内村鑑三 マタイ伝 28講

28 イエスの祈祷とその注解
 
耶蘇の祈祷と其註解
明治3275日『東京独立雑誌』36号「講壇」 署名内村鑑三
 
天に在〔ま〕します我儕〔われら〕の父よ、
願くは爾〔なんじ〕の名を尊(たうた)ませ給へ、
爾の国を臨(きた)らせ給へ、
爾の旨(みこころ)の天に成(な)る如く地にも成らせ給へ、
我儕(われら)の日用の糧(かて)を今日も我儕(われら)に与へ給へ、
我儕の罪を免(ゆる)すに 我儕に罪を犯す者を 我儕が免〔ゆる〕す如くなし給へ、
我儕を誘惑に導き給ふなく、反〔かえつ〕て我儕を悪より拯〔すく〕ひ出し給へ、亜孟〔アーメン〕。
『天』、天とは蒼穹を意味する者に非〔あら〕ず、宇宙全躰が神の棲家〔すみか〕なるが故に彼に取りては天地の別あるなし、或人曰く宇宙の中心は参宿の中ハルシオン星の辺にあれば神の宝座も亦〔また〕其辺にあらんと、夫〔そ〕れ或は然らん、恰〔あたか〕も人
の生命は彼の全身を充たすと雖〔いえど〕も主として脳髄に存するが如し、神の精は宇宙の中心に凝在すとの説は一片の臆説として斥〔しりぞ〕くべからず。然れども余は思ふ、此処に所謂〔いわゆる〕天とは地理的又は星学的の場所を指すものにあらずして、神の聖意の完全に行はるゝ道徳的境遇を謂〔い〕ふものならんと、而して神は宇宙孰〔いず〕れの処にも存するなれども、彼は特別に浄潔(じょうけつ)の域に在〔いま〕すと云ふを得るなり、恰も彼は悪人たりとも見捨て給はずして是を擁護し給ふと雖も特別に善人と共に在すと云ふを得るが如し、無限の宇宙は神の住家なり、然れども神は特別に善人の在る処に在す、天とは蓋〔けだ〕し如此所〔かくのごとき〕を指すなるべし、其天躰中孰れにあるかは知らざれども、無辺の宇宙、何処にか神の聖意の完全に行はる所あるなるべし、是れ吾人の住する此不完全極まる地球にあらざるは明かなり。
『我儕の父』、神は我儕の王、我儕の主なるのみならず亦我儕の父なり、彼は神聖にして犯すべからざるものなれども亦近〔ちかづ〕くべからざるものにあらず、言あり曰く、ツラン人種の神は怖るべく宥〔なだ〕むべきの神なれどもアーリヤ人種の神は愛すべく親しむべきの神なりと、神を父とし呼ぶに及んで吾人の人生観に大変革の臨〔きた〕るを覚ゆ、
彼は宥(なだ)むべからざる運命の神にあらず、又雷霆(らいちょう)の威厳を以て彼の帝座を護る世の帝王の如き者にあらず、彼は威ある者なれども亦矜恤(あわれみ)ある者なり、彼の大大権能は大慈大悲と伴ふ、『父なる神』、此一句に無限の慰藉あり。
『爾の名を尊ませ給へ』、凡〔すべ〕て善なる事、凡て真なる事、凡て美なる事は収めて神なる一語に存す、波斯(ペルシヤ)人のアフラマズタ、猶太(ユダヤ)人のエホバ、希臘(ギリシャ)人のヂウス、羅馬(ロマ)人のジユピター、等は是を崇〔あが〕むる民の理想を込めし語なり、神の名を尊む事は吾人の理想を追求する事なり、真、善、美は神の性にして活ける独一無二の神を離れて真正の哲学なし、道徳なし、美術なし、夫の無神論的哲学に敬虔の念なく、無宗教的の美術に尊崇の念の表すべきなきは全く是が為めなり、神の名を尊崇せしむるに至るは家庭、社会、国家の神聖を来たすことにして、此一事
を怠て世の所謂〔いわゆる〕改革事業なるものゝ永久に成功すべきの理なし。
『爾(なんじ)の国を臨らせ給へ』、神の国は理想の完全に行はるゝ所なりとは而(まえ)に述べしが如し、其来て此罪悪を以て充ち満ちたる地に臨まんことは人類最大の希望なり、理想的国家の建設は吾人何人も日夜渇望する所ならずや、
吾人の希願にして何物か此〔かく〕の如く切なるものあらんや、吾人の心より憂愁の絶えんこと、吾人の眼より涙の拭はれんこと、仁道は全社会に行き渉りて世に民の膏血を絞るの貴族豪商あるなく、暴主虐主は彼等の剣を収め、偽人は勲章位階に誇て義士は饑渇(きかつ)に泣くの惨事なきに至らんこと、是れ吾人心底の深所より発する希願の声ならずや、
