内村鑑三 マタイ伝 45講 信仰告白の必要

45 マタイ伝
 
信仰告白の必要
昭和5110 『聖書之研究』354  署名内村鑑三
 
然〔さ〕れば凡〔およ〕そ人の前に我を言ひ顕はす者を我も亦〔また〕天に在〔い〕ます我父の前にて言〔い〕ひ顕はさん(マタイ伝十章三十二節)
 
それ人は心に信じて義とせられ、口に言ひ顕はして救はるゝなり(ロマ書十章十節)
凡そイエスを神の子なりと言ひ顕はす者は、神、彼に居り彼れ神に居る也(ヨハネ第一書四章十五節)
○「言ひ顕はす」はギリシヤ語のホモロゲオーであつて公衆の前に、又は裁判所に於〔おい〕て、宣告又は告白するの謂〔いい〕である。故にイエスを神の子なりと言ひ顕はすとは、イエスに関〔かか〕はる我が信仰を世に告白又は発表するの意である。即〔すなわ〕ち信仰を我が内心の秘事として止めずして、之を外に発表して、我が立場を世に明かにする事である。そして斯〔か〕くなして我は救はれ、神との親密の交際に入るを得るとの事である。
○然〔しか〕るに事実如何〔いかん〕と云〔い〕ふに、多くの信者は信仰の告白を避けて敢〔あえ〕て為〔な〕さないのである。彼等は「心に信じ」はするが「口に言ひ顕は」さないのである。そして言ひ顕はさないに幾多の理由がある。其内最も普通なるは、ニコ
デモの如〔ごと〕くに世の批評を恐れてゞある。彼等は心密〔ひそ〕かにイエスを慕ふも、世に耶蘇〔やそ〕教の信者として認めらるゝ事を恐れるのである。或〔あるい〕は立身の障害と成らん事を恐れ、或は迫害に身を曝(さら)さん事を恐れてゞある。是は我国の如
き非基督教国に於て沢山に見る実例であつて、卑怯(ひけふ)極まる不徹底なる振舞(ふるまい)と言はざるを得ない。
○尚更に理由とする所は、人の躓〔つまず〕きとならん事を恐れてゞある。イエスの名を忌嫌ふ社会に在りて、信仰を振廻(ふりま)はすは、人をイエスに引附ける途に非ずして、却〔かえ〕つて之を遠ざくる途〔みち〕である。故に人の為を思ふて、我は信仰は成るべく之を秘し、若〔も〕し之を外に顕はすべくあらば、行為(おこなひ)を以つて之を顕はし、言葉を以つて言ひ顕はすべからずと云ふのである。誠に立派なる理由の如くに聞こえて、何人も之を非難する事が出来ないやうに思はれる。
○然し乍〔なが〕ら信仰の告白は為さゞるべからずと聖書は繰返して教ゆる。信仰は秘して置くべき者に非ず、之を発表して世と自己との救を計るべしとはイエス並に使徒達の熱心に唱へた所である。イエス曰〔い〕ひ給はく汝等〔なんじら〕は世の光なり、山の上に建られたる町は隠るゝことを得ず。灯火(ともしび)を燃(とも)して升(ます)の下に置く者なし、燭台の上に置き家に在る凡〔すべ〕ての物を照らさん。と(マタイ伝五章十四、十五節)。真理は太陽の光線と等しく、照り輝くのが其特性である。光線の鑵詰は不可能
の事である。
○そして単に理窟として不合理であるに止まらず、実際に有害不利益である。信仰は之を隠し置けば消ゆるの危険が甚だ多く、成長発達せざるは勿論〔もちろん〕である。信仰をして旺盛ならしむる最も確実なる方法は、之を公けに発表し、其為に闘ひ、其勝利を計るに在る。信仰は生命であるが故に、生きんが為に生存競争を必要とする。有るか
無いかの立場に自己を置いて信仰は衰退し、終〔つい〕に消滅せざるを得ない。それ故に告白が必要である。私はクリスチヤンである、私はイエスは神の子私の救主であると信ずると、明白に言ひ顕はして、私は私の信仰が強められ、神が私の此告白を嘉賞し給ひて私の霊魂に宿り給ふを覚ゆるのである。
信仰告白の方法は一にして足りない。勿論言葉を以つてする而已〔のみ〕が唯一の告白でない。行為を以つてする告白は言葉以上に強くある。然し告白の意味を明かに示す行為たるを要す。何人が見ても「私はイエスの弟子たるを耻としない」と云ふ意味の行為たるを要す。此意味に於てバプテスマは最も善き信仰の告白である。バプテスマは単なる儀式でない。之を教会入会の式と見たり、又は其内に何か神秘的の功徳が籠〔こも〕ると思ふが故に其効用を否認する者があるのである。バプテスマは不信の世に対する信仰告白の方法と見て甚大の価値がある。是は言葉と行為を以つてする信仰の告白である。之を受くるに確信と勇気とが要〔い〕る。我国の如き国柄に於て或種の迫害は判然たる信仰告白に伴ふが普通である。そして此意味からしバプテスマは多くの信者の信仰の確立並に上達を助けたのである。私自身も五十年前に之を受けて善き事を為したと思ふ。教会に入る為の儀式のバプテスマは断然之を拒否するも、信者相互に由て授けらるゝ信仰告白の為のバプテスマは、之を貴き成規(さだめ)と認めざるを得ない。
信仰を隠して、曖昧〔あいまい〕に附して、信仰維持は不可能である。十字架を担はずして福音の利益にのみ与〔あず〕からんとするも神は許し給はない。イエスと苦難を共にしてのみ其栄光に与ることが出来る。私の知る多くの基督信者は信仰を曖昧に附した故に憐れな生涯を終つた。勿論バプテスマを受けた丈〔だ〕けでは足りない、生涯其物を信仰の告白となして我等は信仰の生涯を完成する。
 
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秋、別荘に生えていたキノコ、食用になるそうです。