内村鑑三 マタイ伝 51講-1馬太伝第十三章の研究

51-1 マタイ伝-1
 
馬太伝第十三章の研究
大正6210日・410 『聖書之研究』199201  署名内村鑑三
注意、読者は此篇を読む前に本文を両三回精読するを要す
 
○馬太〔マタイ〕伝十三章は主としてイエスの語り給ひし七個(ななつ)の比喩談(たとえばなし)を載せたる章である、一見して比喩談を書集(かきあつ)めし者のやうに思はれるが、然し深く其順序に注意して、其決して偶然に成りたる比喩の蒐集(しうしう)で無いことが判明(わか)る、是は寧ろ比喩を以てせる一の説教と見るが当然である、七の比喩は前後相連続せる思想又は教訓又は預言を語る者であつて、其の相互の関係を明かにして始めて各個の比喩の意味を明かにすることが出来るのである、七の比喩を挙ぐれば左の通りである、
第一播種(たねまき)の比喩(たとへ)(三―二三節)
 
第二稗子(からすむぎ)の比喩(二四―三〇節。三六―四三節)
 
第三芥種(からしだね)の比喩(三一―三二節)
 
第四麪種(ぱんだね)の比喩(三三―三五節)
 
第五蔵(かく)れたる宝(たから)の比喩(四四節)
 
第六好き真珠の比喩(四五、四六節)
 
第七引網(ひきあみ)の比喩(四七―五〇節)
 
○七個の比喩(たとへ)は福音史の七段落を語りたる者である、或は之を教会史の七章とも見ることが出来る、キリストの伝道を以て始まりたる福音の宣伝より世の終末(おわり)に至るまでの基督教歴史を七段に分ちて論じたる者として見ることが出来る、故に語体は比喩であるが主旨は預言である、主イエスは茲〔ここ〕に比喩を以て彼の伝へ給ひし福音の将来を明かに示し給うたのである、馬太伝第十三章は同第二十四章と同じくイエスの大預言と見て其意味が明瞭になるのである。
○第一播種(たねまき)の比喩(たとへ)は福音伝播に関する預言である、「種播く者播〔ま〕きに出でしが」とある其「種播く者」(the sower)とは或る特別の一人の播種者を指す者であつて主イエス御自身である、イエスは最初の伝道者であつて又最後の伝道者である、伝道はすべて彼に由りて行はるゝものである、我等伝道師はすべて彼の器具たるに過ぎない、播種(たねまく)者(もの)は実に彼れ一人である、而〔しか〕して彼れイエスが播き給ふ福音の種が悉〔ことごと〕く生(はえ)るかと云(い)ふに決して爾(さ)うではない。
其或者は路(みち)の傍(ほとり)に遺(お)ちて空の鳥の啄(ついば)み尽(つく)す所となり、或者は磽地(いしじ)に遺(お)ち直〔ただち〕に萌 出(はいえで)たれども根なきが故に枯(か)れ、或者は棘(いばら)の中に遺(お)ちその蔽〔おお〕ふ所となりて滅ゆ、只〔ただ〕沃壌に遺ちたる者のみ生長て実を結び或は百倍或は六十倍或は三
きよきちおそだち十倍の実を結ぶと云ふ、斯〔か〕くて福音宣伝は其初めより失望的事業である、主イエスが下(おろ)し給ふ真理の種なりと雖〔いえど〕も其すべてが生長するのではない、天然の草木に於けるが如く遺(お)つる種は多くして其中の生長つ(そだ)者は極めて少数であるのである、「彼れ己(おのれ)の国に来りしに其民之を接け(う)ざりき」とは此世に於けるイエスの運命であつて又今日に至るも猶〔な〕ほ彼の福音の運命である、所謂〔いわゆる〕伝道の失敗は単に伝道師の無能にのみ帰すべきではない、仮令〔たとえ〕イエスキリストが直接行ひ給ふと雖も伝道の失敗は免がれないのである、それは接(う)くる霊魂が悪いからである、福音は純正であらねばならぬ、其れと同時に霊魂が善良であらねばならぬ、種に適応する土地があつて始めて植生は生長して実を結ぶのである、是れ誠に歎かはしき事実である、同時に又慰安に富める事実である、イエスが播
みき給ふ種ですら枯死する者が多くして生長する者は尠〔すくな〕しと云ふ、然らば失望せずして播くべきである、「涙(なみだ)と共に播く者は歓喜(よろこび)と共に穫(かりと)らん、其人は種(たね)を携(たずさ)へ涙を流して出往(いでゆけ)ど禾束(たば)を携へ喜びて帰り来らん」とある(詩篇百廿六篇) 伝道即ち真理の播種(たねまき)は必然涙の伴ふ事業である。
 
