国会の多数決だけで、憲法を改めることはできない。
 憲法を改正するには、衆参両院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票過半数の承認を得なければならない。憲法96条が定める手続きだ。
 安倍首相は昨春、この手続きを緩めようとして断念した。
 時の政権の意向だけで憲法が変えられては、権力にしばりをかける立憲主義が侵される。こう気づいた多くの国民が、反対の声を上げたからだ。
 安倍首相は、今年は違うやり方で、再び憲法に手をつけようとしている。
 条文はいじらない。かわりに9条の解釈を変更する閣議決定によって、「行使できない」としてきた集団的自衛権を使えるようにするという。これだと国会の議決さえ必要ない。
 その結果どうなるか。日本国憲法平和主義は形としては残っても、その魂が奪われることになるのは明らかだ。
 
 ■本質は他国の防衛
 政権内ではこんな議論がされている。集団的自衛権の行使は日本周辺で「わが国の存立を全うする」ための必要最小限に限る。それは59年の砂川事件最高裁判決も認めている――。いわゆる「限定容認論」だ。
 しばしば例示されるのは、日本近海での米艦防護だ。首相らは日本を守るため警戒中の米艦が襲われた時、自衛隊が救えなくていいのかと問う。それでは日米同盟は終わる、とも。
 しかし、これは日本の個別的自衛権警察権で対応できるとの見解が政府内外に根強い。
 ことさら集団的自衛権という憲法の問題にしなくても、解決できるということだ。日本の個別的自衛権を認めたに過ぎない砂川判決を、ねじ曲げて援用する必要もない。
 仮に集団的自衛権の行使を認めれば、どんなに必要最小限だといっても、これまでの政策から百八十度の転換となる。
 集団的自衛権の本質は、他国の防衛という点にある。アリの一穴は必ず広がる。「日本が攻撃された時だけ武力を行使する」という以上に明確な歯止めを設けることは困難だ。
 自民党憲法改正草案は、自衛隊集団的自衛権も行使できる「国防軍」にするという。安倍政権がやろうとしていることは、憲法を変えずにこれを実現しようというに等しい。
 政府が方針を決め、与党協議だけで実質的な改憲をしてしまおうという乱暴さ。なぜ、こんなことがまかり通ろうとしているのか。
 
 ■行政府への抑止なく
 真っ先に目につくのは国会の無力だ。論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない。
 対立する政党の質問にまともに答えようとしない首相。それを許してしまう野党の弱さは、目を覆うばかりだ。
 自民党内にあった慎重論も、内閣改造や党人事がちらついたのか、またたく間にしぼんだ。
 立法府から行政府への監視や抑止がまるで利かない現状。そのうえ、憲法の歯止めがなくなればどうなるか。米国の軍事政策に追従し続けてきた日本だ。米国の要請に押され自衛隊の活動が「必要最小限」を超えるのは想像に難くない。
 03年のイラク戦争で、小泉首相ブッシュ大統領の開戦の決断を支持し、自衛隊を復興支援に派遣した。小泉氏の理屈は「米国支持が国益にかなう」の一点張り。情勢を客観的に判断する姿勢は見えなかった。
 安倍首相国家安全保障会議を発足させた。だが、議事録は公開されず、特定秘密保護法によって自衛隊を動かす政策決定過程は闇に閉ざされそうだ。
 こんな体制のもと、第二のイラク戦争への参加を求められたら、政府は正しい判断を下せるのか。国会や国民がそれを止めることができるのか。
 
 ■憲法を取り上げるな
 「自衛隊員に出動命令を出すからには、一人でも多くの国民の理解を得たい」。政権の中からはこんな声が聞こえる。
 集団的自衛権の行使をどうしても認めたいというのならば、とるべき道はひとつしかない。そのための憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ。
 北朝鮮の核開発や中国の軍備増強などで、東アジアの安全保障環境は厳しくなっている。いまの議論が、日本の安全を確実にしたいという思いからきていることはわかる。
 ならば一足飛びに憲法にふれるのでなく、個々の案件に必要な法整備は何かという点から議論を重ねるべきではないか。
 仮に政策的、軍事的合理性があったとしても、解釈変更で憲法をねじ曲げていいという理由にはならない。
 いまの政権のやり方は、首相が唱える「憲法を国民の手に取り戻す」どころか、「憲法を国民から取り上げる」ことにほかならない。
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近代に日本は3度の大きな戦争を繰り返してきた。日清、日露、太平洋戦争であるが、それぞれの時代の状況と似てきていることを見ます。
 
