内村鑑三 創世記 洪水以前 天地の創造(2)

天地の創造(2)
 
第廿一節 神巨〔おおい〕なる魚と水に饒に生じて動く諸ての生物を其類に従ひて創造り、又羽翼ある諸ての鳥を其類に従ひて創造り給へり、神之を善と観給へり。
「巨なる魚」tanninim 巨獣、異形の動物なり、必しも魚類に限らず、或は長さ八十尺に達せしと云ふHadro-saurus の如き者を云ひしならんか、其処蛇首魚体のElasmosaurus の如きを指せし者ならん乎、海中に巨獣ありとは古代より人の一般に信ぜし所、今日尚海蛇にして長さ数哩〔マイル〕に達するものありと信ずる人あり、亦鱷魚〔がくぎよ〕の如き、鯨魚の如き其動物学的に魚類に属すべからざるものなるも亦此「海中の巨獣」の中に数へられしなるべし。
「水に饒(さわ」に生じて動く諸〔すべて〕の生物〔いきもの〕」、単虫類、滴虫類、水母類、硬殻類、烏賊〔いか〕、鯣(するめいか)、章魚〔たこ〕、鸚鵡螺〔おうむがい〕等の軟躰動物類〔くらげ〕、鰊〔にしん〕、鰮〔いわし〕、鰍〔かじか〕等の総ての魚類、総て水中に生息するあると凡〔あら〕ゆる動物、水は彼等を以て充たされ、其饒多(じゅうた)なる事顕微鏡下の一滴に尚ほ数百千の動物の群聚するを以て知るを得べし、滄海無窮なるが如しと雖〔いえど〕も是れ亦〔また〕生気の充満する所、千尋の底亦死陰の谷にあらず。
水界然り、気界亦然り、水中に鰭〔ひれ〕を有するものありて気中に羽翼を有するものあり、神の霊は宇宙に充満す、到る処として生ならざるはなし。
神は魚と鳥とを「創造〔つく〕り」給へりと、あり、地をして植物を「発生」さしめしが如くならず、地上に於ける動物の発顕は神の特別の始造に因りしものなるを示す、本能、意志、智能を有する動物は僅に栄養力を備えたる植物に比して全く類を異にす、動物の創造を俟〔まち〕て生命は其固有の性を以て此地に臨めりと称〔い〕ふを得べし。
 
第廿二、三節 神之を祝して曰く生めよ繁息よ、海の水に充てよ、又禽鳥は地に蕃息よと、夕あり朝ありき是五日なり。
 
動物に至て始めて神の祝福あり、是れ造化の偉業の其終結に達せんとしつゝあるの兆なるが如し「生めよ、繁息〔ふえ〕よ」と、生物の蕃殖(はんしょく)力に驚くべきものあり、鱈魚〔たら〕は一尾にして四百万粒の卵子を産す、若し之をして悉く孵化するを得せしめば二十年を出ずして一尾の雌魚より地球の重量に五百万倍するの鱈魚は産すべき筈なり、穹蒼有て之を飾るの星なかりせば宇宙は曠空の淵たるのみ、海有て之を充たすの魚なかりせば是れ「死海」の苦きに過ぎて四辺に荒癈を来たすの類なるべし、天の面に鳥飛ぶなくんば吾人の頭上亦寂漠たる虚空たらん、生々たる宇宙の其内に生物の充満するが故に吾人は此地を称して「生者の地」とは云ふなり、斯〔か〕くて死せる岩石より成りし地球が生物の棲家となるに及んで造化の五日はまた希望の朝を以て終れり。〔以上、1124
 
第二十四節 神言給ひけるは地は生物を其類に従て出し、家畜と昆虫と地の獣を其類に従(したがい)て出(いだ)すべしと即ち斯くなりぬ、
「生物」、地の生物なり、第二十節に於ける水の生物に対して云へるなり、
○「昆虫(はうもの)」、希伯来〔ヘブライ〕語のremesh の訳詞としては甚だ不適当なるものなり、之を利未〔レビ〕記第十一章四十二節に於けるが如く「四足にて歩く者」と読むべし、ゲセニユス氏の説に依ればremesh は鼠の如き小哺乳動物を意味する詞なりと云ふ、
○「家畜」は馴れたる動物にして「地の獣」は野獣なり、勿論人の未だ造られざる前に家畜の有るべき筈なけれども、是れ家畜たるべき獣類を指して云へるは明かなり、獣類全躰の受造を説けるが故に斯く区別して云ひしなるべし。
 