○播かるゝ種は多くして生える種は尠い、而して生える種は安全に生長(そだ)つ〔か〕乎と云ふに決してそうではない、是れ第二の比喩即ち稗子(からすむぎ)の比喩(たとへ)の教ゆる所である、麦の中に稗子が生長する、稗子即ちパレスチナ地方に産するジザニヤは外形は麦に似て而かも全く其性質を異にする雑草である。農夫は是(これ)と彼(かれ)とを区別する能〔あた〕はず、故に結実までは敢て二者を分離せんと努めず、草禾熟して二者判然するを俟(まつ)て稗子は之を抜集(ぬきあつ)めて〔た〕焚き、麦をば之を倉に収むるのである(廿四節以下三十節まで、並に三十六節以下四十三節までを見よ)、而して福音の結べる実なる信者も亦〔また〕此状態に於て在るのである、福音と没交渉なる此世全体と、一度福音を接(う)けて後之を棄てし多数の堕落信者とに囲繞〔いによう〕せらるゝのみならず多くの偽はりの信者と混合して其信仰的生涯を送らねばならぬのである、不信者堕落信者を相手にして戦ふの困難の外に偽〔いつ〕はりの信者と共に立たざるを得ざるの言ひ難きの苦痛がある、実(まころ)パウロが彼の遭遇せし困難を算(かぞ)へ立てゝ「河の難盗賊の難、同族の難、異邦人の難、城裡(まち)の難、野中(あらの)の難、海中の難」(とかき)つらねて更らに「偽(いつわり)の兄弟の難」と書加(かきくわ)へしを見て、彼の時代に既〔すで〕に稗子(からすむぎ)即〔すなわ〕ち偽信者の教会内に繁茂して居つたことが判明(わか)る(哥林多〔コリント〕後書十一章二十六節) 何故に然るか我等は其理由を知らない、畑の主人は僕(しもべ)の問に答へて「敵人(あだびと)之(これ)を行(な)せり」と云ひしのみである、悪魔が此事を為すのである、外より信者を破壊せんとて努めしも能はざりしかば信者に似たる者を其中に遣(おく)りて内より之を滅(ほろ)さんとしつゝあるのである、信者の在る所には必ず偽信者が在る、而して外形上二者を区別することは能(でき)ない、稗子の麦に似る如くに悪魔の子類(こどもら)は天国の諸子(こども)に似る、而して現世に於て強(し)ひて二者を分別せんと欲して反〔かえつ〕て大なる害毒を信者の上に招くのである、故に収穫(かりいれ)まで之を放棄し置けよと主は命じ給ふのである、悲むべき事実である、然〔しか〕し乍〔なが〕ら避け難き止〔や〕むを得ざる事実である、人生は現世に於ては到底完成せらるべき者ではない、収穫期(かりいれどき)に入りて即ち此世の終末(おわり)に於て稗子は斂(あつ)められて火に焚かれ、義人(ただしきひと)は其父の国に於て日の如くに輝くのである、其れまでは待望である。
 