神歟、我心慕爾
猶如鹿之慕渓水兮
我心渇慕於神、即慕活神也
我何時可至而現於神前兮
昼夜之間我以涙為食兮
(詩篇第四十二篇)
『爾旨の天に成る如く地にも成らせ給へ』、
是れ前句の意を一層明白に言ひ顕はせしものなり、神の国の此地に臨るとは彼の旨の此地に行はるゝを云ふなり、神意は無限の愛なり、其終〔つい〕に此地の法律とならんことを祈るなり、神に真理の光輝あり、然り神は真理其物なり、吾人は水の大洋を掩ふが如く真理が此地上に普〔あま〕ねからんことを祈るなり。神の聖きが如く人類の悉〔ことごと〕く潔からんことを、神の智(さと)きが如く吾人も智からんことを、即ち人類の社会が道徳的に発達して終に天国の如くならんことを、而して是れ夢想家の希願にあらざるなり、神意は徐々として此地に行はれつゝあるなり、未だ甚だ不完全なる人類の社会なりと雖〔いえど〕も過去六千年を通過して是に偉大の進歩ありしことは何人も疑ふ能〔あた〕はざる所なり、
奴隷制度は廃せられたり、多妻の蛮風は年毎に人の忌避する所となりつゝあり、三百年前の昔、若〔も〕し軍備廃止の提議を為す者あるも何人か耳を傾けし者あらんや、此地の化して天国の如くに成らんことは決して希望なきの希望に非ず、吾人が革進を唱ふるは其終に事実となりて世に行はれんことを確信すればなり、此希望と此確信となくして何人が起て社会の更革を叫ぶ者あらんや。
尊ませ給へ』、hagiasthētō『臨(きた)らせ給へ』、elthātō,『成らせ給へ』、genethētō、悉く受動詞なり、其意蓋〔けだ〕し神が吾人を援けて善事を為し遂げしめ給はんことを祈るにあるなるべし、吾人の欲する所は神が圧制的に世を改造し給はん事にあらずして、彼先づ吾人々類に高潔なる意志を給ひ、而して吾人奮勉の結果として此地が神の国
とならんことなり、革進の貴きは革進其物の為には非ずして、其之を実行するに当て吾人自身を練磨するが為なり、尊め給へと云はずして尊ませ給へと云ひ、臨し給へと云はずして臨らせ給へと云ひ、成し給へと云はずして成らせ給へと云ふ、耶蘇の教訓が常に重きを吾人祈祷者の意志に置くは吾人の注意すべき事実なりとす、即ち耶蘇は革進に勝(まさつ)て革進の意志(精神)を求めしなり、吾人の意志より起らざる改革は外国人の手に拠て行はれし改革の如きものにして、其国民自身を益する甚だ軽少なり、即ち印度〔インド〕、埃及〔エジプト〕に於ける改革の如きものにして、其精神上の利益は悉く英人の収むる所となりて、土人は僅かに其物質的利益を享くるに過ぎず。
我儕の日用の糧を今日も与へ給へ』、
是れ難句なり、『日用』と訳せられし希臘原語ton epiousion は他に曾て見ざるの語にして其原意は稽〔かんが〕え難し、は必要の糧と訳すべしと云ひ、或は有名なる聖書註釈家マイヤー氏の如きは明日の糧と訳すべきものなりと云へり、然れども基督教全躰の教義より見て是を目下必用の糧と解して大過なかるべし、保羅〔パウロ〕が其弟子提摩太〔テモテ〕に書き送りし書翰に曰く『我儕〔われら〕何をも携へて世に来らず、亦〔また〕何をも携へて往くこと能はざるは明かなり、夫〔そ〕れ衣食あらば之をもて足れりとすべし』と。耶蘇又曰く『何を食ひ、何を飲み何を衣〔き〕んと思〔おも〕ひ慮ふ勿〔なか〕れ……明日は明日の事を思ひ慮づらへ、一日の苦労は一日にて足れり』と。
糧必ずしも肉躰の糧のみを云ふに非ずして精神の糧〔かて〕をも云ふなり、『循爾之日、爾必有力』{汝の日に従って、汝に必ず力あり}とは旧約聖書の教訓なり、吾人は肉の糧のみならず、又霊の糧をも要す、而して霊を養ふものは神の真理なり、肴饌時には無きも可なり、然れども躯肉死するの後と雖も尚吾人の要するものは神の真理なり、是れ有りせば吾人は饑餓を忍ぶを得べし、是れなきを真の饑饉とは云ふなり。
