内村鑑三 マタイ伝 27講

27 天国の宗教
 
天国の宗教
馬太伝六章自一節至十八節。
大正3510日『聖書之研究』166 署名内村鑑三
三月一日柏木聖書講堂に於ける講演の大意
 
慎めよ、汝等の義を、人の前に為〔な〕さゞるやう、彼等に見られんがために、若〔も〕し然らずば、報賞(むくい)を得じ、汝等の父より、天に在(い)ます。馬太〔マタイ〕伝六章一節。
「慎めよ」注意せよ、何人も陥り易き誘惑なれば、汝等も之に陥らざるやうに注意せよ。
「義」単(ただ)に正義と云ふに止まらず、すべて義(ただし)き事を云ふ、聖書に在りては「義」は広き意味の有る辞(ことば)である、
 
清廉潔白と云ふが如き単(ただ)に不義を為さないと云ふ事ではない、義は義(ただ)しき関係である、人が神に対する関係、相( あひ)互に対する関係又自己に対する関係、又神が人に対し給ふ関係、是等の関係の正当なる者をすべて義と云ふのである、故に情を離れたる乾燥無味の正義ではない、情を含みたる温(あたた)かき活ける義である、故に謂ふ、神は義(ただ)しき者なるが故に必ず我等の罪を赦(ゆる)し給ふと(約翰〔ヨハネ〕第一書一章九節)、神の義は人の義とは異なり、罪を罰する者では無くして之を赦す者である、神は義しき者なるが故に恐るべき者に非ずして愛すべき者である、彼は人に対して義しき関係を保ち給ふが故に、即ち父が子に対するの関係を保ち給ふが故に、人は憚(はばか)らずして恩寵(めぐみ)の座に来るべきである、父が其子を憐むが如く、ヱホバは己を畏(おそ)るゝ者を憐み給ふとある(詩篇百三篇十三節)、神の人に対し給ふ義は、父の其子に対する関係、即ち憐愍(れんみん)、撫育(ぶいく)、指導として現はるゝものである。
而〔しか〕して神、神たらば、人、人たるべきである、神の人に対し給ふ義は、父の其子に対する関係であるならば、人の神に対する義は、子の其父に対する関係であつて、即ち尊敬、服従、奉仕であるべきである、人が神に対して為すべき事、其事が馬太伝の此場合に於ける義である、普通一般の言辞(ことば)で以て言ふならば宗教的義務である祭事といふのは此事である、即ち人が特別に神に対して為す事である、而して神が我れ矜恤(あわれみ)を欲(この)みて祭祀(まつり)を欲(この)まずと言ひ給ひしは人が神に対して為すべき事として、彼は、人が御自身に対して為す祭祀(まつり)よりも彼等が相互に対して為す矜恤(あわれみ)の行為を嘉(よみ)し給ふとのことである。
 
「慎めよ、汝等の義を人の前に為(なさ)ざるやう云々」汝等が神に対して為すべきことを、神に見られんとせずして、人に見られんがために、人の前に為ざるやうに慎めよとの意である、今日の普通の言辞(ことば)を以て言ふならば、汝等の宗教的行為をして世人の注意を惹くための所謂〔いわゆる〕社会的運動たらしむる莫(なか)れと謂ふことである、即ちイエスは茲に特に宗教の俗化を誡め給ふたのである、宗教― 人が神に対して為すべき義― は是れ神に見られんがために神の前に為すべき事であつて人に見られんがために人の前に為すべき事ではない、故に宗教が「お祭り」に変じ、所謂年中行事の一と化せし時に、宗教は宗教で無くなりたのである。
 
