内村鑑三 マタイ伝 18講

18マタイ伝
 
最大幸福・心霊の貧  大正3310日『聖書之研究』164号 署名内村鑑三
二月八日柏木聖書講堂に於て為せる講演の一部分
 
心の貧(まず)しき者は福(さいわい)ひなり、天国は即ち其人の有(もの)なれば也。馬太〔マタイ〕伝五章三節
是を原語の通りに直訳すれば左の如くに成る、
福ひなり、貧しき者は、心()に於て、其人の有(もの)である、天の国は、が故なり。
 
「福ひなり」所謂〔いわゆる〕「山上の垂訓」は祝福(しゆくふく)の辞(ことば)を以て始まつて居る、之をイエスの道徳の発表とのみ思ふの誤謬(あやまり)は之に由て観ても明かである、福音は道徳ではない、祝福である、恩恵の宣下(せんげ)である、而しかして道徳は祝福の後に来る者である、此世の宗教道徳に在りては道徳が前(さき)にして天恵が後である、天恵は道徳の結果として人に臨む者である、然し乍〔なが〕ら、神の道に於ては其反対が事実である、初に恩恵が下りて其結果として道徳が要求せらるゝのである、神が初にアブラハムを召し給ふに方〔あたつ〕て彼は先づアブラハムより道徳を要求し給はなかつた、彼は言ひ給〔ま〕ふた、
我れ汝を祝(めぐ)み汝の名を大ならしめん、汝は祉福(さいわい)の基(もと)となるべし、……天下の諸(もろ〳〵)の宗族(やから)汝により祝福(さいわい)を獲ん、と(創世記十二章二、三節)、而して彼が多くの恩恵に与(あず)かりて久しき後に至て汝、我前に歩みて完全(まつた)かれよとの聖語(みことば)が彼に臨んだのである、即ちアブラハムの場合に於ても恩恵の下賜(かし)は前(さき)にして道徳の要求は後(のち)であつたのである、又イスラエルの歴史に於ても契約(恩恵)は前にして律法〔おきて〕(道徳)は後に臨んだのである(加拉太〔ガラテヤ〕書三章十七、十八節参考)、神が其愛子〔いとしご〕に対(むか)つて為し給ふことは総〔すべ〕て此順序に循るのである、先づ祝福の宣下があつて、然る後に之に応ずるための道徳の要求があるのである。
「福ひなり」幸福なりとも、神に祝(めぐ)まれたる者なりとも、解することが出来る、其当時に在りても世間普通の言葉であつたに相違ない、多分今日の日本人の言葉を以て云ふならば「仕合(しあわ)せなり」と言ふのが最も能く此言葉に適合するのであらふ、「仕合せなり」と、善き妻を迎へたる者は仕合せなり、華族の家に生れたる者は仕合せな
り、富豪を姻戚に有つ者は仕合せなりと、仕合せとは天に恵まれたること、又は運の好きことである、而して普通の場合に於ては「仕合せ」はすべて此世の所有(もちもの)又は境遇に係(かか)はるのである、世の好運児を称して仕合者(しあはせもの)といふは此意味に於ていふのである。
 
而してイエスの眼にも亦仕合者(しあはせもの)即ち好運児(かううんじ)があつたのである、而して彼は今之を列挙し給ひつゝあるのである、我が好運児は誰ぞとの題目を設けて彼は今其特性を宣べ給ひつゝあるのである。
 
