内村鑑三 マタイ伝 17講

17マタイ伝
 
第四日第二回夏期講談会に於て読まれし聖書の部分並に其略註
  
馬太〔マタイ〕伝第五章三節より十二節まで
心の貧きものは福(さいはい)なり、天国は即ち其人の有(もの)なれば也。
哀〔かなし〕む者は福なり、其人は安慰(なぐさめ)を得べければ也。
柔和なる者は福なり、其人は地を嗣ぐことを得べければなり。
餓え渇く如く義を慕ふ者は福なり、其人は飽くことを得べければなり。
矜恤(あわれみ)ある者は福なり、其人は矜恤を得べければなり。
心の清き者は福なり、其人は神を見ることを得べければ也。
和平(やわらぎ)を求むる者は福なり、其人は神の子と称へらる可ればなり。
義きことの為めに責めらるゝ者は福なり、天国は即ち其人の者なれば也、
我が為めに人 爾曹(なんじら)を詭誶(ののし)り、また迫害(せめ)、偽はりて各様(さま〴〵)の悪き言をいはん、其時は爾曹(なんじら)福なり、喜び、楽め、天に於て爾曹(なんじら)の報賞(むくい)多ければなり、そは爾曹(なんじら)より前の予言者をも如此〔か〕く責めたりき。
 
略註
是れ曾〔かつ〕て美訓の名を付して独立雑誌に掲げし者なり、イエスの教訓中精華を以て称せらる、人、其佳麗を讃して止まず、然れども之を賞讃する者多くは福を受くるに至る心の状態に留意して、其何故に福なる乎に注目せず、即ち福祉の源因に留意して其結果に注目せず、故に美訓の半面を解し得て其全部を了〔さと〕るに至らず。
「天国」、「地」、是れ何を意味する言葉なる乎、天国とは単に幸福なる心の状を云ふに止る乎、「地を嗣ぐ」とは詩人的比喩なる乎、之を聖書の他の部分に較べ見て其然らざるを知るに難からず、基督教は明白に未来永遠の実在を説く、基督教は人生五十年を以て存在の範囲と見做さず、基督教は復活を信じ、来らんとする神の王国を望む、故に天国と云へば此聖浄純潔なる神の王国を指して云ふならざるべからず、之を辞義通りに解せずして美訓の純美を味ふ難し。
柔和なる者(或は蹂(ふ)み附けらるゝ者と読むべし)は福なり、其人は地を嗣ぐ事を得べければ也と、此美はしき天地、富士山の聳〔そび〕ゆる国、琵琶湖の月光を映ずる土は終に今は権門勢家〔けんもんせいか〕のために蹂み附けらるゝ者の手に附(わた)るべしとなり、是如何なる福音ぞ、地は永久に俗人に依て穢さるべき者にあらず、正義の王国は終に此地上に建設せらるべしとの約束なり、吾等は俗人に蹂み附けられて永遠に此世を逝〔さ〕るべき者にあらず、嗚呼〔ああ〕、誰れか此大福音を信じ得る者ぞある。
 
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