第二十五節神地の獣を其類に従て造り、家畜を其類に従て造り地の諸てのはふものを其類に従て造り給へり、神之を善と観給へり、
「造り給へり」創造と云はず、動物的生命は既に水産動物受造の時に此世に注入され、獣類の受造は其継続事業たればなり、
「其類に従て」瑞西〔スイス〕国有名の博物学者ルイアガシ(後に米国に帰化せり)の説に大模型的造化(archtypal creation)の語あり、即ち生物は凡〔すべ〕て或る大模型に従て造られしとの説なり、創世記々者の説或はアガシ氏の此説に類せしものならんか、即ち神は動植物を造り給ふに方〔あた〕り先づ其模型を造り、然る後総て之に従て造化を行ひ給ひしとの意ならんか、是れ特別造化説の最も極端なるものなれども、然も其中に亦深き科学的真理なきにあらず、
「神之を善と観給へり」是にて先づ人類以下の造化を終へ給へり、始に光(ひかり)現はれ、穹蒼(あおぞら)成り、水と陸とは分たれ、陸上に草木出で、天躰の光明地上に達するに至り、水中に動物饒(さは)に生じて、終に陸上に高等動物の繁殖するに至りぬ、若し造化にして之に止まりしならん乎、地上に罪悪なるものはなくして為めに涙と悲哀とはなかりしならん、吾人は無辜〔むこ〕の天然物を愛する余り時には造化の茲〔ここ〕に止まりしことを願ふことあり、然れども俟〔ま〕て、罪悪と共に救済は此世に臨みしなり、悲哀に勝つに足るの歓喜は吾人に供せられたり、若し地上に獣類以上の造化なかりしならば、ミルトンの「失楽園」は何処に於て歌はれし乎、ラフハエルの「聖母」は何処〔いずこ〕に於て画かれし乎、花は咲き鳥は囀〔さえ〕ずるも之を歌ふの詩人なかりせば彼等何の用かある、造化若し獣類に於て止まりしならば〔一〕ッの意味なき隠語たるのみ、牛は之を飼ふの人を要し、馬は之を御するの人を要す、人なきの造化は首なきの躰なり、躰は首の予言にして、物質的宇宙は完全を告げて、人類の受造は必要に迫れり
 
第二十六、七節神言給ひけるは我儕に象て我儕の像の如くに我等人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸てのはふものを治めしめんと、神其像の如くに人を創造り給へり、即ち神の像の如くに之を創造り、之を男と女に創造り給へり。
「我儕〔われら〕に象〔かたどり〕て我等の像〔かたち〕の如くに」、の如くには前説に於けるが如く従てと読むべし、他の動物は其類に従て造られしもの、人のみは神の像に従て造られしとなり
神の像とは如何なるものぞ、神に実に像(かたち)あるや、神は霊にして像なきものならずや、是れ困難にして而も有益なる問題なり、神に像なしとならば宇宙は何物なるや、是れ神の躰躯にあらざるか、是れ神の衣裳に止まる乎、人は小天地なりと云へば天地は人の巨大なるものにあらざるか、余は人の手を以て作りし偶像を神として拝するを好〔この〕まず、然れども若し此無辺の宇宙にして神の像なりとせば余は其説を拒〔こば〕むを好まず、宇宙とは勿論此塵埃(ごみ)大の地球を指して意ふにあらず、太陽系亦〔また〕宇宙の一小部
分たるに過ぎず、宇宙は宇宙の集合躰なり、吾人の属する宇宙あれば、亦吾人の宇宙外の宇宙あり、彼の星雲と称するものゝ或者は宇宙外の宇宙を遠距離より望みしものなりと云ふ、然らば宇宙は無限大にして、人類が曾〔かつ〕て製
作せし最も完全なる望遠鏡の視察区域内にある宇宙は全宇宙の一小部分たるに過ぎず、吾人は肉眼を以て宇宙の全部を見る能〔あた〕はず、然れども吾人は小宇宙より推して大宇宙の何たる乎をほゞ知り得るなり、宇宙の宇宙たるは
其部分は総て能〔よ〕く其全部分を代表するにあり、吾人若し宇宙を望遠鏡内に望むを得ずんば之を顕微鏡下に察するを得るなり、宇宙は大にして完全なるのみならず亦小にして完全なるものなり、星雲も宇宙の一部分なれば菫花(すみれ)も亦宇宙の一部分なり。
 
