内村鑑三 マタイ伝 50講 赦さるべからざる罪

50 マタイ伝
 
赦さるべからざる罪
明治34620日『聖書之研究』10号「思想」  署名内村鑑三
 
人々の凡て犯す所の罪と神を涜〔けが〕すことは赦されん、然れど人々の聖霊を涜〔けが〕すことは赦さるべからず、言を以て人の子に背く者は赦さるべし、然れど言を以て聖霊に背く者は今世に於ても亦来世に於ても赦さるべからず、(馬太〔マタイ〕伝十二章三一、三二節)
人の凡ての罪と涜(けが)す所の褻涜(けがし)は赦さるべけれど聖霊を涜(けが)す者は限りなく赦さるべからず、限りなき刑罰に干〔あず〕からん(馬太伝二章二八、二九節)
〔馬可伝三章〕
凡そ人の子を謗(そし)る者は赦さる可(べ)けれど聖書を褻(けが)す者は赦さるべからず(路可〔ルカ〕伝十二章十節)
 
聖書に赦さるべからざる罪として記さるゝもの唯一なり、即ちイヱスの言として以上の三個所に掲げらるゝ所のものなり、即ち聖霊を涜すの罪にして、此罪を犯す者は今世に於ても亦来世に於ても赦さるべからずと云ひ(馬太マタイ)、亦限なき刑罰に干(あず)からんと記さる(馬可マルコ)
此一事は明白なり、然れども聖霊を涜すの罪とは如何なるものか、是れ吾人の精究を要する問題なり、神の寛大なる、彼は吾人の凡て犯す所の罪を赦し給ふと宣〔の〕べらる、姦婬〔かんいん〕の罪、艶惰〔らんだ〕の罪、友を売るの罪、約束を破るの罪、是れ皆な罪は罪にして聖き神の前には実に醜〔にく〕むべき罪悪として認めらるべきものなれども、而〔しか〕も恩恵に富み給ふ神は之を以て赦さるべからざる罪と見做〔みな〕し給はず、マグダリヤのマリアの婬婦たりしにも係はらず、彼女を赦して聖徒の一人となし、ペテロの彼の聖主を否〔いな〕みしことありしにも係はらず彼を赦して貴き使徒の首(かしら)となし給へり、因〔よつ〕て知る吾人時には神を疑ふことあるも神は寛裕〔かんゆう〕を以て吾人を迎へ、亦甚しきに至てはタルソのパウロの如く或る時はキリストの名を涜し、彼の聖徒を窘(くる)しむるために吾人の熱血を注ぎしことあるも、神は敢て吾人を
敵視することなく、尚ほ吾人を諭〔さと〕すに吾人の闇愚〔あんぐ〕を以てし、「荊(とげ)ある鞭(むち)を蹴る」ことの全く無益なるを示し、吾人をして彼に就て吾人の腐れたる霊魂の医癒〔いゆ〕を懇願せしむ、「神の慈(いつくしみ)と厳(おごそか)なることを観よ」、彼はたゞ一つの罪の吾人を永遠の刑罰に導くあるを示し給ふと同時に自他の百千万の罪の一つとして彼の永遠の忿恚〔いかり〕を価するものなきを宣べ給ふ。
吾人は神を涜すことの何たる歟〔か〕を知る、即ち彼の造り給ひし此宇宙と其中に在る凡ての物(かたち)を濫用し、亦彼の像に象(かたど)られて造られし人を害〔いと〕ふ事是なり、吾人は亦人の子(基督)を謗〔そし〕ることの何たるを知る、即ち彼の愛する最も
微(ちいさき)き者を窘(くる)しめ、彼の命召を蔑(ないがしろ)にし、彼が幾回となく吾人に降し給ふ所の恩恵を斥け、以て恬〔てん〕として耻ざること是なり、吾人は是等の罪の凡て赦さるべしと聴て吾人の心を剛愎(かたくな)にすべからず、そは知て従はざるは赦さるべからざるの罪に近づくの第一歩なればなり、吾人は亦知る、聖霊を涜すの罪は必しも良心の命に逆〔さから〕ふの罪にあらざることを、そは罪として良心の譴責〔けんせき〕を感ぜざるもの殆んどあるなく、随〔したがつ〕て良心の命に逆ふの罪にして今世来世に於ても赦さるべからざるものとせば世に赦さるべきの人は一人も存すべからざればなり。
神を涜(けが)すことにあらず、基督を謗(そし)ることにあらず、亦良心の命に逆ふことにあらずとせばキリストの此所に謂はるゝ赦さるべからざるの罪とは抑〔そもそ〕も如何なる罪ぞ、是れ吾人の切に知らんと欲する所のものなり。
 
