内村鑑三 マタイ伝 29講

29 マタイ伝
 
主の祈祷と其解釈―その1
(六月十五、廿二日)
大正8910日『聖書之研究』230  署名内村鑑三 藤井武 筆記
 
「主の祈祷」は基督者の何人も口にする所である、世界に知られたる語として斯の如〔ごと〕きはない、其の人類の歴史に及ぼせし感化力に言ひ尽すべからざるものがある、世界に於ける最大の思想最大の文学は実に此簡単なる「主の祈祷」であると言ふ事が出来る。
曾〔かつ〕て米国第二期大統領たりしジヨン・アダムスは其後久しく上院議員として奉公した、彼は或時国事を議せんが為め華府(ワシントン)に赴き一旅館に多くの政治家と同宿した事があつた、一同将(まさ)に寝(ねむり)に就かんとする時偉人アダムスは独りベットの上に俯伏(ふふく)し恰(あたか)も母の膝に頼れる小児の如き態度もて声を発して「主の祈祷」を始めた、何処(いづこ)も同じく崇厳(そうごん)の念に乏しき政治家等之を聞いて怪しみ彼に問うた、アダムス乃〔すなわ〕ち答へて曰〔いわ〕く「之れ余が母の膝下にて教へられし主の祈祷である、爾来〔じらい〕余は未〔いま〕だ曾て此祈祷を献げずして寝に就きし事がない」と。
実(まこと)に基督者(クリスチャン)は皆祈る、祈らざる者は基督者ではない、然(しか)るに或〔あるい〕は曰〔い〕ふ者がある「我は心中にて祈るも之を口に発せず」と、恰も祈る事が偽善者の所為なるが如き口吻(こうふん)である、誤謬(ごびょう)之より大なるはない、人皆心中に願(ねがひ)がある、基督者が其心中の願を父に向て発表するもの之れ即ち祈祷である。
然らば祈祷は如何なる態度と如何なる言語とを以て為すべき乎、馬太〔マタイ〕伝六章五節以下は此問題に就て我等に教ふるものである。
第一、如何なる場所にて祈るべき乎、「汝祈る時は厳密(ひそか)なる室に入り戸を閉ぢて隠れたるに在〔いま〕す汝の父に祈れ」、祈祷は父との秘密の会話である故に人の見えざる所にて祈るべきである、然らばとて勿論〔もちろん〕共同の祈祷を怠るのではない、共に為す祈祷あり又各自厳密なる所にて為す祈祷あり、而〔しか〕して交際の最も親密なるものは人の見えざる所にての交際なるが如く祈祷の最も深きものも亦隠れたる所に在ての祈祷である、或は住宅内に特別の一室を定めて、或は山上に於て林中に於て河畔(かはん)に於て、凡(すべ)て人の見えざる所ならば何処〔どこ〕にても可なりである、斯〔か〕く祈祷の為に定めし場所ほど美しき印象(いんしょう)を人に残すものはない、余輩の記憶に止まれる最も美〔うる〕はしき地は皆祈祷の場所である、祈祷の森、祈祷の小丘(をか)、祈祷の川端(かわばた)である、試に何人にも聞えざる原野の中央に立ちて大声を発して父に祈れ、日光又は函根の山中深く分け入りて己が胸底の願を悉〔ことごと〕く祈り見よ、祈祷の果して聴かるゝ耶否耶〔かいなか〕の問題を離れ、斯る祈祷其者が如何に我等の心を聖むる乎又神の如何に我等に近く在すを感ずる乎を実験するであらう。
想ひ起すは余輩の青年学生時代である、始めて祈祷の何たるかを知りてより同信の友等皆毎夜外に出でゝ各自己(おの)が祈祷の場所を選定した、彼処〔かしこ〕には誰も居るまじとて到り見れば、何ぞ図らん既に其所〔そこ〕にて祈れる友あり、又或時友を尋ねて其室に入れば独り卓上に俯して祈れるを発見する事も屡々〔しばしば〕あつた、斯〔かく〕の如き経験が相互の親密を助けし事如何ばかりなりしかを知らない、殊に其友に対して疑惑(ぎわく)を抱き居りし場合の如きは却〔かえつ〕て自〔みずか〕ら耻ぢざるを得なかつたのである、祈祷の場所を有せざる人、隠れたる所に在て独り祈る事を知らざる人は最も憐むべき人である。
 
