内村鑑三 創世記 第2章 洪水以前 安息日

3. 創世記第二章安息日〔第一節―第三節〕  (安息日の制定)
斯〔かく〕天地及び其衆群(しゅうぐん)悉(ことごと)く成りぬ、第七日に神其造りたる工(わざ)を竣(おへ)たまへり、即ち其造りたる工(わざ)を竣(おへ)て七日に安息(やすみ)たまへり、神七日を祝して之を神聖(きよ)めたまへり、そは神其の創造(つく)り為〔な〕し給へる工を尽〔ことごと〕く竣(おへ)て此日に安息(やす)みたまへばなり。
「衆群」天に在ては日と月と星と、地に在ては草と樹と魚と鳥と獣と、単に空漠たる天地のみならず、其中に充牣る総ての物体を造り給ひぬ
「成る」は第二節に於ける「竣(おへ)り」と同一の詞なり、完結を告げしの意なり
「工」、物質的造化を意〔おも〕ふ、人は神に象(かたど)られて創造せられしも未だ神の生気の其鼻に嘘入(ふきい)れられざるが如し(第七節を見よ)、工を竣へりとは造化の最大目的たる霊気発育の準備は成れりとの意なり、恰も王子を入るゝに足るの宮殿はその工を竣へりと云ふが如し、第七日に工を竣へりと云ふは勿論第七日までに之を竣へりとの意なるは前後の連続に照して明かなり○「安息(やすみ)たまへり」、疲労を癒さんがための休息にあらざるは明かなり、そは全能の神に懦弱(よわ)き人間に於けるが如く休息の必要なければなり(詩篇百二十一篇四節)、神に在ては安息は停止の意ならざるべからず、而して之れ亦余儀なくされての停止にあらずして、任意的停止なるは論を俟〔ま〕たず、造化の偉業一先づ完結を告げ、神之を善(よし)と観給ひて、茲に創刱〔そうそう〕の業を停止し給へりとの意なるべし
○「神聖(きよめ)たまへり」、或は之を聖別すと云ふ、特別に神のものとして定め給へりとの意なり、万物皆な神のものなれども彼は特別に或る者を以て彼のものと定め給ふ、「ヱホバ、モーセに告げていひ給ひけるは、人と畜(けもの)とを論(い)はず、イスラヱルの子供の中に始めて生れたる首生(うひご)をば皆聖別(きよ)めて我に帰せしむべし、是れ我が所属(もの)なればなり」と( 埃及〔しゆつエジプト〕記十三章一、二節) 又ヱホバ、預言者エレミヤに曰ひ給ひけるは「我れ汝が胎を出ざりし先に汝を聖め汝を立て万国の預言者となせり」と、而して神は人と畜(けもの)と物とを聖別し給ふのみならず、又時をも聖別し給ふなり、故に神が第七日を神聖め給ひしとは特別に之を神の日として定め給ひしとの意なり、安息日の制度は実に神の此聖旨に原因す、
○「そは神其創造り為し給へる云々」是れ神が安息日制度を定め給ひし理由なりとす、即ち是れ宇宙の竣工を紀念するための祝日なりとの意なり、安息日の起因何ぞそれ宏遠なる。
安息日は大問題なり、然れども此処は安息日制度に就て詳論する所にあらず、余輩は纔〔わずか〕に左の考説を提するに止むべし。
神が工を竣て七日に安息(やすみ)たまへりと云ふも是れ神が全くその創造的活動を中止し給へりとの意にあらざるは明かなり、そは宇宙は神なくして存在し得る者にあらざるのみならず、亦進歩と云ひ発達と云ふも是れ神なくして行はるべきものにあらざればなり、十八世紀の末つ頃に自然神教徒(Deistヂースト)なる者起りて神は創造を竣〔お〕へて後宇宙を全く彼の手より離し、彼は今は全く其外に立て其運行発育には少しも干渉し給はずとの説を主張せり、是れ
稍々〔やや〕理あるが如くに見ゆれども、然も吾人の深き心霊的実験に照して、亦人類の歴史の趨勢に稽〔かんが〕へて其妄説たるを証するに難からず、宇宙は或る一方面に於てのみ完成を告げしものにして他の方面に於ては今猶ほ創造を続けられつゝある者なり。
然らば何の意味に於ての「竣工」なりしやと云ふに、勿論形而下的造化の竣工を云ひしものなるは明かなり。山成り、河成り、地は人類発育の為に用意せられて茲に造化は其第一期を去て第二期に入りしなり、勿論其地層に於て多少の変遷はありしならん、或は二三の星は失せしならん、亦二三の星は新たに空天に顕はれしならん、