「神はその像〔かたち〕に従て人を造り給へり」と、又「真正の神殿は人なり」と、又「爾曹〔なんじら〕は神の殿(みや)にして神の霊 爾曹〔なんじら〕
の中に存す」と、然らば人の躰躯は宇宙に象〔かたどり〕て造られしものにあらざるや、而して宇宙若し神の躰にして人若し宇宙に象て造られしならば、人は彼の外形に於ても亦神の像を現はすものにあらざる耶〔や〕、神よ、願くは我が此気儘なる想像(ワイルドイマジネーシヨン)をゆるせよ、余は汝を人類視(anthropomorphize)せんとするに非ず、余は人を汝が彼に与へ給ひにし適当の高位にまで引き上げんとするなり、人は彼自身の肉躰を見るに常に卑賎の念を以てし、之を獣類のそれに比し、単に肉塊なりと称し、其如何に貴重にして如何〔いか〕に神聖なるものなる乎を知らざるなり、彼は彼の躰を汚す時に神の像を汚すものなる事を知らざるなり、聖なるかな聖なるかな万軍の主ヱホバよ、我等の霊は実に汝の像に象(かたど)られて造られし聖き神殿に宿るものならずや。
もし吾人人類の躰躯(からだ)の神形説(読者余の此不敬の語を許せよ)に就て疑を懐くことありとするも、吾人の意志並、、に思惟の神のそれ等に象られて造られしものなる事に就ては何人も疑を存すべきにあらず、若し肉躰にして動物、、
的なりとするも霊魂とマインドとは確に神的なり、吾人は万物を感ずるのみならず亦之を識るの力を有す、之を知覚(ペルシーブ)し得るのみならず亦之を概念(コンシーブ)し得るなり、「我儕〔われら〕信仰に由て諸(すべて)の世界は神の言〔ことば〕にて造られ、如此〔かく〕見ゆる所のものは見るべき物に由〔より〕て造られざることを知る」(希伯来〔ヘブル〕書第十一章三節)、是れ決して人類以下の動物の為〔な〕し得る所のことにあらず、我等は物質以外に亦〔また〕心的宇宙を有し、其処に思ひ、泣き、喜び、敬ひ、且つ憎むなり、吾人は此霊性に於て確かに神に象られて造られし者なり。
其躰(からだ)は直立にして天を仰いで地を眺めず、其心は超物質的にして、之を包む躰躯を離れて其物自身にて完全し且つ満足す、彼が万物の長たるは彼の全部の構成に照して明かなり、神が彼をして「海の魚と天空の鳥と家畜と
全地と地に匍〔は〕ふ所の諸〔すべ〕てのはふものを治めしめ」給ふは彼の身心の共に証(あかし)する所なり、彼が時には牛に向て「汝は我が神なり」と云ふて之に事〔つか〕へ、帝王の乗る馬なればとて之に向て敬礼を表し、神の使者なればとて蛇を敬ひ、甚だしきに至ては金と銀とに使役せられて之を使役し得ざるに至るは是れ彼が人たるの威厳を放棄して罪悪の縲絏〔なわめ〕に縛られし時の状なりとす。
「之を男と女に創造り給へり」、神は単独にて完全なる者なり、然れども人を造〔つく〕り給ふに方〔あたつ〕て彼は之を男女に創造〔つく〕り給へり、即ち完全を割きて二となし、二者相合するにあらざれば完全なること能はざらしめ給へり、結婚の神聖は実に此に原因す。
「創造り給へり……創造……創造り給へり」、一節の中に創造を三度重複す、以て創世記々者が人の創造を如何に重要視せしかを知るに足る、無より有を創造りし神、死物より生物を創造(つく)りし神は、獣類の上に特別に人を
創造(つく)り給ひしとなり、殊に「其像の如くに人を創造」を二度重複するを以て神と人との間に存する関係の親密なるを強言し給ひ、又「之を男と女に創造り給へり」と言ひて、男女の別は神の特に定め給ひしものなるを示し給
ふ、万物は勿論皆な神の造化に成りしものなりと雖(いえ)ども人は特別に彼の精工を凝せられし者なり、人を以て特別に「神の子供」と称するは之が故なり、聖書が其始より終に至るまで人類の救済を以て神の最大事業なりとして
吾人に教ゆる所以〔ゆえん〕のものは吾人人類は神の特別に聖意に留め給ふ所のものなればなり。
第二十八節神彼等を祝し、神彼等に言ひ給ひけるは生めよ、繁殖(ふえ)よ、地に満盈(みて)よ、之を服従(したがは)せよ、又海の魚と天空の鳥と地に動く所の諸の生物を治めよ、
