内村鑑三 マタイ伝 43講  世の讒謗と天国の希望

43 マタイ伝
 
 
課題〔「基督者が世の人より受くる讒謗馬太伝十章二十四―二十六節」〕
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明治40910日『聖書之研究』91号「雑録」  署名なし
 
基督者が世の人より受くる讒謗馬太〔マタイ〕伝十章二十四―二十六節
 
意義明瞭なり、別に註釈を要せず、「ベルゼブル」は悪鬼の王を云ふ、馬可〔マルコ〕伝三章二十二節を見よ。
「掩〔おお〕はれて露〔あら〕はれざるは無し」、人、其善を掩はれてその善の終〔つい〕に露はれざるは無し、敵人の批評は如何〔いか〕に苛酷なるも、以て善人を悪人と成すに足らず、善人は終に善人として露はるべし、若〔も〕し現世に於てにあらざれば来世に於て露はるべし、我等は敵の悪口罵詈〔ばり〕を懼〔おそ〕るに足らず、そは神イエスキリストを以て人の隠微を鞫〔さば〕き給はん時、我等は我等の真性に於て露はるべければ也。羅馬〔ロマ〕書二章十六節。
 
世の讒謗と天国の希望編輯生
余の如き者が死して後に栄光の体衣を被()せられて神の天国に入るのであると云ふ、是れ果して事実であらふ乎〔か〕、是れは信ずるに甚だ難いことである。
是れは勿論余に斯かる栄光を獲得するに足るの徳があると云ふことではないに相違ない、若〔も〕し余が余として扱はるゝならば余は地獄の底に投入れられべき者である、余が若し栄光の国に入るを得て其処〔そこ〕に永久の福祉を享〔う〕くることが出来るとならば、それは何にか余以外の善徳に由るのでなければならない。
爾〔そ〕うして斯かる善徳が余の衷〔うち〕に在ると余は信ずることが出来やう乎〔か〕、嗚呼〔ああ〕、余は救はれたり、必ず天国に入るを得べしと云ふは余に取りては甚だ傲慢〔ごうまん〕の言ではあるまい乎、僭越ではあるまい乎。
嗚呼余が救はれし証拠は何処(どこ)にあらふ乎。
嗚呼、然り、無いではない、此永の年月、余が幾回となく神を棄んとせしにも関はらず、今尚ほ神に棄てられざるのは、其事が余が神に選まれし一つの確かなる証拠ではあるまい乎。余と同時に信仰を表はせし人にして今は既に全く之を放棄せし者多きに関はらず、余が尚〔な〕ほ不束(ふつつか)ながらもキリストのために世の詬誶(そしり)を受けつゝあるは、其事が余が救はれつゝあるの確かなる証拠の第二ではあるまい乎。
爾うして世の詬誶(そしり)その物(もの)が、其れが余が神の属(もの)である何よりも善い証拠ではあるまい乎、世はキリストの属でない者を斯くまでに詬〔そし〕らない、曰く国賊、曰く乱臣、曰く偽善者、曰く破壊者、曰く親殺し、曰く弟殺しと、余は
何故に斯くまで此世と此世の教会とに悪〔にく〕まれるのであらふ乎、余は神の前に立て罪人の首(かしら)であることを自認する、然かし人の前に立て斯かる罪人であるとは何〔ど〕うしても思はれない、余は及ばずながらも使徒パウロに傚〔なら〕ふて、恥づべき隠れたる事を棄て、詭譎(いつわり)を行はず、神の道を乱さず、真理を顕はさんと努めつゝある( 哥〔コリント〕後四の二)、然るに余は大罪人の如くに謂〔い〕はれ又謂はれつゝある、是れ果して何を示すのであらう乎。
嗚呼、世の詬誶(そしり)こそ、余がキリストに永久の愛を以て捕はれしことを示すのではあるまい乎。彼をベルゼブル即ち悪魔の王と詬(そし)りし世が同じ憎悪(ぞうお)を余に表しつゝあるのではあるまい乎、嗚呼、斯くあれかし、余も世に十字架に釘けられてキリストの属(もの)たるを証明されんことを希〔ねが〕ふ、余が世に誉めらるゝに至る時は余が天国に入るの資格を失つた時である、世の甚だしき讒謗〔ざんぼう〕が余に臨む時に余は安全である、余が受くる世の讒謗〔ざんぼう〕は余が天国に入り得るの「印記」(しるし)である。
去らば来れよ讒謗〔ざんぼう〕、来て余の天国に入るの特権を確かめよ、何んとでも云へよ、余と余の同志とを詬(そし)るは汝等に取り多少の慰藉(いしゃ)ならん、余等は汝等より此慰藉(いしゃ)を奪はざるべし、然し余等には又余等の慰藉あり、汝等の讒謗(ざんぼう)は余等の信仰の耳には天使の声として聴ゆるなり、天国の語は此罪の世に於ては正反対の音を発するなり、祝福は呪咀〔じゆそ〕と、善良は罪悪と、真善は偽善と響くなり、然らば誹〔そし〕れよ世よ、汝の誹謗(ひぼう)の語を蒐(あつ)めよ、而して之を余等
の頭上に堆(つ)んで、余等の天国に入るの権利を確かめよ。
〔以下、読者の投稿篇掲載あり―略。ただし「陸前宍戸元平」の投稿文の末尾に次の付言あり〕
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内村生白す、宍戸君の此一篇、以て悪魔と其子供の心を穿〔うがち〕て余蘊(ようん)なし、余は之を読んで再び起て戦ふの勇気を得たり、深く君に謝す。
次号課題
余は如何にして基督に来りし乎
 
 
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