○福音の種は播くに難(かた)く生長(そだつ)に難し、種は鳥に啄(ついば)まれ易く日に灼(やか)れ易く、禾(か)は他草の擬似(ぎじ)する所となりて其生長を妨げらる、然れども一たび擬似草の混合する所となるや其生長は迅速(すみやか)である、而(しかし)て悪魔の子類(こどもら)の混合に由り界精神の注入を受けて信者の団体たるべき地上の天国は倏(たちま)ち生長して現世(このよ)の大勢力となるに至る、此事を語りた
る者が第三の比喩(たとへ)即ち芥種(からしだね)の比喩である、「天国は芥種の如し、人之を取りて畑に播けば万(よろず)の種よりも小けれども生長(そだち)ては他の草よりも大なる者となりて、天空の鳥来りて其枝に宿る程の樹となる也」とある、実に小なる福音の禾苗は世界精神の注入に由り倏ち生長して大なる樹となり、即ち大なる教会となり、而して天空の鳥、即ち空中を宰(つかさど)る者、即ち悪魔彼れ自身が来りて其枝、即ち教会の蔭に宿るなりとの事である、茲に鳥とあるは鴬、鳥、紅雀、鳩、雲雀等の美くしき愛らしき鳥を指して云ふのではない、鷲、鷹、鳶(とび)、梟(ふくろう)等の嫌(きらう)ふべき悪むべき鳥を指して云ふのである、聖書は鳥の美に就て語ることは稀である、「空中の鳥来りて(種を啄(ついば)み尽せり」と云ひ(四節) 空中にある諸権を総宰‘(すべつかさど)る者と云ひ(以弗所〔エペソ〕書二章二節) 「空中に飛ぶ鳥に大なる声にて呼び曰ひける凡の人の肉を食らへ云々」と云ふ(黙示録〔もくしろく〕十九章十七) 即ちすべて悪しき意味に於ての鳥である、シリヤの大鷹(おほたか)又は兀鷲(はげわし)の類である、小羊を浚(さら)ひ去り砂漠に死せる駱駝の肉を啖(くら)ふ肉食鳥である、而して斯かる鳥が急に生長せし樹の枝に来りて宿ると云ふのである、疑ひもなく悪魔が急に勢力を得し教会に宿ると云ふことである、さきには悪魔の子類(こどもら)をして天国の諸子(こども)の中に混入せしめ、福音を淆乱(みだ)さしめ聖徒の団体を俗化せしめ、而して終(つい)に其の化して俗的勢力なる教会となりて現はるゝや空中の諸権を総宰(すべつかさど)る悪魔彼れ自身が降り来りて其の(教会の)中に宿ると云ふ、是れが此比喩(たとへ)の明白なる意味であると思ふ、福音は其れ自体にては決して急に生長して社会的勢力となる者ではない、世に嫌はれ人に憎まるゝが福音の特性である、然れども一朝悪魔の子類(こどもら)の混入に由りて福音が化して教会と成るや其生長は急劇である、而して芥種(からしだね)が一夜にして萌出(はえい)で、数日ならずして樹の如き者となるが如くに教会は数年ならずして世界的勢力となり、政治家、実業家、高等官吏、曲学阿世の学者等が争ふて其内に入り来り、神聖を衒(てら)ふと同時に聖所の安全を利用して自己の安全を計らんとするのである、実に驚くべき意味深長の比喩である、神の子に非ざれば語る能はざる比喩である、而して主イエスの此比喩的預言は彼の福音の宣べらるゝ所には世界到る所に実現せられ、天地は廃(すた)るとも主の聖語(みことば)の廃(すた)れざることを証して余りあるのである、欧洲に於ける基督教が此預言通りに実現したことは人の能く知る所である、羅馬〔ローマ〕天主教会が一時悪魔の大巣窟たりしことは歴史の明かに示す所である、法王中に正さに悪魔の体現と見るべき者の在つた事は何人も否認すべからざ
る事実である、然し乍ら事は羅馬〔ローマ〕天主教会に止まらないのである、其反対として起りし新教諸教会に於ても同一の現象が現はれたのである、悪魔は羅馬〔ローマ〕天主教会に宿りしのみならず又英国聖公会にも宿つたのである、英国史を読みし者は知るのである英国聖公会に教権を握りし監督其他の役僧の内に多くの悪魔の権化の居りしことを、
彼等は政府と結托して神の名に由りて民の自由を奪ひ神の教として迷信を伝へ無辜〔むこ〕を窘(くる)しめ、聖徒を殺したのである、然し乍ら新教諸教会中英国聖公会のみが此罪を犯したのではない、若〔も〕し其罪を糺弾(きうだん)するならば長老教会、組合教会、バプテスト教会、メソヂスト教会、其他有りと有らゆる凡(すべ)ての教会は無罪たるを得ないのである(罪に軽重の差こそあれ)、教会の清きは貧にして無勢力なる間丈けである、一朝勢力を得るに至れば孰〔いず〕れの教会も天空(そら)の鳥即ち悪魔の宿る所となるのである、米国今日の新教諸教会の腐敗堕落の如き最も明白に此の真理を語るものである、而して吾人は今や同一の現象を我国に於ても見んとしつゝある、今や我国に於ても基督教会の迫害時代は過ぎて其勢力時代は来らんとしつゝある、而して此時に際して今や天空(そら)の鳥なる悪魔は我国の教会にも宿らんとしつゝある、所謂大教会なる者に注意せよ、其中に出入する者は誰ぞ、政治家は入りつゝある、大商人は入りつゝある、曾〔かつ〕てはキリストの僕〔しもべ〕を国賊視して之を窘(くるし)めて得意たりし者は今や「求道の志を起し」信者の籍に入りつゝある、今や此日本国に於ても基督信者(実は教会信者)たるは社会的名誉たるに至つた、「耳ありて聴(きこ)ゆる者は聴くべし」である(第四三節) 〔以上、210
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