「生めよ、繁殖よ、地に満盈よ」、人口の増殖を怖るゝ勿〔なか〕れ、地は人の占有すべきものとして彼の為めに備へられたり、是〔ここ〕に五千二百五十万方哩〔マイル〕の陸面あり、而して其今日の人口は僅〔わず〕かに十四億八千万にして、一方哩(マイル)僅(わず)かに二十八人に過ぎず、之を白耳義〔ベルギー〕国に於ける一方哩(マイル)内に住する三百五十人に比すれば世界の陸面は尚ほ今日の人口の十四倍を納るゝに足るなり、汝の住する一小邦を以て汝が神より賜ひし地球なりと思ふ勿れ、汝は週囲二万五千哩の地球を賜はりしなり、而してブラジルの平原、満州の平野亦〔また〕汝の属(もの)なり、生めよ、繁殖よ、平和的に膨脹せよ、心に神を信じ、手に鋤〔すき〕を取りて世界至る所に汝の納(い)れられざる所はなかるべし、汝マルタスの人口制限論なるものを信ずる勿れ、是れ貴族を保護せん為めに世に出でたる最も反聖書的の経済説なり、先づ膨脹の策を講ぜよ、然る後に生めよ、繁殖よ、箴言〔しんげん〕十四章二十八節に曰く「王の栄は民の多きにあり、牧伯の衰敗は民を
失ふにあり」と、人口増殖の方法を講ずるは神の聖旨に適し、愛国の精神に合ふ。
「之を服従(したがは)せよ」、他人の国を奪へとの意にあらず、服従は此場合に於ては開拓の意なり、荒野を変じて田園となせよ、地の与へ得る総ての産物を獲よ、但〔ただし〕之を卑賎なる肉慾のために消費する勿れ、且つ神の給ひし地を利用すると同時に其森を剥〔は〕ぎ、其地を枯らして、造化の目的を妨ぐる勿れ。
「諸(すべ)ての生物を治めよ」、之を汝の属(もの)として利用するのみならず、是れ皆な神の造り給ひしものなれば之を保護し、其発達を助け、其生活をして可成丈〔なるべくだ〕け快楽ならしむべし、牛は人が其肉を食ひ其乳を飲まんが為めにのみ造られしものにあらずして、亦彼の労働の友となりて彼を慰めんために造られしものなり、羊は彼に毛と肉とを供せんが為めにのみ造られしものにあらずして、彼の孤独の時の侶伴〔りよはん〕たり、又彼に服従信頼の教訓を伝へんために彼に与へられしなり、馬然り、犬然り、鶏然り、鵞然り、其他野を走る獣、天空(そら)を翔ける鳥にして然らざるものあらん歟〔か〕、之を愛して之に就て学べば物として宇宙の大真理を吾人に伝へざるはなし、彼のダーウヰン氏が蚯蚓(みみず)に就て土壌構成の理を学びし如き、是れ実に万物の長たる人が万物を治むるの途ならずや。
第二十九節神言給ひけるは視よ我全地の面にある実蓏のなる諸の草蔬と核ある木果の結る諸の樹とを汝等に与ふ、是は汝等の糧となるべし、
此処に記されたる二種の植物に就ては本章第十一、十二節に対する註解を見らるべし
○此処に人類の食物として肉類の記載されざるを見れば、創世記々者の説に依れば人類は元来菜食動物として造られし者なるが如し、今日西洋諸国に於て多くの有名なる慈善家が獣類の屠殺を非難するは実に深き人類的観念に基因することゝ云はざるべからず。
第三十節又地の諸の獣と天空の諸の鳥及び地に匍ふ諸の物等凡そ生命ある者には我食物として諸の青き草を与ふと、即ち斯くなりぬ。
人類菜食説のみならず、諸(すべて)の動物の非肉食説も前後両節に依て宣〔の〕べられしが如し、世に肉食動物ありて地上に悲劇を演ずるに至りしは人類の堕落以後にありしとは古き神学者の唱へし所なるなれども吾人は今や地質学の発
見に依て其全く妄説なるを知るに至れり、然れども人類の罪悪なるものは始祖の堕落を以て始まりしものにあらざるを知て、彼の古代の神学者の説も亦強〔あなが〕ち直に放棄すべきものにあらざるを諒〔りよう〕すべし、吾人をして古人の言を其儘(まま)になし置かしめよ、思想の進歩は或は吾人今日の結論をして亦妄説たらしむるに至るやも計られず(以賽亜〔イザヤ〕書第十一章七節「獅子は牛の如く藁(わら)を食ひ」の語を参考せよ)
 
第三十一節神其造りたる諸ての物を視給ひて甚だ善かりき、夕あり朝ありき是六日なり、
造化の宏業終結を告げ、神之を視察し給ひて甚だ満足し給へり、善と見給ひしのみならず、善かりきと念じ給へり、勿論其完成は数十百世紀の後にあるならん、然れども神の像に象〔かたど〕られたる人類の地上に出でゝより造化は
茲に一段落を告げて其発達の第二期に入れり、是を称して神の安息日とは云ふなり。〔以上、明治34122