 
非戦論の原理(内村鑑三 )
 
明治41年8月10日
 
 
1.学者の態度
 
私は、今日は非戦論の原理について申し上げたいと思います。しかし本論に入るのに先立って、私は一言諸君に申上げて置かなければならないことがあります。
 
即ち、私が非戦主義を懐くのは、それが真理であることを、私が悉く証明し尽くしたからではないという事、その事です。
 
世の中のたいていの人は、自分が奉じる主義信仰と言えば、これには一点の懐疑も、また加えるべき一点の非難も無いものであるように思います。しかしこれは、真理を愛する学者が持つべき心の態度ではありません。
 
学者は懐疑を許します。非難を歓迎します。そして主張と非難とを比べてみて、二者のうちの真理の多い方を取ります。ゆえに彼の提供する説は、完全な真理ではありません。そのような真理を提供し得る者は、人間の中に一人もいないはずです。
 
私が捧持する真理は、完全な真理であると称する者は、神でなければ狂人です。私達人間は、より大きな真理を供するまでです。そして他人の批評を待って、さらに大きな真理に達するまでです。
 
 
私は今は、非戦主義を懐きます。私は、非戦論は道理として最も正しく、道徳として最も高く、政略として最も賢い主義であると思います。しかしそうは思うものの、非戦論に多くの非難すべき点がないとは言いません。
 
その反対の主戦論にも、また多くの採るべきところがあります。少なくとも同情を寄せるべき点があります。
 
私は、非戦論を証明し尽くしたとは言いません。これを宇宙進化の理から考えてみても、また実際にこれを行う点から考えてみても、これに多くの非難すべき点があることを認めます。
 
私は、より大きな真理としての非戦論を採るのです。絶対的な真理として、これを懐くのではありません。
 
そしてもし諸君の中に、そのような信念は半信半疑の信念であって、聞くに足りないと言われる方が居られるなら、その方は公平を愛する学者の精神を有(も)たない方と認めますので、私の講演中は、今から直ちにこの場から退かれることを願います。
 
 
 
2.戦争が悪事であること
 
さて、戦争が悪い事であることは、誰でも承知しています。如何に戦争好きの人でも、戦争は善い事であると言い得る人は一人もいません。戦争に対する普通の弁護は、「戦争は戦争を止めることである」との事です。
 
漢字の「武」は、戈(ほこ)を止めるという意であるとの事です。平和のための戦争であって、戦争のための戦争ではないとは、誰でも言うことです。ゆえに私は、ここに戦争が悪いという事を述べる必要はありません。
 
その事は、世界一般に知られています。あたかも、売淫制度が悪い事が一般に知られているのと同然です。誰も貸座敷は善いものであると言う者はいません。ただ、悪いけれども止むを得ないと言うまでです。人類一般が、それが悪事であることを認める一点においては、戦争は売淫と少しも異なりません
 
ゆえに道徳の立場から見て、私はもちろん戦争を憎みます。しかし、どれだけ憎むか、それが問題なのです。憎悪にも強いのと弱いのとがあります。憎んでも許しておく憎悪があります。これを排除しなければ止まない憎悪があります。
 
貸座敷は悪いものであるけれども、残しておいてさほど害がないという憎悪と、貸座敷を残しておけば、自分の家庭も社会も終には国家までも滅びてしまうという激烈な憎悪とがあります。
 
そして戦争に対する私の憎悪は、前者の生ぬるい憎悪ではなくて、後者の熱い憎悪です。私は私の全心全性を傾けて、これを嫌います。あたかも故ビクトリア女皇がこれを嫌われたように、これを嫌います。
 
伝え聞くところによれば、彼女は老年に進むに従い、戦争をますます甚だしく嫌われ、「私は私の在世中、再び戦争の宣告に署名しないであろう」とまで言い張られたこともあるそうです。
 
