内村鑑三 マタイ伝 53ー1地上の教会に関するイエスの比喩的予言-1

53-1 マタイ伝
 
地上の教会に関するイエスの比喩的予言-1
馬太伝第十三章の研究(四月廿八日東京数寄屋橋教会に於て)
明治45510 『聖書之研究』142   署名内村鑑三
 
福音の真理を講ずるに方〔あたつ〕て、何にも必しも聖句(せいく)と称して聖書の一節又は数節に依るの必要はない、其一章に依るも可なりである、其一書に依るも可なりである、聖書は豊富(ほうふ)なる金鉱の如き者である、鉱山として貴くある、又鉱脉として貴くある、又金塊(きんくあい)として貴くある、聖書の言〔ことば〕は一言一句悉〔ことごと〕く純金である、是を黄金(こがね)に較(くら)ぶるも、多くの純精金(まじりなきこがね)に較ぶるも、いや優〔まさ〕りて慕ふべしである(詩篇十九の十)、然し金塊は相連り(つらな)りて鉱脉を成して居るのである、或ひは一章を成し、或ひは数章に渉〔わた〕りて金言玉語は相繋(つな)がりて真理の頚飾(くびかざり)を成して居るのである、而〔しか〕して鉱脉は相集(あいよ)つて真理の鉱山を成して居るのである、馬太〔マタイ〕伝と云ひ、路加〔ルカ〕伝と云ひ、羅馬〔ロマ〕書と云ひ、哥林多〔コリント〕前書と云ひ、約翰〔ヨハネ〕書と云ひ、黙示録〔もくしろく〕と云ひ、夫々(それぞれ)真理の鉱山である、我等は其採掘に従事して真理の無尽蔵に接せざるを得ない。
 
今茲(いまここ)に研究せんとする馬太伝第十三章の如きも亦〔また〕価値貴き真理の鉱脉の一つである、茲に地上の教会に関するイエスの教訓が順をなして示されてあるのである、言ふまでもなく其五十三節が悉く金科玉条である、乍然、〔しかしながら〕全章に渉りて一大教訓が伝へられてあるのである、全章が一大説教である、余は今茲に字句の詳細に入りて之を説明せんと為(し)ない、全章の意義を瞭〔あきら〕かにせんと欲する。
エスは彼の名に因〔よつ〕て建てられんとせし天国、即〔すなわ〕ち此場合に於ては地上の教会の建設、組織、成長、変体、復興、貴尊、終局等に就て如何〔いか〕に観(くわん)ぜられし乎〔か〕、是れ此章の伝ふる所である、而してイエスは此重大なる事項(ことがら)を伝ふるに方(あたり)て比喩(たとへ)を以てせられたのである、堂々たる議論を以てせずして卑近の比喩談(たとへばなし)を以てせられたのである、
 
馬太伝第十三章に基督教会過去二千年間の歴史が洩〔も〕れなく予言されてあると言ふことが出来る、又未来終末に到るまでの成行(なりゆき)が悉く示されてあると云ふことが出来る。
教会建設は如何にして成る乎とは播種(たねまき)の比喩(たとへ)の示す所である、此比喩の示す所に従へば、人は悉く福音を聴いて之を信ずる者ではない、或る人は、然り、多数の人は、福音を耳にするも之を受けず、或る人は受くるも直〔ただち〕に之を棄て、或る他の人は信ずるも実を結ぶに至らずして枯る、而して極めて少数のみ信じて百倍或ひは六十倍或ひは三十倍の実を結ぶに至ると、即ち世を駆て悉く信者に成さんことは是れ望むべからざる事である、召さるゝ者は多くして択(えら)まるゝ者は尠くある、一国を挙げて基督信者と成さんとするが如きは無謀の企画(くわだて)である、伝道如何に善く功を奏するも社会を挙〔こぞ〕つてキリストに従はしむることは出来ない、光は暗(くらき)に照り暗(くらき)は之を暁〔さと〕ざりきとは古今東西に亘〔わた〕りて変らざる真理である、基督者が国民の多数を占むるに至るが如きは是れ未来永劫に至るも望むべからざる事である、予言者イザヤの言ひしが如く「唯〔ただ〕少数者のみ救はるべし」である、我等は何故に然(しか)る乎(か)を知らない、イエスは爾(そ)う言ひ給ふた、而して今日までの事実が爾うである、神はすべての人の救はれんことを欲し給ふと雖〔いえど〕も、事実はたゞ少数者のみ救はるゝことを示すのである。
然らば世より択(えら)まれし少数者を以て組立られし教会は義人聖徒のみを以て成る団体である乎、此事を説明せし者が次ぎに来る稗子(からすむぎ)の比喩(たとへ)である、詳しき事は曾〔かつ〕て之を『聖書之研究』第百三十一号「毒麦の比喩」に於て述べて置いた、之に就て読まれんことを望む、稗子の比喩は教会の不純を示す者である、即ち其純潔無垢の者で無いことを示す者である、其中に真(まこと)の信者がある、同時に又(また)似而非〔にてひ〕なる信者がある、而して真(まこと)の信者と偽(いつわり)の信者は今の期(とき)に方〔あた〕ては之を判別する能はずとの事である、稗子(からすむぎ)は其実の熟するまでは之を真正(ほんよう)の麦と区別することが出来ない、真偽混合(しんぎこんごう)は此世に於て免(まぬ)かれざる所である、而して基督教会も亦其数に洩れない、多くの狼は羊の皮を被〔かぶ〕りて主の群羊(むれ)の中に居る、而して其神学を以つて、忠実らしき正統派の信仰を以つて、単純にして正直なる信者を欺く、教会は偽善者の巣窟なりとは余輩が始めて言ふたことではない、主イエスキリストが予〔あらかじ〕め、然かも、明かに唱へ給ふたる事である、稗子(からすむぎ)の比喩(たとへ)に由(よ)て地上の教会の決してキリストの花嫁でない事を知るのである、
 
