内村鑑三 基督者の徽章

キリスト信仰の神髄此処にあり。
 
〔基督者の徽章他〕
大正11610 『聖書之研究』263  署名なし
 
基督者の徽章
○「イエス曰ひけるは……汝等もし互に相愛せば之に由りて人々汝等の我が弟子なることを知るべし」(約翰(ヨハネ)伝十三章三五節)
 

ヨハネ13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

我等が基督者たり、イエスの弟子たる証拠は茲(ここ)に在る、キリストが我等を愛し給ひし愛を以て互に相愛すること、是が基督者各自が身に佩(おび)る徽章である、之に由て世人は我等がイエスの弟子たることを知るのである、バプテスマを受けて教会に属したる事は基督者たるの証拠にならない、又一定の教義を信奉したればとて、それで基督者であるとは判定ない、又伝道に熱心であればとて、其事を以てイエスの真実の弟子たる実証となす事は出来ない、バプテスマも、教義も、伝道も、愛以外の動機に由りて之を受くる事が出来、又之に従事する事が出来る、誤らざる基督者たるの証拠は彼が真に人を愛する事にある、愛する人が基督者である、愛せざる者は基督者でない、縦令(たとい)其人が教会の監督であらうが、神学博士であらうが、牧師であらうが、伝道師であらうが、愛せざる者は基督者でない、縦(よ)し教会と其会員とは是等の人女(にんじょ)を基督者と認むるとも、神と人々即ち世人は彼等をイエスの弟子として受けない、此一事に就ては神と世人とが一致する、神と世人とは儀式であるとか、教理であるとか、宣伝であるとか云ふ事に目を留めないで、世界最大の者たる愛と其表顕(うわべ)とに注意するのである。
 
○勿論愛と謂(い)ふて何人にも直ぐ判る者ではない、真の愛は時には愛でないやうに見ゆる場合がある、然るにも関(かか)はらず愛はやはり愛である、愛は他の最善を謀(はか)る、愛は自分本位を恥とする、愛は復讐的でない、愛は謙遜である、愛は他の権利を侵害しない、然ればとて遠慮の籬(かき)を築いて我れ不関焉(かんせず)の態度に出でない、愛は自分の事に於けるが如くに他の事に熱心である、人の子の来りしは人を役(つか)ふ為には非ず、反て人に役(つか)はれ又多くの人に代りて生命を予(あた)へ、その贖(あがない)とならん為なり」とある其精神の実現に努力する。
○斯く言ひて勿論、教会も教義も伝道も要らないと言ふのではない、是等は愛を起す為に要る、愛は目的であつて是等は手段である、我等は完全に愛し得るに至つて信仰の目的を達したのである、而して愛の試験石は敵である、心より敵を愛し、其善を図り得るに至て愛は完成せらるのである、聖霊下賜の結果も茲に至らざれば真正でない、神は愛であつて、聖霊は此愛の神の霊である、此霊の宿る所となりて愛は必然的に起らざるを得ない。
イメージ 1