「貧しき者は」好運児は誰ぞ、神に祝まれたる者は誰ぞ、此問(とひ)に対へてイエスは第一に言(こた)ひ給ふた、「貧しき者なり」と、貧しき者は仕合せなりと、逆説(ぎやくせつ)か、妄誕(ばうたん)か、而(し)かもイエスは爾か曰ひ給ふたのであ、汝等貧者は福なり、神の国は汝等の所有なれば也、とはイエスの此場合に於ける言葉であつたと聖ルカは伝へて居る(路加(ルカ)伝六章二十節)福者は富者であるとは世の定見である、然るにイエスは之に反して曰ひ給ふたのである、福者は貧者なりと、此冒頭の一言は以て聴者を(驚倒)したであらふ。
貧者とは物を有たぬ者である、金銀を有たぬ者財貨を有たぬ者、土地、家屋、衣類等、此地に属(つ)ける物を有たぬ者である、而してイエスの立場より看て貧者は福ひなるのである、而して其理由として「神の国は汝等の所有(もの)なれば也」とある、此世に在りて何物をも有たぬ者に来世は与へらるべしとの事である、勿論(もちろん)貧(ひん)其物(そのもの)は来世(らいせ)獲得(くわくとく)の必然的理由とはならない、然し乍ら、貧者の富者よりも天国に入り易きは何人も能く知る所である、イエス御自身が言ひ給ふた、富者の神の国に入るは如何〔いか〕に難いかなと(路加伝十八章二十四節)、而して此意味に於て貧者は正(まさ)に福さいわ)ひなるのである、貧は人が天国に入るの刺戟(しげき)となることがある、又其妨害とならない、天国に入らんと欲する者に取りては貧(ひん)は富(とみ)よりも遥かに良き境遇である。
 