然し乍(なが)ら事実は如何に? 偶像教の事は措(おい)て問はず、基督教其物さへも、今や全然、イエスの此要求に反(そむ)きたる者と化したではない乎(か)、所謂基督教的運動なるもの、其所謂大挙伝道、慈善運動、貴顕紳士招待会……是等は皆な、特に人に見られんために人の前に為さるゝ事ではない乎、若し信者の或者にして斯〔か〕かる如何(いかが)はしき運動に加はらざる者があれば、斯かる人は基督信者にすら隠遁者、神秘者、非活動者の名を附けられて嘲けられるではない乎、今や公然たらざる伝道は伝道として認められないではない乎、新聞紙に称揚(ほめたて)られ、人口に膾炙(くあいしゃ)せらるゝことが、神の栄光を顕はすことであると称(いは)るゝではない乎、宗教を社会運動と成す勿〔なか〕れ、人の評判を慎めよ、公衆の喝采を避けよとの救主の明白なる訓誡(いましめ)は忘却(ぼうきゃく)せられて、其正反対が主の名を以て教会の権能の下に行はれつゝあるのである、洵(まこと)に主の言ひ給ひしが如く、人の子臨(きた)らん時、信を世に見んやである(路加〔ルカ〕伝十八章八節)、今や信者の義は、彼等が神の名を以て為しつゝあることは、大抵は、社会運動として、人に見られんがために人の前に為されつゝあるのである。
「報賞(むくい)」報賞に人よりなると神よりなるとがある、人に見られんために、人の前に為して人よりの報賞が無いでは無い、「大に社会を益(えき)す」とか、「其勢力に恐るべき者あり」とか、「其権能侮るべからず」とか云ふ称讃の辞を以て評論家と新聞記者とは社会運動としての宗教を迎へる、然し乍ら、是れ人の施す報賞(むくい)である、上より臨(きた)る報賞は仁愛、平和、喜楽、忍耐、其類である、是れ「天に在す汝等の父より」臨る報賞であつて、此貴(とうと)き報賞に与(あず)からんと欲せば、我等は我等の義(信仰的行為)を人の前を避けて隠微(かくれ)たるに鑒(み)たまふ神の前に為さなければな
らない、社会的運動としての宗教運動に加はりて我等に信仰的に何の得る所はない、斯かる運動に従事して得る所は僅〔わず〕かに世俗の拍手喝采である、而して之に伴ふ堪え難き心霊の貧困(ひんこん)である。
神に対して為すべきの義務は斯くの如くにして為すべきであれば施済(ほどこし)(慈善)は之を静かに人の眼を避けて為すべきである、今日の孤児院や救世軍が為すやうに、箛(らっぱ)を吹き大鼓を鳴して世の注意を自己に惹くべきでない、斯かる慈善事業に益が全く無いでは無い、然し乍ら、其害たるや実に甚だしき者である、世道人心を害すること
にして善を誇示するが如きは無い、之に由て施済(ほどこし)は全然施済(ほどこし)で無くなるのである、人はたゞパンを以て生くる者に非ず、多数の施者(せしゃ)を心霊的に飢(うえ)しめて、少数の被施者(ひせしゃ)を養はんとする今日の慈善事業なる者は誉むべき賛成すべき事業ではない。
施済(慈善(ほどこし))が爾(そ)うである、祈祷も亦(また)爾うである、祈祷は今や一種の技術である、祈祷の上手がある、下手がある、或る教会に於ける祈祷の如きは専門家にあらざれば到底行(な)す能(あた)はざる事である、声の調子、楽譜の高低、唱歌隊、独吟(どくぎん)、合唱……祈祷は今や音楽の一部である、美術である、隠微(かくれ)たるに鑒(み)たまふ神に聴かれんための祈祷ではない、人の感覚を喜ばせんための祈祷である、イエスは茲に「重複語(くりかえしごと)を言ふ勿れ」と明白に教へ給ひしに
拘(かか)はらず、或る教会の祈祷文の如きは重複語を以て充満(みちみち)て居る(『公教会祈祷文』参考)、信者の祈祷は彼の心の切なる祈願(きがん)其儘(そのまま)の発表である、「天に在(ま)す我等の父よ」と、信者は子が父に語るが如くに天に在(ま)す我等の父なる神に祈るべきである、是れに技術も練習も要(い)つたものではない、飾(かざり)の無い心情有の儘の祈祷、其れが基督信者の祈祷である、余輩は羅馬天主教会や英国聖公会の祈祷文を読んで子が父に語るが如くに感ぜずして、臣下が皇帝の
前に伏奏するが如くに覚ゆる。
断食する時も亦爾うである、若し断食を要する場合があるならば、人には断食せざるが如くに見せて為すべきである、
憂(う)き容(さま)をする勿れ……首(こうべ)に膏(あぶら)を塗り、面(かお)を洗へと、断食は苦行を自己(おのれ)に課して神に願意の採用を逼(せま)ることではない、霊の要求に促(うながさ)れて自(おのづ)から為すことである、故に之に何の功徳(くどく)のあるべき筈は無い、断食を為した故に祈祷が聴かるゝのではない、熱心の余り食欲が自(おのづ)から中止するより来る断食である、基督信者に宗規としての断食は無い筈〔はず〕である、彼等が若し断食する場合には、自由に、任意的に為すのである、断食を祈祷の必要的条件と見ることは新約聖書の示さゞる所である(馬太〔マタイ〕伝九章十四節以下参照)。勿論以上を以て人が神に対して為すべき事()は尽きない、然れども之を為すの精神は之に由て観て明かである、神に対して為すべきことであれば、人に見られんがために人の前に為すべからず、然らば隠微(かくれ)たるに鑒(み)たまふ爾の父は明顕(あらわ)に報ひ給ふべしとの事である、神に対する義務、即ち宗教的道徳の精神は之にて尽きて居るのである、日を睹(み)るよりも瞭あきら)である、然し乍ら、顧(かへりみ)られざる訓誡(いましめ)にして斯の訓誡(いましめ)の如きは無い、殊に多数政治の行はるゝ今日、イエスの心霊的宗教さへ、多数の賛成に由りて其勢力を維持せらるゝが如くに思はれ、明顕(あらわ)に之を唱へざれば、之を信ぜざるが如くに信ぜらるゝに至りしは最も歎(なげ)かはしき事である、余輩が西洋人、殊に英米人の基督教に慊(あきたら)ず思ふ主なる理由は、其、隠微的(いんびてき)、心霊的(しんれいてき)ならずして、公衆的、政治的、社会的なるに在る。
イメージ 1