以弗所〔エペソ〕書五章二十七節に謂〔い〕ふ所の汚点(しみ)なく皺(しわ)なく聖(せい)にして瑕(きず)なき教会は未だ曾て地上に在つたことはない、又在り得べからざる者である、地上の教会はすべて悉く玉石混合である、而してキリストは始めより明かに此事を示し給ふたのである。
而して此玉石混合、偽善者潜伏の教会は此世に於て如何に発達するのであらふ乎、是れ第三の比喩(たとへ)、即ち芥(からし)種の比喩の示す所である、此比喩に従へば教会は此世に在りて急速に成長する、芥種(からしたね)の成長する如くに成長する、芥は草本(くさ)である、然し一年にして樹の高さに迄達する、而して其枝は拡(ひろが)りて天空の鳥来りて其中に宿るに至る、其如く教会も亦始めは極く微々たる者であるが、然し数十年又は数百年ならずして(歴史的短時期に於て)大制度となり、終(つい)に王侯貴族をして其中に宿らしむるに至ると、此比喩に「天空の鳥」とあるは鴬(うぐいす)、駒鳥(こまどり)等の羽毛(はけ)美くして声麗はしき鳥類を指して言ふのではない、聖書に於ては鳥は大抵の場合に於ては悪しき意味に於て用ゐられて居る、此章の四節に於て「天空(そら)の鳥来りて啄(ついば)み尽せり」とある、而して真理の種を食ひ尽す所の此鳥の悪魔を示す者であることは第十九節に於けるキリストの説明に由て明かである、又以弗所(エペソ)書二章二節に「空中にある諸権を宰(つかさど)る者」なる言がある、而して前後の言〔ことば〕に照らして見て其、また悪魔を指す者であることは明かである、故に「天空の鳥」といへば、鷲(たか)、ミサゴ、兀鷹(はげたか)の如き猛禽(もうきん)を指して云ふのである、人に益を為す鳥に非ずして害を為す鳥を指して云ふのである、而して教会が成長して終に天空(そら)の鳥の宿る所となると云ふのは、終に此世の権者、富者、政治家等下民を圧する者の住所(すみか)と成ると云ふことである、黙示録記者の言を藉〔か〕りて言へば、教会は終(つい)に悪魔の住処(すみか)、又種々(さま〴〵)の汚れたる霊、及び穢れたる憎むべき鳥の巣となる、とのことである(十八章二節)、芥種の比喩は教会の急速なる成長に伴ふ其俗化を示したる者である、此世の権者、政治家、新聞記者輩の侮蔑嘲弄を以て始まりし基督教会は遠からずして彼等の住処、隠匿場所(かくればしよ)と化(な)り了(おわ)らんとのイエスの予言である、而して此比喩的予言は到る所に於て適中したのである、羅馬〔ローマ〕に在りては大帝コンスタンチンは自〔みず〕から基督信者となり、教会を其保護の下に置いて彼の圧制を施したのである、新教が独逸〔ドイツ〕に於て起れば、是れ又遠からずして政府の機関となつたのである、英国に於ける聖公会、露国に於ける正教会、孰〔いず〕れも天空(そら)の鳥の宿る所となりて真理と自由との圧制機関と成らざりしはない、而して若〔も〕し歴史は其れ自身を繰返(くりかえ)す者であるならば、同じ事が日本に於ても行はれないとは限らない、曾ては賎しめられし基督教会が社会の尊敬を惹〔ひ〕くに至り、政治家宗教の必要を唱へ、新聞紙之に和するに至て、基督教会は一転して世の謂〔いわ〕ゆる上流社会の慕ひ求むる所となり、終に彼等群をなして其中に巣を作るに至る、是れ最も恐るべき時である、而して余は既〔すで〕に斯〔か〕かる徴候を今日の我国の基督教会に於て見るのである、「我教会に勅任官あり」と云ひて誇る者、「我教会に陸海軍将官の家族出席す」と云ひて得々たる者、是れ皆な知らず識らずの間にキリストの芥種(からしだね)の比喩(たとへ)を実現しつゝある者である、微々たる基督教会、社会の歓迎する所となりて急速に成長し、貴顕紳士ら天空(そら)の鳥の住む処とならんと、是れ芥種(からしだね)の比喩(たとへ)が明白に伝へし所の予言である。