然し乍ら、貧にも深浅(しんせん)がある、より深い貧とより浅い貧とがある、而して物に乏しき貧はより浅い貧である世には物資(ぶつし)の欠乏(けつぼう)に勝さるの貧があるのである、即ち徳性欠乏の貧がある、自己(おのれ)に顧みて何の善(よき)をも発見する能〔あた〕はざる貧がある、而してイエスが茲〔ここ〕に言ひ給ふ
「心の貧しき者」とは此種の貧者(ひんしゃ)を指(さ)して称(い)ふのである、心は此場合に於ては「心霊」と訳すが当然である、心の最も深い処、人が神に接触する所、其所が彼の霊(pneuma, spirit)である、而して心霊に於て貧しき者とは、こゝろ其の奥底に於て貧しき者との謂(いひ)である、此世の所謂貧者(ひんしゃ)は身の貧者(ひんしゃ)である、身に属(つ)ける物に乏しき者である、然し乍ら、イエスが茲に福者なりとて挙げ給ふ貧者は心霊の貧者である、身に属(つ)ける物に乏しきは勿論〔もちろん〕、更らに其上に心霊(こころ)に属(つ)けるものに於ても乏しき者である、而して心霊(こころ)の富と云へば勿論無形の富であつて、或ひは知識である、或ひは智慧である、殊に徳である、故に心霊(こころ)の貧者と謂へば智徳両(ふた)つながらに於て乏しき者を謂ふのである、心霊(こころ)の貧者(まずしきもの)、自己の非学(ひがく)を自覚し、菲徳(ひとく)を是認する者、自己(みずから)に省(かえり)みて其衷〔うち〕に何の善(よき)も発見する能はざる者、斯〔か〕かる者は福ひなり、仕合せなり、神に祝(めぐ)まれたる者なりとイエスは茲に言ひ給ふたのである。
驚くべきは実にイエスの此言葉である、彼の立場より見て身の貧は福ひなりと言ひ給ひたればとて、其は解し難い言葉ではない、然し乍ら、心霊(こころ)の貧が福ひであるとは謎語も殆〔ほと〕んど其極に達して居るやうに思はれる。
実(まこと)に深遠は謎語(ゑんめいご)の如くに聞える、天の高きに昇らんと欲する者は地の低きにまで降らざるべからず、降りし者は即ち諸(もろ〳〵)の天の上に昇りし者なりとある(以弗所〔エペソ〕書四章十節)、天国の富者ならんと欲する者は地上に赤貧者たらざるべからず而して貧(ひん)の極(きょく)は身の貧に非〔しか〕ずして心霊(こころ)の貧である、赤貧洗ふが如しと言ふ者も時には俯仰(ふげふ)天地に恥〔はじ〕ずと言ふ、斯く言ふ者は身は貧すれども心霊(こころ)は甚〔はなは〕だ富める者である、貧に内(うち)なると外(そと)なるとが有る、心霊(こころ)の貧者(まづしきもの)は内に何物をも有たない者である、其実例は使徒パウロである、彼は曰ふた、
善なる者は我れ、即ち我肉に居らざるを知る、そは願ふ所我に在れども善を行ふことを得ざればなり、……
嗚呼〔ああ〕我れ困苦(なや)める人なる哉(かな)と(羅馬〔ロマ〕書七章十八、十九、……廿四節)パウロは世の所謂義人と異なり、俯仰天地に恥ざるの人ではなかつた、
彼は己れに省みて衷(うち)に何の善き者をも見なかつた、彼は心霊(こころ)の貧(まず)しき者であつた、誇るべきの智慧なく、倚(よ)るべきの徳なく、彼の自白せるが如く彼は「罪人の首」であつた、而して神の前に立て謙虚の底にまで引下げられし彼はキリストに在りて其の諸徳を認むるを得て栄光の天にまで引上げられたのである、故に言ふ「心霊8こころ」の貧しき者は福ひなり、天国は即ち其人の有なれば也」と、清貧の故を以て誇る世の所謂(いわゆる)潔士(けつし)、品性の高潔を以て自(みず)から足れりとする所謂基督教紳士、信仰の正しきを以て神に特別に近き者なりと信ずる教会信者、彼等は皆な心霊の富める者である、身に一物を有たずと雖〔いえど〕も心に許多(おほく)の物を有つ者である、而してイエスが神に祝(めぐ)まれたる者と認(みと)め給ふ者は其心霊に於て一物をも有たざる者である。
エスは曾〔かつ〕て心霊(こころ)の貧富を対照し、譬(ととへ)を設けて語り給ふた、
茲に二人の人あり、祈らんとて神殿(みや)に登りしが、其一人はパリサイの人、一人は税吏(みつぎとり)なりき、パリサイの人起立(たち)て自(みず)から如斯(かく)祈れり、曰く、神よ、我は他人の如く強奪(ごうだつ)、不義、姦淫を行はず、亦(また)此税吏(みちぎとり)の如くにも有らざるを感謝すと、税吏は然らず、遥かに立ちて天をも仰(あふ)ぎ見ず、其胸(むね)を打て神よ罪人なる我を憐み給へと言へり、我れ汝等に告げん、此人は彼人よりも義とせられて家に帰りたり、夫れ自己(みずから)を高くする者は低くせられ、自己(みずから)を低くする者は高くせらるべし、と(路加〔ルカ〕伝十八章九節以下)、茲にイエス御自身の言葉として馬太〔マタイ〕伝五章三節の最も善き註解が与へられたのである、我等は実に之れ以外に我等の註解を試むるの必要は無いのである、心霊(こころ)の富めるパリサイ人と其貧しき税吏(みつぎとり)、而して所謂(いわゆる)清廉潔白のパリサイ人は斥(しりぞ)けられて、胸を打ちて己が罪人なるを自白せし税吏は納けられたのである、聖人、義人、潔士(けつし)、烈婦(れつぷ)の徒が天国に入ると云ふは誤認(あやまり)である、彼等ではない、マタイやうなる税吏、ラハブのやうなる娼妓(あそぶめ)、天国に入る者は彼等である、驚くべきかな、イエスの此言葉、彼の福音の世に説かるゝこと茲(ここ)に千九百年、教会は無数に存し、基督教文明の世に徧(あまね)き今日、ガリラヤ湖畔に於て始めて唱へられし単純なるイエスの天国の福音は今猶〔な〕ほ不可解(ふかかい)の言葉として存するのではあるまい乎〔か〕、今日の所謂基督信者も亦強奪(ごうだつ)、不義(ふぎ)、姦淫を行はずと言ひて神の前に立つパリサイの人の類であつて、若〔も〕し罪人なるを自認して教界の公見を憚(はばか)り単独の隠密(いんみつ)を求むる者があれば、斯かる者は奇矯(きけう)なり偏屈(へんくつ)なりと称(とな)へられて彼等の間に嘲けらるるではない乎、我は神に感謝す、ガリラヤ伝道に於けるイエスの開口第一番の言葉のパリサイの人、民の祭司、長老、学者等を批難