ところが英国の憲法により、民の欲するところは皇帝もまたこれを了承しなければならないので、止むを得ずあの最も不幸な戦争、南ア戦争の宣告に署名されたので、彼女の心は常に安からず、終に彼女の崩御を数年早めたということです。
 
憎悪はもちろん感情であり、道理によって量るべきものではありません。しかしながら、感情にも高いものと低いものと、鋭いものと鈍いものとがあります。深い道徳は、鋭い感情を作ります。
 
女皇陛下の戦争に対する憎悪は、ヒステリー的であるとばかりは言えません。彼女は、最も常識に富む婦人であられました。彼女が戦争を嫌われたのは、彼女と同時代同国の人であった哲学者スペンサーが、非常にこれを嫌ったのと同一の原因に基づくものであると思います。
 
道理の問題は別にして、小さい私も今は非常に戦争を嫌います。私は、今は英国非戦主義第一等の政治家であったジョン・ブライト( http://en.wikipedia.org/wiki/John_Bright )と共に言います。「人類の罪悪を一括したもの、これが戦争である」と。
 
3.戦争と天然
 
しかし人は言います。戦争は広く天然に行われており、戦争は天然の法則であって、また進化の理であると。なるほど、戦争は広く天然界に行われます。優勝劣敗の理は、天然界の至る所で行われます。私は天然界における戦争の実在と、またある点から言えば、その利益とを認めます。
 
しかしながら、ここに一つ注意しておくべき事があります。それは、天然の法則は、戦争だけに限らないことです。天然界には、戦争と共に共同一致も行われます。愛憐犠牲も行われます。
 
万物が進化して今日に至ったのは、戦争だけによりません。優勝劣敗を戦争だけに限るのは、ごく浅薄な天然観です。獅子はなるほど鹿や兎を食らいます。獅子と鹿とが相対すれば、勝利はもちろん獅子に帰します。
 
しかし、鹿には獅子にないものがあります。それは、群居の性です。したがって多少、和合一致、相互共済の性があります。ゆえに戦争においては、鹿は獅子に負けますが、繁殖においては、獅子は鹿に負けます。
 
ゆえにインドやアフリカの地方において、獅子が絶えても鹿が絶えない所が沢山あります。獅子は、その牙と爪が鋭いために鹿に勝ちますが、その猛烈な攻撃性のために、終には弱い鹿に負けます。
 
天然界を修羅の街衢(ちまた)と見るのは、大きな間違いです。天然界は修羅の街衢ではありません。やはり愛と正義とが最後の勝利を占める家庭の一種です。
 
 
広く天然界をその大体について観察して御覧なさい。その中で最も高い、最も貴い、最も美しいものは、強い、猛々しい、巨大なものではありません。
 
もし力の一点から言えば、最も強いものは、ニシキヘビとワニとです。しかし、ニシキヘビとワニとがこの世界の主人公であると、誰が言いますか。詩人ワーズワースが歌った牝鹿は、弱くて脆(もろ)いですが、しかし遥かにニシキヘビやワニ以上の動物です。
 
鷲は一番強い鳥ですが、鳥類の王は鷲ではありません。木陰の涼しい所に、五色の錦繍(にしき)を水面に映すカワセミは、遥かに鷲以上の鳥です。
 
もし力の一点から言うならば、原始の人はゴリラやチンパンジー等の猿猴類より遥かに劣った動物でした。ところがこの弱い人類が、終に世界の主人公と成ったのです。
 
もし戦闘的な優勝劣敗が天然界を支配する、唯一最大の勢力であるならば、この世界は全くニシキヘビ、ワニ、鷲、ゴリラ等に属していたでしょう。
 
ところがそうではなくて、獅子や虎は絶えても、その獲物となった鹿や兎は繁殖し、鷲は山深く巌高い所にその巣を作るのに対して、カワセミは里に下りて、水辺を飛び、ゴリラやチンパンジーはわずかに熱帯地方の深い森にその種族を保存するだけなのに、人は全世界を覆って、至る所に文明を進めつつあります。
 
これを見て、天然界は決して、強者必盛、弱者必滅の世界ではないことが、最も明白に分かります。
 
主戦論は、これを天然の事実に訴えて、その説を維持することは出来ません。天然を深く学べば、天然は戦争の奨励者ではなくて、却って平和の宣伝者であることが明かに分かります。
 
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