然れども人類受造以後の形而下的宇宙は其以前のそれの如く激変活動せしものにあらざるは之を天文地理の示す所に照して明かなり、人類出顕以後の地球は実に或る地質学者の称するPsycozoic Era 即ち心的動物時代に入りしものにして、是れ特別に人類発育時代なるは識者の一般に承認する所なりとす。
 
「工(わざ)」とは実に工(こう)なり、ナイルの河底は鑿(きざ)まれて、其水流の方向と氾濫の区域とは定められたり、アルプスは建立せられて其支脈は四方に渉りて、欧大陸は地質的に数箇の小邦に区画せられたり、菫花(すみれ)と桜草とは小山を飾て詩人の来て天の美想を謡ふを待てり、丘を走るの山羊と小羊、平野に彷〔さまよ〕ふの牛と馬、人類の発育に必要なる家屋と庭園と其中の凡ての器具と象群とは悉く具はりて、造化は其第二期に入れり、此〔ここ〕に於てか神は彼の工事より安息〔やす〕み給ひて彼の教育事業を始め給へり。
神の教育事業、是をば称して歴史と云ふなり、而して歴史はヱデンの園に於ける人類始祖の試錬を以て始まり、延〔ひい〕て二十世紀の今日に至れり、歴史に戦争あり、国の興亡あり、悲劇は悲劇に次ぎ、流血淋漓〔りんり〕、之を読む者をして酸鼻の念に堪えざらしむ、然れども是れ安息時期たるなり、是れ救済の期限たるなり、多くの聖賢君子は此期限に於て此世に顕はれ、終に神の子イヱスキリストは此世に降り給ひて、我儕〔われら〕人類に死して死せざるの途を開き給へり、人類の罪悪は神をして其独子を降し給ふほどに彼の心を傷ましめたり、然れども愛の無尽蔵なる神は悪に勝つに足るの善を己れに蔵し給へば、人類の救済は期して俟〔ま〕つべきなり、今は恩恵の時期なり、人の子が神の
子となりつゝある時なり、是れ実に神の安息の時なり。
人或は言はん救済は労働の一なり、之を安息と称すべからずと、然れども是れ未〔いま〕だ真正の安息の何たる乎を知らざる者の言なり、真正の安息は労働の中にあり、労働は重荷なりとの経済学者の言は高尚なる労働に就て云ひし言にあらず、イエスヤコブの井(いど)の辺にサマリヤの婦人に天国の道を説き給ひつゝありし時に弟子達行てパンを買ひ来り、イヱスに請ひてラビ食し給へと曰ひければ、イヱス彼等に曰ひけるは我に爾曹〔なんじら〕の知らざる食物あり、我を遣〔つか〕はしゝ者の旨に随ひ其工(わざ)を成畢(なしをは)る是れ我が糧(かて)なりと(約翰〔ヨハネ〕伝第四章三一、三二、三三節〔三三、三四〕)、イエス亦彼を窘〔くるし〕めて殺さんと謀りしユダヤ人に告げて曰ひ給ひけるは我父は今に至るまで働き給ふ、我もまた働くなりと(仝五章一七節)、斯くてキリストに取ては労働は糧なりしなり、亦生命なりしなり、父の命じ給ひし工を成畢〔なしおわ〕る、
彼に取ては之に優るの快楽はなかりしなり、彼に取ては彼の全生涯が安息なりしなり、希望の播種たりしなり、善行の連続たりしなり、安息を以て労働を廃することなりと信ずる人は未だ安息労働両〔ふたつ〕ながらの真意味を知らざる者なり。
パウロは曰く「我れ若し福音を宣伝(のべつた)へ得ざれば禍なるかな」と、カーライル夫人曾〔かつ〕て或人に語て曰く「我が夫の快楽は彼の労働に伴ふて来る」と、労働は人の本性なれば働かずして彼に平和と安慰とあるなし。
愛なる神の安息は愛の事業を為すことなり、物質的造化を竣〔お〕へて心霊的事業に入り給ひし時に神の安息は始まりしなり、宇宙の創造亦神の歓び給ひし所なるに相違なし、若し然らずば彼は之を善(よし)と観給はざりしならん、然れども神の目的は物質的造化にあらざりしなり、彼が宇宙を造り給ひしは之に彼に象(かたどり)て造られし人を置て彼に彼の愛を示さんがためなりし、人にして未だ生きたる霊とならざりし間は神の特愛の事業は始まらざりしなり。
安息日の真意如斯〔かくのごと〕くなるを知て吾人は安息日を守るの途を知るに難からず、亦単に一週一日を安息日として守るのみならず、吾人の全生涯をして安息の連続たらしめざるべからず、そは神を信じ彼の救済に与〔あず〕かり、吾人の身も霊も全く之を神に捧ぐるに至て、吾人の労働は労苦たらざるに至り、走れども疲れず、歩めども倦〔う〕まずヱホバを俟〔ま〕ち望むに由て新たなる力は吾人に加へられ鷲の如く翼を張りて天に昇るを得ればなり(以賽亜〔イザヤ〕書四十章三一)。〔以上、明治34・2・22