次に如何なる言語を以て祈るべき乎、「汝等祈る時は異邦人の如く重複語(くりかへしご)を言ふ勿〔なか〕れ」、願ふ所の聴かれんが為には幾度〔いくた〕びか叩頭(こうとう)して其言語を反覆(はんぷく)せざるべからずとするは凡俗の思想である、浅草観音又は本願寺等に於ける普通の祈の如何に重複語多きかを見よ、かの浄土宗の如き優秀なる宗教に於てすら弥陀(みだ)の称号の反覆に重きを置くのである、天主教にも亦(また)ローザリーなるものがある、之れ祈祷の数(かず)を算へんが為の珠数(じゅず)の一種に外ならない、或る天主教僧侶が仏教国に赴(まね)きて珠数を見るや「悪魔は祈祷の方法までを真似(まね)たり」と言ひしとの事である、然しながら基督者の祈祷は意味深長にして言語簡潔なるを貴ぶ、徒らに重複語を発するは父の喜び給はざる所である、斯く言へばとて必ずしも長き祈を斥(しりぞ)くるのではない、曾て或る宣教師(彼れは余の教会観に対する大なる反対者であつた)が余の問に答へて彼が一日中僅〔わず〕かに二十分を祈祷の為に費すにさへ大なる困難を感じ其間屡々悪魔の妨害を受くと言ひし時、余は彼に告げて曰うた「余輩の同志の中には毎日少くとも三時間を祈祷の中に過す人がある、彼が早朝祈祷の座に臨むや心中爽快(そうかい)にして小児の遊山(ゆさん)を喜ぶが如し、彼の衣服は常に膝の部分より截断(せつだん)すとは其姉なる人の言である、誰の衣服が祈祷の為に截断するに至る乎」と、長き祈祷を非とするのではない、無意味なる語〔ことば〕の反覆を誡むるのである、短くして強き語を以て我等は神に近づくべきである。
最後に如何なる状態に於て祈る可き乎、此問に対して教へられしものが即ち「主の祈祷」である、先〔ま〕づ之を大体に於て見るに初に「天に在(ましま)す我等の父よ」との呼び掛けの辞(ことば)あり、終に「国と権(ちから)と栄(さかえ)は窮(かぎり)なく汝の有(もの)なればなりアメン」との総括の辞がある(此一句は或は後に教会にて作りし祈祷の語の挿入せられしものならんとの説がある)
而して其間に六又は七の祈願がある、即ち「我等を試探(こころみ)に遇せず」と「悪より拯(すくひ)出(だし)し給へ」とを二箇の祈願と見る時は総〔す〕べて七である、聖書に於て三は天に係(かか)る数、四は地に係る数にして七は完全を表はす数である、七句より成る主の祈祷中天又は神に係るもの三、地又は我等の肉と霊とに係るもの四、前半は天的にして後半は地的である、神に関する祈は先にして我等に関する祈は後である、「主の祈祷」を学ぶに当りまづ此区別を知らなければならない。
祈祷の第一は「願はくは聖名を崇〔あが〕めさせ給へ」である、普通の祈は皆自己の事を以て神に迫る、神に関しては我等の祈を要せず、我等苦める者貧しき者こそ祈らざるべからずと言ふ、然しながらイエスの教へ給ふ所は全然之と異なる、我等の祈の第一の題目は神でなければならない、神の聖名(みな)の万民に崇められん事、之れ基督者の祈祷の
第一条たるべきである。
 
