内村鑑三 マタイ伝 55講 大工の子イエスキリスト

55 マタイ伝
 
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明治36813日『聖書之研究』43号「講演」   署名なし
 
これ木匠(たくみ)の子に非〔あら〕ずや(マタイ伝十三の五五)
彼は木匠に非ずや(マコ伝六の三)
是れは実に著(いちじるし)い言辞(ことば)であります、此言辞をキリスト信者の信仰の立場から考へて見まして其〔その〕なんと驚くべき言辞であるかゞ分(わか)ります、抑々〔そもそも〕我等はキリストは誰であると信ずるのですか、聖書の示す所に依りますれば「彼は神の栄(さかえ)の光輝(かがやき)、其質(しつ)の真像(かた)にて己(おの)が権能8ちから」の言(ことば)を以て万物を扶持(たも)ち、我儕(われら)の罪の浄(きよめ)をなして上天(たかきところ)にいます威光の右に坐し給ふ」者であります、(希伯来〔ヘブル〕書一の三)、彼は神の独子であります、人類の光(ひかり)、其生命(いのち)、希望(きぼう)と称へられる者であります、然るに斯かる者が、然り、斯かる神が、肉体を取て斯世に在り給ひし間は工匠(たくみ)の子であられて、卑しき大工(だいく)の職に従事して居られたと云ふことは是れ何たる天よりの音信であります乎、若し斯事実の中に何にか極く深い真理が籠つて居りませんならば、是れ一つの夢物語(ゆめものがたり)と見る外はありません。
然し此事は事実でありました、ナザレのイエスは予言者エレミヤのやうに祭司の家に生れませんでした、彼は亦〔また〕彼の弟子パウルのやうに博(ひろ)い神学教育を受けませんでした、イエスダビデ王の裔(すえ)でありましたが、ソロモンのやうに栄華(ゑいぐわ)の極に生れ来りませんでした、イエスは僻陬(いなか)のナザレの職工の一人(ひとり)でありました、此一事に就ては如何なる歴史家も疑問(うたがい)を抱く者はありません。
「彼は木匠にあらずや」、アブラハムの在りし先に在る者なりと自白せし者が其この世に於て執りし職は木匠(たくみ)であつたとの事であります、其事其れ自身が奇跡であつて、亦大なる福音ではありません乎、此事たる勿論我儕人類に労働の神聖を教へるための事実的教訓であつた事は誰にでも能〔よ〕く判(わか)ります、労働を侮(ぶ)蔑(べつ)するのが罪に沈める人類全体の謬見(びゆうけん)であります、斯世(このよ)の貴顕と称(い)ひ淑女と称(い)ふ者は皆労働を為(なさ)ない者であります、書を読み、国事を談じ、謀(はああかりごと)を帷幕(いまく)の中に運(めぐ)らす者が社会の上に立つ者でありまして、斧(おの)を振上げ、鋤(すき)を肩にし、額に汗して食を得る者は下層劣等の者と見做さるゝのが此世の常であります、故にキリスト降世二千年後の今日に至りましても、人は何人も学者と成らんと欲し、農家の子弟にして都に出て学を修め得ない者は斯世の最も不幸なる者であると思ひ、文を綴り、説を立て、名を天下に揚げる者を見ては頻りに其幸運を羨みます、又婦女子に至るまで田家通常の労働を以て最も無味のものと思ひ、斯世に生れ来りし甲斐には少しく宇宙の幽理を探り、社会の表面に立つて其美と善とを嘗(あじは)ひ見んなど云ふ希望を起しまして争つて近世教育の利沢(りたく)に与(あず)からんと致します、然るに驚くべき事には茲処(ここ)に人類の理想として此世に下されし者の生涯を見ますれば彼は僻陬(いなか)の大工でありまして、曾て其職に就て不満を懐(いだ)きしことはなく、彼の労働を以て能く貧家を支持(ささ)へ、其間に天地の奥義を探つて終に人類の教導師となつたとのことであります、キリストが大工の職に従事されたといふことに依て人類の労働に関する思想は一変しました、此事に由て貴賎は其社会上の地位を顛倒し、貴い者が賎くなり、賎き者が貴くなりました、神は其独子を大工の家に降し給ひまして、労働者全体に対する神の特愛を示されました、労働は最上の教育であります、是れに依らずして人生の奥義を知ることは出来ません、労働は最も力ある伝道であります、口を以てし、或は筆を以てする伝道に偽善は甚〔はなは〕だ入易くありまするが、労働のみは人を欺くことの出来ないものであります、労働は諸(すべて)の幸福の基礎(もとい)であります、人生の快味は労働を離れて得ることは出来ません、国民の貢(みつぎ)に依て衣食する人は最も不幸なる人であります、糧(かて)を他人の寄贈に仰ぐ者は危険の位地に居る者であります、基督教は労働宗であります、艶(なま)ける者は天国に入ることは出来ません、基督教の道徳より見ますれば艶惰(なまけ)は確かに重い罪の一つであります、人若し工を作すことを好まずば食すべからず(テサロニカ後書三の十)、是れは聖書の中に示されたる神の命令の最も肝要なるものゝ一つであります。