すると同時に、自己(みずから)の不義不徳に泣く罪人を庇護する言葉なることを。
「其人の有である、天国は」言葉の順序に注意して読むべきである、「其人」が前にして「天国」が後である、
僅少(わずか)の差違(ちがい)ではあるが、然し、イエスの此一言に於ける主要問題の何たる乎が、言葉の前後に由て判明(わか)るのである、イエスは茲に心霊(こころ)の貧者(まずしきもの)の祝福(さいわい)に就て宣べ給ひつゝあるのである、而して其人の如何に福ひなる乎、其事は彼の与(あず)かる報賞(むくい)の如何なる乎に由て判明(わか)るのである、天国は当時の人の何人も入らんと欲せし所であつた、而して誰が之に入るを得ん乎とは当時の学者宗教家の間に討議(とうぎ)せられし大問題であつた、誰が、誰が天国の市民たるを得る乎、とは当時の緊急問題であつた、而してイエスは大胆に此問題に答へて言ひ給ふた、心霊の貧者、彼が天国に入るのである、他の者ではない、祭司ではない、神学者ではない、宗教家ではない、勿論富者ではない、アブラハムよりの血統を誇るユダヤ人ではない、俯仰(ふげふ)天地(てんち)に耻(はじ)ざる義人ではない、自己(みずから)の罪を認むる者、自己(みずから)の衷心(ちゅうしん)に何の善をも認めざる者、自己が欠点の多きを耻(はじ)ぢて頭を擡(もた)げ得ざる者、天をも仰ぎ見ずして其胸を打てよ罪人なる我を憐み給へと言ふ者、其者、其人が天国に入るのであると、罪人の弁護の言葉にして之よりも有力なるものは無いのである、イエスは茲に此世の君子、義人、高士等を悉〔ことごと〕く掃除(はきの)けて、其場所に罪人の首(かしら)を立たせ給ふたのである。
「其人の有である」「ある」である、「あらん」ではない、天国は今既に心霊の貧者の有であるとのことである、来世に於て彼の有たらんと言ふのではない、今日、今、茲に其人の有であるとの事である、而してイエスの此言葉は事実であるのである、心霊(こころ)の貧者は今、茲に天国に在るのである、人のすべて思ふ所に過ぐる平安は彼の有である、彼はイエスを友として有ち、其義(ぎ)、其聖(せい)、其贖(しょく)を己(おの)が有(もの)として有ち、天国をして天国たらしむる其事実、其実体、其光明、其生命、彼は今茲にすべて是等のものを有(もつ)のである、彼に勿論今猶(いまなお)ほ哀哭(なげき)がある、熱(あつ)き涙がある、罪の悔改の苦痛がある、而して彼の前には渡るべき死の河が横たはる、然し乍〔なが〕ら、其れあるに係(かゝ)はらず天国は今(いま)既に彼の有である、彼は未だ天国を其完成されたる形態(かたち)に於て有たない、然し乍ら、天国に入るの鍵は既(すで)に業に彼の手に附(わた)された、彼は最も確実なる意味に於て、今日既に天国の所有者である。
沈思黙考、汲んで益々罄(くつ)きざるはイエスの言葉の意味である、是れまことに神ならでは語る能はざる言葉である、祝福(さいわい)なるかな、貧しき者は、心霊(こころ)に於て。其人の有である、天国は。
と、此一言を以て此世の倫理も道徳も悉く顛覆せられて、之に代りて天国の福音が人の子の間に顕はれたのである。
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詩編 19-7~10
    主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない
    者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を
    明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことで
    あり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも
    蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
   
   
   聖書そのものを求める。批評的求め方ではない。又、感情的な探究ではない。聖霊によって
   常識のある深い静かな研究である。あらゆる思想に訴え、あらゆる事実に鑑み、宇宙と人生
   とを支配する神の御心の探究である。聖書の研究はすべての研究の中で、最も広く最も深い
   研究である。実在の中心に達しようとすることである。愛をもってすべてを求める事である。
   
   聖書を読んでいて時間を忘れてしまうような、いつまでも心地良い所に留まっていたいような
   気分になる事がある。きっと甘い物を食べているような、脳がそんな感じになっているのだと
   思う。そしてそんな時でも聖書は実際の生活から離れた御言葉を与えて下さるのではない。
   すぐにでも動いて、この生活にそれを生かしたいと思える心地良さだ。この世の本のように
   読み終えて、日常に戻るのではなく、日常が御言葉の中にある感じがする。
 
内村鑑三「続一日一生」11月Ⅰ日より