宇宙万物の造主を父とし持て吾人は目下必要の物の外に彼に懇求するの要なし。彼に依り頼んで吾人は大保険会社に身を委〔ゆだ〕ねしが如き者なり、彼は吾人の未来を守り、吾人が彼の聖旨を尊奉する以上は吾人をして決して乏しからざらしむべし、誰か身を兵役に置て兵糧の給せられざらんことを怖る者あらんや、未来の恐怖を懐く者は未だ神に頼らざる者なり。
我儕に罪を犯す者云々』、罪と訳せられし原語(opheilēmata)は負債を意味するの語なり、即ち罪とは道徳上の負債なるを云ふなり、吾人は神に対し莫大の負債を有する者なれば吾人が此負債より免かれんと欲せば先づ吾人の債を負ふ者を免〔ゆる〕さゞるべからず、是れ普通の論理にして最も解し易きものなり、耶蘇自身此語に註解を附して曰く、『爾曹(なんじら)若し人の罪を免さば天に在ます爾曹〔なんじら〕の父も亦爾曹を免し賜はん、然れど若し人の罪を免さずば爾曹の父も爾曹の罪を免し給はざるべし』と。
我儕を誘惑に云々
神は人を故意的に誘惑に導くものにあらず、是をなすは悪魔なり、耶蘇の此言は彼の希伯来〔ヘブライ〕的筆法によるものにして吾人之を解するに当て希伯来〔ヘブライ〕人の思想を以てせざるべからず、希伯来〔ヘブライ〕人の宇宙観によれば万象皆神の命令、、又は許可に依て現はるゝものにして災害誘惑の吾人に臨むも亦神の指命に依るものなりと云ふなり、是れ受動的、、許容を行動的命令と解せし事にして希伯来人、亜拉比亜人セミチック人種の内に屡々〔しばしば〕目撃する用語法なりとす、
故に之を今日の文体に訳して、「願くは我儕〔われら〕を誘惑に導くが如き境遇の我儕〔われら〕に臨むことなからしめ給へ」と読むを得べし、或は災難の我が身に臨むなくと祈るも又は我の困苦に遭遇することなくと祈ると其語法に於て異なる
ことなし。
反て悪より我儕を拯ひ出し給へ
誘惑といひ、悪といひ、両〔ふた〕つながら倫理的罪悪を指すものにして生命財産に及ぼす損失災害を称ふるものに非〔あら〕ず、誘惑は神を去て悪魔に従ふに至ることなり、悪は罪悪的状態にして吾人の其中に沈淪して真理の光明を失ひ、善を善とし視、悪を悪とし認め得ざる悲惨の極に沈むを云ふなり、身に如何なる不幸の臨むことあるも、我れ我
が神を捨て、俗に降り、俗人の法に則り、名利を以て我惟一の目的となすが如きに至るの境遇に至らざらんことを祈るなり、而して若し如斯〔かくのごとく〕境遇の我に臨む事あるも、我は真神の援助を得て此悲運に勝ちて悪心の我が裏に醸すなく、暗中尚ほ正義の光輝を認めて悪(ho poneros 或は悪き者又悪魔と訳すべし、馬太〔マタイ〕伝十三章十九節参、、考)の掌中より拯〔すく〕ひ出されんことを。
亜孟アーメンは誠意を表はすの情呼詞なり、希伯来ヘブライ語なり、ヘエミン(信ずる)アーマン(支ゆる)オーメン、、 (誠実) 等の語と語原を共にす、祈祷の終りに此情呼詞を附するは最も当然のことにして、吾人の祈願の吾人誠実の発表なる事、其内に私慾の伏在せざることを表せん為めなり、或はアーメンの語を意訳して「然かあれ」と做〔な〕す者あれども余は其説を取らず。
耶蘇は神の栄光の顕はれん事を祈り、此世の化して神聖、神の王国の如くならん事を祈れり、即ち彼は先づ神
の為め人類の為めに祈て然る後に己の為めに祈れり、亦自己の為めに祈るも福祉幸運の其身に臨ん事を祈らずして、心に真理の糧の絶えざらん事、人の罪を免〔ゆる〕すの雅量の旺〔さかん〕ならん事、悪に沈まざらん事を祈るべきを教へたり、家運長久商売繁盛を祈る普通人の祈祷と同日の談にあらず、余は読者が耶蘇の祈祷の全く無私的にして心霊的な
るに注意せられんことを願ふ。
 
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