然し、私の考へまするに、労働の神聖を教ゆるのみがキリストが木匠8たくみ)として此世を過(すご)し給ひし目的ではなかつたと思ひます、キリストは特別に此卑しき職を択び給ひて我儕に斯世の真(しん)の価値(ねうち)を教へ給ふたのであると思ひます、斯世は勿論神の造り給ふたもので神聖なるものであります、我儕神を信ずる者は斯世は悪魔の属(もの)であつて、天国のみが神の属(もの)であるとは信じません、「林の諸(もろ〳〵)の獣(けもの)、山の上の千々の牲畜(けだもの)は皆な我がものなり」と神は申されました、我儕は決して斯世を以て汚(けが)らはしき所と見てはなりません、然しながら斯世は最も美い所ではありません、神は之れよりもモツト美(よ)い所を我儕のために備へ給ひました、斯世はまだ進化の段階に於て在るものであります、故に斯世を以て最善最美の所と見做すのは大なる誤謬(あやまり)であります、斯世に於て王たる者は必しも人類の王たるべき者ではありません、斯世に於て悪人の取扱を受くる者は必しも神に詛(のろ)はれたる者ではありません、斯世は試練の世であります、神を信ずる者の永久の棲家(すみか)ではありません。
故にキリストは斯世に降られた時に殊更(ことさ)らに其職業の撰択に就て心を砕かれませんでした、彼は勿論不正の業を執らふとはなさりませんでした、亦彼は彼の特性として人類多数の従事する職に就かんことを求められて、帝王とか貴族とかいふ多くの特権を持つたる階級の中に加はらんことを望まれなかつたに相違ありません、然しながらそれが平民の業で正直の職である以上はキリストは彼の執らんとする職業の種類に就ては多く心を配(くば)られなかつたやうに見えます、キリストに取ては斯世は斯世限りの俗人の思ふやうな左程に大切なる所ではありませんでした、大理石の家に住まふが、木造の家に住ふがそれは彼に取ては問題ではありませんでした、肉を食ふが、野菜を食ふが、絹を衣やうが、木綿を纏(まと)ふが、其様なことに彼は意を用ひ給ひませんでした、且又世に所謂成功なるものに就てもキリストは少しも思考(おもい)を運(めぐら)らし給はなんだと思ひます、キリストに取りては人生の目的は食ふに非ず、衣るに非ず、又必ずしも世に所謂大事を為すにもありませんでした、斯世は是れ我儕が神の光を其身に受け、其恩化に浴して次ぎに来るべき更らに栄(さかえ)ある世に移されんための所でありますから、我儕は斯世の成功に就ては世の神を知らざる人が為すやうに左程に苦心すべきではありません、「それ衣食あらば之をもて足れりとすべし」(テモテ前書六の八)、それで沢山なのであります、如何にして「成功」せんかとて心を砕く人は未だキリストの心を有つた者ではありません。故にキリストは大工の職を以て満足されたのであります、彼は救世主たるの天職を充たさんがためにはエルサレムに上りて文学、神学、哲学を研究するの必要を感ぜられませんでした、彼は亦彼が人類の模範たるの目的を達せんがためには特に教師たるの特許を人より受け、ラビと称(い)はれ、先生として崇(あが)められるの必要を感じ給ひませんでした、彼は羅馬〔ローマ〕政府の保護を藉(か)りるの必要も感ぜず、又富を作つて大に慈善を行ふの必要をも感じ給ひませんでした、若し彼と殆んど同時代のユダヤ人たりしヨセファスのやうに猶太亜〔ユダヤ〕歴史を編纂するのがキリストの目的でありましたならば、彼は羅馬の首都(みやこ)に出で大歴史家の友誼を求め、皇帝陛下の恩寵に与かるの必要もあつた乎も知れません、然しながら人類の模範とならんとのキリストの目的は、それは大工の職に居つても充分に成(なし)遂(と)ぐることの出来るものでありました、それ故にイエスは三十歳に至るまで曾て一度もナザレなる彼の炉辺を去つて遠く智識と名誉とをローマ、又はエルサレム、又は希臘〔ギリシア〕のアテンス、埃及〔エジプト〕のアレキサンドリア等に於て探り給ひませんでした、ナザレの僻村に在て、星は矢張り彼の頭上に燦然(さんぜん)として輝きました、野花(のばな)は矢張(やはり)春毎に路傍(mちばた)に神の栄光を示しました、爾うして彼の父母より学びし聖書は神の奥義を彼に伝へました、天然あり、聖書あり、労働ありて、彼は人類の模範となるに充分の機会を与へられました、故に彼は其外に何をも求め給ひませんでした、キリストの人生観を以て人生を見ますれば、是れは至て単純なるものとなります、世に所謂〔いわゆ〕る処世の策なるものは彼に取ては決して難問題ではありませんでした。
エスは大工でありました、爾〔そ〕うして人類の模範となりました、然らば今日の我儕も我儕に与へられし地位に在つてキリストのやうな人になることが出来ます、大政治家になることが出来ず、大文学者になることが出来ず、大伝道師になることが出来ませんでも、キリスチヤン、即ち小キリストとなることは出来ます、即ち人間らしき人間となることは出来ます、爾(さ)うして小キリストとなる事は名誉の一点から云ふても日本帝国の総理大臣となるよりも大なる名誉であります、富を天国に蓄ふるのは快楽の一点から言ひましても、億万の富を作るに優るの快楽であります、人生の最大名誉は大工、左官、百姓の地位に居つても博(はく)することの出来るものであります、人生の最大快楽は鋤一挺(すきいっちょう)と聖書一冊とを以て得られるものであります、何にも之を得んがために競争場裡に身を投じて、無益の争闘に身血を絞るの必要はありません。
「彼は木匠に非ずや」、我儕の模範は木匠でありました、我儕の理想は貧しき正直なる勤勉なる職工でありました、天国は何れの職業に在ても(不正なるものを除いては)達することの出来る所であります、それ故に職業撰択問題は左程に大切なる問題ではありません、最も大切なる問題は人生問題であります、赦罪問題であります、天国問題であります、我儕が斯世に在て何の事業を為(な)さう乎、それは我儕に取ては至て小なる問題であります。