次に「聖国(みくに)を臨(きた)らせ給へ」と言ふ、神の国が此地上に来臨せん事である、天は天として存(のこ)らず、地は地として存(のこ)らず、天が地に来りて此所〔つい〕に実現せん事である、一国又は一社会の為の祈ではない、全地球全人類に関する祈で
ある、初は神が天に在すも其聖名の崇められん事を祈る、然し乍〔なが〕ら遂には神の天より地に降臨し給はん事が我等の第二の祈願たるべきである。
「聖旨(みこころ)の天に成る如く地にも成させ給へ」、唯(ただ)に神の国の地上に来臨するのみならず、次に其感化が各自に及び神の心意(こころばせ)が各自の心意となり各自が実(まこと)に神の子とならん事を祈る、仮令(たとへ)キリスト来りて完全なる政治を行ひ社会の罪悪を悉く除き給ふとも各自が神の心を以て己が心とするに非ざれば其恩恵に与〔あずか〕る事が出来ない、故に地に降りし神が更に各自に入り込み之を全く占領し給へと祈るのである、此祈ありて「聖国(みくに)を来らせ給へ」との祈も初て完成するのである。
斯の如く先づ神と天とに関はる祈である、而して後に我等の霊に関はる祈である、我等の祈祷は之を以て始まらなければならない、「天に在す我等の父よ」と言ひて直〔ただち〕に自己に関する願を繰返すが如きは基督者の祈祷ではない。
次に「我等の日用の糧〔かて〕を今日も与へ給へ」、茲〔ここ〕に「日用」と訳せられたる語は大なる難語である、其の果して何を
意味するかは聖書学者の頭脳を砕くも未だ明解を下す能はざる所である、然しながら其如何〔いかん〕に拘〔かかわ〕らず明白なるは「糧」とはパンなる事である、之を霊的の糧又はキリスト又は聖霊等の意に解する者あるも、此単語の意味は誤(あやまり)なくパンである、即ち我等はパンに関して神に願ふ事を許さる、生計問題決して神の顧み給はざる所ではない、特に現今の如く世界に亘りて食糧の欠乏(けつぼう)を告ぐる時に当り此事を我等の祈祷の中に加ふるを得るは誠に大なる恩恵である、但〔ただ〕し「我等の糧を今日与へ給へ」である、明日又は明後日、子々孫々に至る迄の財産ではない、今日之を与へ給へと祈りて衣食住も亦神聖なる祈祷の題目となるのである。
「我等に負債(おひめ)ある者を我等が赦(ゆる)す如く、我等の負債(おいめ)をも赦し給へ」、罪の問題である、体を離れて再び霊に帰る、神に我等の罪を赦されん事は来るべき聖国(みくに)を迎ふるが為に必要なる準備である、罪を赦されずしてキリストの聖国(みくに)の一員となる事は出来ない、罪を赦されずして未来の恩恵を受くる事は出来ない、而〔しか〕して神に罪を赦されんが為には自〔みずか〕ら先づ我が敵を赦さなければならない、「汝もし礼物(そなへもの)を携へて壇に往きたる時彼処(かしこ)にて兄弟に恨まるゝ事あるを憶ひ起さば其礼物を壇の前に置き先づ往きて汝の兄弟と和〔やわ〕らぎ後来りて汝の礼物を献げよ」とある、神に祈らんと欲せば先づ兄弟と和睦して其罪を赦すべきである、我が衷に赦すべからざる怨恨を懐きながら神に祈るは神を穢すの最も甚だしきものである、祈祷は其前に適当なる準備を要する、教会内に言ふべからざる罪悪の充つ
る時如何に祈るも主は之を聴き給はない、「我等に罪を犯す者を我等の赦す如く我等の罪をも赦し給へ」である、或る天主教信者の子放蕩(ほうとう)堕落の結果友人と争ひ遂に殺さる、加害者直に其父の許〔もと〕に走りて自己の罪を告白したる時父の曰く「我之を赦す、唯願はくば我と共に主の祈祷を唱へよ、我も神に我が罪を赦されん事を欲するが故に
汝の罪を赦して汝と共に祈らん」と、実に貴き信仰である、斯の如き人が真(まこと)に基督者である。
イメージ 1