いまこの惶〔おそ〕るべき罪の何たる乎を知らんと欲せば之をキリストが此言を発せられし時の事情に稽〔かんが〕へざるべからず、是れ彼が瞽(めくら)の瘖(おし)なる者を医(いや)せし時パリサイの人が彼は鬼の王ベルゼブルを役(つか)ふて此事を行(な)せりと云ひし時に、キリストが其然らざるを説明せし後に発せられし言なりとす、(馬太〔マタイ〕伝第十二章二二節以下)、即ちキリストを鬼に譬へ、善行を悪人に帰せしパリサイ人を評せられし言なりとす、キリストは亦〔また〕語を続けて曰へり「善人は心の善庫(よきくら)より善きものを出し、悪人はその悪庫より悪きものを出せり」(三五節)と、即ち善行の悪人より到底出づべからざるものなるを示されしなり。
斯くて前後の連続より察して吾人は聖霊を涜(けが)すの罪の意識上の大罪悪なるを推測するに難からず、即ち善と知りつゝ悪を語り悪を行ふの罪にあらずして(是れ偽善なり)、善を悪なりと断定するの罪ならずんばあらず、是れ勿論誤想以上(或は以下と云はんか)の罪にして其深遠なる実に量るべからざるものあり。
 
善を為せるキリストを悪人なりと云ひしのみならず亦彼を以て鬼の王の力を藉〔か〕る者なりと做〔な〕し、病者の癒されしを見て喜ばずして返て之を医せし者の真意を疑ふ、是れ実に極悪ならずや、故に馬可〔マルコ〕は之に附記して云へり「斯くいへるは人々イヱスを悪鬼に憑(つか)れたりと言ひしが故なり」と(二章三十節)、彼等パリサイ人はイヱスは単に狂せりと曰ひしにあらず、是れイヱスの兄弟の曰ひし所にして彼等の此言に大に恕〔ゆる〕すべき所あり、亦彼等パリサイ人はイヱスは国威を害する者なりとして彼を窘〔くるし〕めざりしなり、是れパウロの為せし処にして彼パウロ愛国心に賞すべき所あり、パリサイ人が此言を発せしは彼等が精究琢磨〔せいきゆうたくま〕の結果(パリサイ人は皆な該博なる学者なりし)イヱスの如きを以て鬼に憑〔つ〕かれし者なりと固く信ぜしに因る、勿論彼等が此確信に達せしは彼等の獰悪〔どうあく〕の意志が彼等をして茲に至らしめしに因ると雖も、而も智識上の研究鍛錬を堆〔つ〕まずして彼等は此冷静にして而も大胆
なる結論に達せざりしなり。
彼等がイヱスに就て此断評を下すに方〔あたつ〕て一つの感情の彼等の判定力を乱すあるなし、彼等は静かに、熟慮して、イヱスは悪鬼に憑〔つ〕かれたりと断定せり、而も記憶せよ眼前に医〔いや〕されし瞽を控へつゝ。是れ実に赦さるべからざる罪ならずや、彼等は感情に駆られて此判断を下せしにあらず、彼等に遺伝貧困の此結論を促すありしにあらず、彼等は神学者として、教師として、牧師として、伝道師として、神より秘密を授けられし者として、安らかも、穏かも、偏する所少しも無きが如くに、最も公平なるが如くに、こゝにイヱスは悪鬼に憑かれたりと断定せしなり。
而して余輩は如斯〔かくのごと〕き人が如何にして赦さるべき乎を思惟する能はざるなり、意志の根底まで腐りしに加へて之を賛〔たす〕くるに該博なる智識を以てす、若〔も〕し神にして悪を善と為し得べき者と做さばいざ知らず、善を善とし悪を悪とする者にして斯くも意識の両方面より全心の硬化せる者を救はんことは余輩の想像以外にあり、意にして狂はんか、識を以て之を正すを得ん、識にして足らざらん乎、之に新智識を注入して其闇冥〔あんめい〕を展〔ひら〕くを得ん、然れども邪悪的に発達せる意志に加ふるに枉屈的に上達せる智識を以てす、人、此淵〔ふち〕に沈淪〔ちんりん〕して彼の救済は望むべからず。
