内村鑑三 無宗教無教会

無宗教無教会
○私の基督教は宗教でない、私の集会は教会でない。さう聞いて多くの人は不思議に思ふであらうが、決して不思議でない。イエスの教は決して宗教でなかつた。彼がパリサイの徒と闘ひ給ひしは宗教と闘ひ給うたのである。
天の父が完全〔まつた〕きが如〔ごと〕くに完全〔まつた〕からんとするがイエスの教であつて、(人が神に作られたときのように完全であるように生きる事を神は求めて居られる。神の様になることではない。)
それは此世の所謂〔いわゆる〕宗教とは全然質を異にする者であつた。イエスの教が基督教と云〔い〕ふ宗教と成り、彼の弟子が教会と云〔い〕ふ宗教的団体を作りし時に茲〔ここ〕に彼の予期し給はざりし者が現はれて、彼の御精神は全然没却せられたのである。其証拠には後世イエスの御精神を深く汲〔く〕みし者は大抵は教会の外に立ち、イエスの如くに教会に嫌はれて、彼の詬誶(そしり)を身に負ひて門の外に苦しみを受けた(ヒブライ書十三章十二、十三節)。ミルトン、トルストイ、キルケゴードの如きがその善き代表者である。
彼等程信仰の篤〔あつ〕い人はなかつた、而〔し〕かも彼等程教会を嫌ひ、又教会に嫌はれた人はなかつた。そして小なる私も亦是等の信仰の勇者と歩みを共にせんと欲するのである。私も亦〔また〕何卒金襴〔きんらん〕の法衣を身に着けるやうな人を管長とも監督とも呼びたくない。彼等と席を共にして金杯銀杯の下賜に与〔あずか〕りたくない。ナザレの大工其儘〔そのまま〕の生涯を送り、政治家ピラトや監督カヤパに神を涜〔けが〕す者として或る種の十字架に釘〔つ〕けられて一生を終りたく欲(おも)ふ。
無宗教無教会
昭和4年4月10日『聖書之研究』345号  署名主筆(内村鑑三
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