫌ったのと同一の原因に基づくものであると思います。
道理の問題は別にして、小さい私も今は非常に戦争を嫌います。私は、今は英国非戦主義第一等の政治家であったジョン・ブライト( http://en.wikipedia.org/wiki/John_Bright )と共に言います。「人類の罪悪を一括したもの、これが戦争である」と。
3.戦争と天然
しかし人は言います。戦争は広く天然に行われており、戦争は天然の法則であって、また進化の理であると。なるほど、戦争は広く天然界に行われます。優勝劣敗の理は、天然界の至る所で行われます。私は天然界における戦争の実在と、またある点から言えば、その利益とを認めます。
しかしながら、ここに一つ注意しておくべき事があります。それは、天然の法則は、戦争だけに限らないことです。天然界には、戦争と共に共同一致も行われます。愛憐犠牲も行われます。
万物が進化して今日に至ったのは、戦争だけによりません。優勝劣敗を戦争だけに限るのは、ごく浅薄な天然観です。獅子はなるほど鹿や兎を食らいます。獅子と鹿とが相対すれば、勝利はもちろん獅子に帰します。
しかし、鹿には獅子にないものがあります。それは、群居の性です。したがって多少、和合一致、相互共済の性があります。ゆえに戦争においては、鹿は獅子に負けますが、繁殖においては、獅子は鹿に負けます。
ゆえにインドやアフリカの地方において、獅子が絶えても鹿が絶えない所が沢山あります。獅子は、その牙と爪が鋭いために鹿に勝ちますが、その猛烈な攻撃性のために、終には弱い鹿に負けます。
天然界を修羅の街衢(ちまた)と見るのは、大きな間違いです。天然界は修羅の街衢ではありません。やはり愛と正義とが最後の勝利を占める家庭の一種です。
広く天然界をその大体について観察して御覧なさい。その中で最も高い、最も貴い、最も美しいものは、強い、猛々しい、巨大なものではありません。
もし力の一点から言えば、最も強いものは、ニシキヘビとワニとです。しかし、ニシキヘビとワニとがこの世界の主人公であると、誰が言いますか。詩人ワーズワースが歌った牝鹿は、弱くて脆(もろ)いですが、しかし遥かにニシキヘビやワニ以上の動物です。
もし戦闘的な優勝劣敗が天然界を支配する、唯一最大の勢力であるならば、この世界は全くニシキヘビ、ワニ、鷲、ゴリラ等に属していたでしょう。
ところがそうではなくて、獅子や虎は絶えても、その獲物となった鹿や兎は繁殖し、鷲は山深く巌高い所にその巣を作るのに対して、カワセミは里に下りて、水辺を飛び、ゴリラやチンパンジーはわずかに熱帯地方の深い森にその種族を保存するだけなのに、人は全世界を覆って、至る所に文明を進めつつあります。
これを見て、天然界は決して、強者必盛、弱者必滅の世界ではないことが、最も明白に分かります。
主戦論は、これを天然の事実に訴えて、その説を維持することは出来ません。天然を深く学べば、天然は戦争の奨励者ではなくて、却って平和の宣伝者であることが明かに分かります。
: 内村鑑三現代訳