聖霊を涜(けが)すの罪とは斯の如きものなりとせば吾人は聖霊行働の区域の意志其物にあらずして主として其智能(インテレクト)にある事を認めざるべからず、之を聖書に稽〔くら〕ぶるに聖霊は常に智能の開明者として示さる、イヱス曰く「我が名に託〔よ〕りて父の遣(つかわ)さんとする訓慰師(なぐさむるもの)即ち聖霊は衆理(すべてのこと)を爾曹(なんじら)に教へ」ん(約翰〔ヨハネ〕伝十四章二六節)と、以て聖霊は神が吾人に下し給ふ智識上の大教師なるを知るべし、パウロは又曰く霊(みたま)は万事(すべてのこと)を究(たずね)知(し)りまた神の深事(ふかきこと)をも究(たず)ねし知るなりと(哥林多〔コリント〕前書二章十節)、以て聖霊が神に関する万事(すべてのこと)の探究者なるを得るべし、予言者イザヤは之を智慧聡明の霊、謀略才能の霊、智識の霊と称へり、(以賽亜〔イザヤ〕書十一章二節)、故に聖霊が万事を吾等に顕はすと云へるは之を吾等の理会力に示すの謂ひなるを知らざるべからず、霊は霊に感ずとか称して神が人と相通ずるに方〔あたつ〕ては吾人の智能に依らざるが如く思ふは聖書の吾人に示す所の教義に反す。
人多くは新約聖書に於て聖霊の訓慰師(なぐさめるもの)と称せらるゝを観てその行働の区域の吾人の感情に在りとなす、然れども是れ未だ吾等基督信者の神より給はる慰藉の何たる乎を知らざる者の言なり、吾等は酔客が婬謡に臥するが如く、或は支那人が阿片〔アヘン〕に酔ふが如くに只僅かに一時吾等の悲痛を忘れんと欲する者にあらず、吾人は宇宙の大道に則〔のつと〕り、苦痛の大理を解し、酔ふて寝る者の如くならずして醒〔さ〕めて働く者の如くに慰められんことを欲ふ、因〔よつ〕て知る吾等を慰むる者は吾等の理性に訴ふる者ならざるべからざることを、因て知る神が吾等を慰められんとするや先づ神の真理を吾等の智能に伝へ以て吾等の霊魂を慰めらるゝことを。
聖霊行動の区域は主として吾人の智能にありとせば聖霊を涜すの罪とは罪に眩(くら)まされし吾人の智識を以て聖霊の明白なる告知を打消すことならざるべからず、而して其如何に重大なる罪過なる歟〔か〕は吾人の生命に於ける信仰の勢力の如何に高且つ遠なる歟〔か〕を知て始めて知るを得べし。
信仰は心の事にして智の事にあらずと做〔な〕す者は謬れり、信仰は聴て始めて起る者にして、耳に聞かず眼に読まずして信仰を起せし者曾〔かつ〕てあるなし、聖霊を否むは其教訓を否むなり、而して之を涜すとは之をして終に吾人の霊魂に神の真理を伝ふるを得ざらしむるに至ること是なり、即ち神と善悪とに関する吾人の判断力が全く転倒せられて善は悪となりて現はれ、悪は善とし認められ、神御自身を視て鬼の王なりと信ずるに至ること是なり。
故に怕〔おそ〕るべきは智能の濫用なり、感情遺伝の罪悪は之を医すに途あり、然れども硬化せる智能の罪悪に至ては之を精神上不治の病と称するの外なし、是れカタラクト症の眼球に於けるが如きもの、光明の心髄に通ずべき途なきに至る、故に聖書は云へり「是故に聖霊の云へる如くせよ、爾曹〔なんじら〕もし今日其声を聴かば野に在て主を試みた
る日その怒を惹〔ひ〕きし時の如く爾曹〔なんじら〕心を剛愎(かたくな)にする勿れ」と(希伯来〔ヘブル〕書第三章七、八節)、聴て之を拒み、拒で止まざれば神を識るの理会力は硬化して終〔つい〕には聖霊の声に全然無感覚なるに至らん。
因て知る聖霊を涜すの罪は神を識りしことなき者の犯す罪にあらざるを、是れ福音を耳にし、神学を究め伝道に従事する者の最も陥り易き罪なりとす、余輩が屡〔しばし〕ば若し世に永久の刑罰に干〔あず〕かるべき者ありとせば彼は今日世に教役者と称せらるゝ者の中にあらんと云ひしは之がためなり。
是れ罪悪の最も深遠なるもの、其最も精神的なるものなり、其全く内心的なるが故に之を外面に認る難し、然れども其之に陥りし者をして道徳的不具者たらしむるを見て、吾人は略〔ほ〕ぼ之が捕虜となりし者の何人なる乎を識別するを得べし。
然れども慎めよ、吾人之を識るも之を口外すべからず、そは斯くして吾人は他人の僕(しもべ)を鞫(さば)く者とならんことを恐るればなり。
 
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